【1】
男は逃げた。どこをどう走ったかなど覚えていないが、とにかく逃げた。
がむしゃらに、遮二無二、一心不乱に。無様に転がりながらも逃げた。
人通りの多い大通りを、人気のない路地裏を。高校のマラソン大会でも見せたことのないような本気の走りで。
とにかく逃げなければ。
逃げなければ、殺される。
喉の奥、肺の奥から込み上げてくる血の味を無視して、涎を撒き散らしながらも男は逃げた。
――こんなことになるなんて、聞いてねぇぞ!
誰も言っていないのだから当然だろうに、男はヒィハァ息を切らしながら天に唾を吐く。
「俺が……! 俺が、何したってんだよぉっ!」
只俺は、あの子が好きで好きで好きで好きで仕方なかっただけなのに。
なのに。
なのにこの仕打ちはないだろうが!
「そういうのってさ、よくないよね」
狭いビルとビルの間。
男が逃げようとしたその先、灰色の影が気怠く批難する。
「自分のこと棚に上げて人を責めるのって」
歯の根が合わなかった。
こんな所にいるわけがない。
先程まで自分の背中を追っていたヤツが。
「アンタが追い回すからさ……あの子、精神科通院してさ、山のように薬飲んでるんだよ? ……ああ、言わなくても知ってるか。アンタ、ずっとあの人のこと見てたから。でもさ、日々弱っていく彼女見ても、何とも思わないの? それともそういうのでも興奮、する?」
息一つ切らさず。着衣も乱さず。逆光で顔は見えない。けれどきっと汗一つかいていないだろう。
女なら誰もがうっとり聞き惚れそうな深みのあるテノール。フードを被っていて顔は見えないが、声からして若い男だ。重たげな編み上げブーツをわざとらしく鳴らし、男は逃げ損ねた男との距離を詰める。
「ね。僕と一緒に警察に行こう。それが、アンタの身のためでもあるから、さ」
腰を抜かした男の眼前に、嘘のように爽やかな笑顔があった。追跡者は人の良さそうな笑みを浮かべ、男と目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。二メートル近くある長身をかがめ、呆然と口を開けるだけの男の沈黙を是と捉えたのか「交渉成立ー」と手をさしのべてきた。
「っ、誰が!」
だが男もここで諦めるわけにはいかない。警察? そんなところは御免蒙る。差し出された掌に唾を吐き、男は路地の入り口へと走る。五月にしては苛烈な日差しがすぐに肌を焼く。射貫くような光に目を潰されながらも男は逃げた。間髪入れずに追跡者が疾走してくるかと思いきや、吐きかけた唾をうげぇ、と嫌そうな声を出しながらハンカチで丁寧に拭っている。男はほくそ笑みながら「ざまぁ!」と叫んだ。
「どっけぇぇぇええええええぇぇぇええっ!」
怒号を撒き散らしながら男は再び大通りを駆け抜ける。OLが腰を抜かそうが高校生が自転車ごと転ぼうが関係ない。
「だ・か・ら! 逃げるなよ!」
猛然と追いついてくる追跡者の気迫に怖じ気づきながらも、男は全速力で逃げた。
冗談じゃない。たかだか同級生だった女をつけ回したくらいでこんな目に遭うなど、割に合わない。絶対にあの女には結婚してもらわないとこの落とし前はつけられない。未だ手前勝手な妄想を抱き続ける男の背中に追跡者の手が伸びる。男の精神は極限にまで追い詰められ、同時に研ぎ澄まされていた。血流の乏しくなった脳は短絡的にも、目の前にちらついたピンク色に手を伸ばすよう電流を発した。
「触るんじゃねぇぇぇぇっ! この嬢ちゃんがどうなってもいいのかぁぁぁぁぁっ!」
「げ」
追跡者の手が触れるより先に、男は側にいた子供を人質に取ったのだ。ピンク色の兎の耳つきパーカーを着た幼子が男の無骨な腕でホールドされている。しかもお決まりのように男がポケットに入れていたバタフライナイフを首に突きつけられて。野次馬の金切り声を破り、衆人環視の大舞台で見得を切る。
「俺を……これ以上追ってくるな。てめぇが追ってこないって分かったらこの子は離す」
何とも情けない台詞だ。鼻息荒く、男は返答を待った。
「あー…………僕的には別にいいんだけどさ……」
妙に歯切れの悪い口調で追跡者は足下の石を蹴飛ばす。いじけている子供のような仕草をしながら男に言った。
「すぐにその子、離した方が身のためだよ」
「ぁあ? 舐めてんのか、てめぇ」
まるでこれから危険なことをするかのような言いぐさに男の精神は逆撫でされた。ますます強い力で人質の子の肩を掴み、バタフライナイフをぐっと近づけた。す、と子供の細い首に薄い赤が走る。
「なんかすんのかよ? こ、この嬢ちゃんを巻き込まねぇ自信があるってのか? ば、っばばば馬鹿にすんなよ!」
男の手が子供の肩に食い込む。デザインはともかく、手触りの良い服だ。もしかしたら良家の子かもしれない。人質にとって金でも要求すれば、俺の純愛を妨げた罪に見合うかもしれない。馬鹿は馬鹿なりに馬鹿なことを考え、じりじりと距離を保ったままの追跡者に下卑た視線をくれてやる。
「なぁ、嬢ちゃんだって怖い目に遭いたかねぇだろ? さっきから黙っちゃってよぉ……怖いんか? 小便でもちびったか? あ?」
目深に被ったウサ耳フードの中を覗き込もうとしたその時――
「だぁれ、が……嬢ちゃんだぁぁああああ!」
華麗なアッパーが男の顎に炸裂した。
「ぶばぁっ!?」
子供の手とは思えないほどの堅さと、大人顔負けの腕力で繰り出された打撃に男はもんどりうって倒れた。
「この腐れ外道が。貴様の目は節穴かってんだよ。この俺様のどこをどう見たら可愛い嬢ちゃんなんだ? え?」
「可愛いは言ってないよ、兄さん」
「に、兄さん……?」
悠々と歩いてきた追跡者が、人質の子供を「兄さん」と呼んだ。ぽさりと脱げた二人のフードの下は、輝かんばかりのアッシュブロンド。追跡者は短髪、元人質はふくらはぎに届く程長く、細い三つ編みに。どう見ても小学生と高校生程度の年齢だというのに「兄さん」とは如何に? 男は回し蹴りの痛みに喘ぎながらも二人を仰ぎ見るほかなかった。
「残念だったな、腐れストーカー野郎。俺たち兄弟相手に逃げようと思ったら、NASAに入って宇宙にでも逃避行するんだな」
地に伏せたままの男の前髪を強引に掴み、子供の方が鼻で嗤った。
パンクだかロックだかよく分からない格好だ。真っピンクのウサ耳パーカー、ホットパンツ、左右色違いのボーダーのニーハイソックスに厚底靴は黒のエナメル。右目の黒い眼帯だけが少女と見紛うばかりの容貌を裏切っている。子供は間抜け面を晒す男の鼻面を無言で一発殴った。
「よし、弟よ。こいつのズボンとパンツ脱がして市中引き回しにするぞ」
「さすが兄さん、外道だね!」
底意地の悪い笑みを浮かべた兄の命を受け、弟の追跡者がいそいそと男のズボンを脱がし始めた。
「あーでもベルトはちゃんとしとけよ。シャツが落ちてきて大事な部分が見えなくなったら興ざめだからな」
「なんたる外道! もはや兄さんは人間じゃないね」
軽口を叩きつつ尋常ならざる仕打ちを行う兄弟に男は言葉にならない叫びを上げた。
「うっせーなぁ。ストーカーしてたヤツがこれくらいでビービー泣くな。なぁにが純愛だ。毎日毎日付きまとってパンツ盗んだり意味不明なポエムメール送って……てかお前、どうやって彼女のアドレス知ったんだよ? 届く度に変えてたのに」
「愛があれば何でもできるんだよ! おい! 脱がすの止めろマジで止めろ!」
「何でもかんでも愛って言うの、重いよねー」
事も無げに笑いながら大きな弟の方がついにズボンを路上に放り投げた。真っ昼間の珍事件。なぜかそこら中で写メの音さえ聞こえる。
「そこまでだ、極悪兄弟ども」
嬉々として制裁行為に及ぶ二人をドスの利いた声が制止した。面白いほどにぴたりと動きを止める二人。ぎちぎちと軋む音すら聞こえそうな動作で振り向き、
「げ」
「げげ」
蛙の潰れたような声を出した。
「次げって言ったらぶっ飛ばすぞ」
と言いつつ問答無用の拳が二人の頭に落ちてきた。
「ってーな! これ以上馬鹿になったらどうしてくれる!」
「馬鹿の自覚があったのか。それは知らなかった」
かすかにストライプの入ったダークスーツとワインレッドのシャツに身を包んだ男がふぅ、と煙草の煙と共に溜息を吐いた。明らかに堅気ではない。
「いつでもやり過ぎなんだよ、お前らは。犯人は捕まえたら即警察に渡せと何度言ったら分かる」
眼光鋭く、睥睨する。それに怯みつつも小さな兄が憎まれ口を叩く。
「だったら早くしょっぴいて行きなよ。お巡りさん」
「お……お巡りだと?」
瞠目するストーカーの目の前に、ダークスーツの男は内ポケットから取り出した手帳を見せつけた。
「警視庁の櫛灘禊だ。この極悪兄弟から通報を受けたんでね。悪いが署まで同行してもらう」
目つきの悪さと柄の悪さがもはやその筋の人だ。ストーカーは凶悪な兄弟と警察とは思えない粗暴な男の前に為す術もなく屈服した。
***
「と、いうわけで、あとはよろしく頼むよ、櫛灘さん」
「お願いします、櫛灘さん」
事務的な手続きを終え、珍妙な兄弟はしののめ署をあとにしようとした。……が、二人の首根っこを櫛灘が掴んだ。
「待て待て待て。まさかこのままお咎めなしで帰れると思ってるのか?」
「……帰れないの?」
わざと愛くるしく見える角度で小さい兄が見上げてきた。あざとい。実にあざとい。しかしそれで誤魔化される櫛灘ではない。
「帰れねぇよ。お前たち二人があのストーカー野郎を捕まえるのにどれだけのものを壊したと思っていやがる」
懐から取り出した一枚の紙。びっしりと書かれている細かな字を兄弟は顔ごと近づけて見た。
「何々……規制標識、指示標識、案内標識等標識八本、ガードレール計五十九メートル分、新垣さん宅の自家用車一台、佐藤さん宅の石垣、しののめ緑地公園の梅の木一本……」
並べ立てられた数々の器物損壊容疑にさすがの兄弟も顔を青くし始めた。
「ざっと合計八百万円。耳揃えて払ってもらおうか」
これが警官の台詞かよ。当然のツッコミすら今は言葉にできない。
「兄さん……僕たちしばらくおから生活だね」
「おから……体にいいよなー」
「請求書はいつもの所に送っておくからな」
先程まで意気揚々としていた二人の肩の落としように受付にいた婦人警官も若干気の毒そうな顔をしていた。
「成功報酬でどうにかなんねぇかなぁ……」
「さすがに必要経費じゃないだろうしね……おから生活が現実味を帯びてきたよ」
枯れ果てた台詞を吐きつつ、ふ、と弟が壁に掛かっていた時計に目を向けた。しののめ警察署のマスコットキャラクター・めめちゃんの腕が時刻を指し示す愛らしい税金の無駄遣い。時刻はまもなく午後四時――
「櫛灘さん。あの時計、おかしいですよ? まだ二時半くらいなのに……」
ほら、と差しだした腕時計は確かに二時半近くを差していた。
「お、本当だな。櫛灘さん、直しておきなよ」
「何で俺が…………おい。止まってるぞ、お前の時計」
天下の警察署の時計が狂っていてたまるか。呆れ果てたように溜息をつく櫛灘を余所に、兄弟の血色の良い顔がみるみる青くなっていく。
「なんだ? 四時だとなんかあるのか?」
ガタガタ歯を鳴らすほど震えている二人にさすがの櫛灘も悪いことをした気になる。悪いことなどしていないのだが。
「四時……それは俺たちに課せられたタイムリミットだ!」
運動会のかけっこよろしく二人は思いきり床を蹴って走り出した。
「櫛灘さん! 僕たちこれからシフト入ってるからこれで失礼します!」
「送って行ってやろうか?」
「走った方が早ぇよ! てか櫛灘さんの車にこれ以上乗りたくねぇ! 寿命が縮まる!」
失礼な文句を残して兄弟はしののめ署をあとにする。二人が残して行った風が書類をはらりはらりと舞い散らせた。
「……嵐のような人たちですね」
たまたま側にいた受付の警官が呟いた。櫛灘は何だかんだ騒ぎを起こすあの兄弟のせいでこのしののめ署には週三は顔を出しているが、今日初めて見る顔だ。探るような視線に気づいたのか、ばっと姿勢を正し、敬礼をする。
「お初にお目にかかります! 今月一日より介護休暇より復帰、しののめ署に配属されました安西薫と申します! 警視庁の櫛灘警部のお噂はかねがね耳にしておりましたが、こうして挨拶できて光栄です!」
「……あ、そ」
どんな噂を聞き及んでいるのか知らないが、どうせろくなもんじゃない。櫛灘は溜息混じりに鼻を鳴らした。
「だったらあの二人のことは覚えておくといい。これから嫌でも関わり合いになるからな」
さも面倒くさそうに中途半端なオールバックをかき上げ、余計にぐしゃぐしゃにする。櫛灘の悪い癖だ。そんなことだから頭にヤのつく職業の人と間違われるのだ、とそのフロアにいた警官たち誰もが心の中で思った。櫛灘本人だけが何食わぬ顔で嵐の去った扉の方を見ている。
「あれは八月朔日宮兄弟だ。兎の耳つけたパーカー着ているふざけたチビが八月朔日宮玩馬。んで、間の抜けた話し方する図体のでかい方が志熊。一応玩馬が兄で、志熊が弟だ」
「…………随分小さい兄と大きな弟ですね」
「気にするな。あの二人はさっきみたいにストーカー退治やら、警察に頼りたくない金持ち相手や警察が動かない相手の身を守る民間ボディガード会社〈しののめガードサービス〉をやってる。事件がなきゃ動かないのが警察だからな。その取りこぼしを拾うのがあいつらの仕事だ」
「ボディガード……ですか」
随分と剣呑な仕事をしている。あの兄弟、一体いくつなんだろうか。安西薫がどこからどこまで尋ねていいものか考えあぐねていることなどお構いなしで櫛灘は話を進めていく。
「南しののめ商店街にあるカフェのマスターが一応あいつらの保護者兼ボスなんだが、ボスは筋金入りの放任主義者であいつらのことは微塵も気にかけちゃいない。不審人物だが、職質などは控えるようにしてやってくれ。何分目立つ見た目だから分かるだろうが」
ぽん、と軽くボブカットの頭を小突き、櫛灘はふらふらとしののめ署から去って行った。
「……ほづのみやって難しい名前だわ」
漢字も見当がつかない名前だが、安西薫は何となく二人の名前を記憶した。
***
「遅い!」
甲高い声と同時に銀の盆が志熊の顔に命中した。
「四時からちゃんとやるって言ったからランチの時も休ませたのに、自分で言いだしたことも守れないの? この人間屑が」
豪奢な金髪の少女が生ゴミを見るかのような目で八月朔日宮兄弟を睨め付けていた。店主の趣味全開の、ロングスカートのクラシカルメイド服がよく似合う。ツインテールは綺麗に鏝で巻かれ、まるで気まぐれな猫の尻尾のように愛らしく揺らめいているというのに、彼女の口から零れるのは辛酸そのものだった。
「す、みませんでした……ハニーベルさん」
「ハニーベル様だろ? ハニーベル様」
「はい、すみませんでした、ハニーベル様」
長身を竦ませ、頭一個半以上小さい金髪少女に謝る様は滑稽極まりない。しかしこれこそがこの店の上下関係である。
「志熊は謝るのに玩馬は謝らないの!?」
逃げだそうとした玩馬に鋭利なフォークが投擲された。ショッキングピンクのウサ耳パーカーを見事に射貫いたフォークはそのまま玩馬を壁に縫い付けた。
「申し訳ありませんっした……」
ストーカーにアッパーを入れたあの雄姿は影も形もない。八月朔日宮兄弟は細身の金髪ウェイトレスに滾々と説教され続けた。
ここはカフェ〈ハニー&スミス〉。朝七時から夜七時まで、十二時間営業をモットーにモーニング、ランチ、アフタヌーンティーに夜の軽食、創世記から最後の晩餐までを華麗に演出する、南しののめ商店街随一の喫茶店(店主談)である。
「ところで、マスターは?」
閑散時間とはいえ、マスターのスミスの姿が見えないのは珍しい。ハニーベルはむっつりと頬を膨らまし、
「買い出し!」
とだけ言って奥に引っ込んでしまった。
「……何怒ってんだろうね、兄さん」
「どうせスミスについて行くってごねてる間に置いて行かれたんだろう」
ハニーベルはスミスにベタ惚れだからな。玩馬は面倒くさそうに壁に刺さったフォークを抜きながらこぼした。それも無理からぬ事だ。たった二人きりでアメリカから渡ってきたのだ。まだ少女の面影を残すハニーベルがスミスを頼り切るのも不安があってのことだろう。
「うし、じゃあ志熊は着替えて皿でも洗っとけ。俺は裏で帳簿でもつけてるからよ」
「了解っと」
顔にぶつかって曲がってしまった盆を小突いて直し、カウンターの上に戻した。
***
逃げなきゃ。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ!
息を切らして走り、路地裏に入る。と見せかけ地下道へと降りて行く。
背後に迫る気配は消えた。ほぅ、と撫で下ろす胸に、チリ、とわずかな痛みが走る。首を振ってやり過ごし、力の抜ける足に鞭打ち、再び走る。自動改札が無賃乗車の到来を叫んでも止まるわけにはいかない。怒鳴る駅員を気にとめることもなく走り、丁度ホームに止まった地下鉄に滑り込んだ。
「駆け込み乗車はーご遠慮くださーい」
間延びした独特の警告と同時にドアが閉まる。一瞬の衝撃、フュゥウウウウ、加速する地下鉄。懐かしい籠もった空気の匂いに漸く緊張が解けていった。
――これからどこに行けばいい?
行き先は、知らない。分からない。
無機質な硝子に映った自分の顔。まるで知らない人のようだ。どこまでも余所余所しく、現実味がない。少しだけ跳ねた髪も、人より少し吊った目も、両目の下の泣き黒子も、変わらず自分だというのにどこか決定的に、絶望的に変わってしまったような、錯覚。
吊り広告が揺れる。流行の服に身を包んだ女性モデル、下世話な週刊誌、デパートの物産展。予備校の広告には塾生の顔写真で作られたモザイクアートの「夢」の文字。当たり前の風景なのに、全く別世界のもののようだ。浦島太郎の気分が、今ならよく分かる。
誰もいない車両。
空気を切り裂く音しかしない。
座席の上、膝を抱え、小さな体を小さく丸める。
何駅過ぎただろう。
この電車はどこに行くのだろう。
何も分からぬまま、地下鉄は暗いトンネルをただひた走る。
「次は、新しののめ。お出口は右側です」
跳ねるように飛び起きた。
ここだ。訳もなく何かがそう告げる。ここで降りなければ。根拠のない焦燥感が体を突き動かす。
扉が開くのもじれったい。到着の音が鳴るや否やわずかな隙間から体をくねらせ飛び降りた。駆け込み乗車を注意しても駆け下り降車を注意する駅員はいない。発車の合図、過ぎ去る列車。少女はそれよりも早く走り出す。
改札をくぐり、地上へと上がる道で、不意に体が崩れた。
「あっ」
運が悪い。転んだ先は床のタイルが剥がれて逆立っていた。なまじスピードが出ていただけあり、派手に転んだ。見れば膝から血が出ている。てらてらと、ぬらぬらと。地下独特の黄みがかった光の中で、ぬめる赤がなぜかいやらしく思えた。
痛くはない。これくらいなら、痛くはない。服が汚れてしまう。ただそれだけは嫌だった。
「嬢ちゃん、大丈夫かい?」
低いその声に、少女は確かに運命が動く音を聞いた。
***
鼻歌の「シェリーに口づけ」が冷たい地下室に響く。水滴。臭気。澄んだ音色に混じって聞こえるのは、悲鳴。
「……ちょっと黙っててよ。今いいところなんだからさぁ……」
「んんんんんんんん――っ!」
くぐもった声には確かな苦悶、苦痛、辛苦、あらゆる痛みと苦しみが溢れていた。
「ああ……そうだったんだね」
男――まだ少年の如きあどけなさすら残すその青年は顔を恍惚に濡らした。
「囂しく喚き散らすだけだった君の口がなんのためにあるのか、ようやく分かったよ」
ぷつん、
「僕に縫われるために、あったんだよね」
さも愛しげに、男は縫合した口に口づけをした。
一条の光も入らぬ地下室での狂宴。男は淡々と、嬉々として、女の口を縫っていた。勿論麻酔などない。ただの縫い針と縫い糸でのぐし縫い。女は素面のまま、青年に連れ込まれたこの地下室で何時間にも及ぶ拷問を受けていた。
別段青年は女に問いただしたいことなど持っていない。強いて言うなら、趣味だ。
彼は趣味で彼女の指を切断し、四肢を切断した。そのあとゆっくり彼女を犯し、果てること三度。そして叫び声を堪能したと言って舌を切り、口を縫った。
それでも女は死ななかった。それもそのはず。青年は止血を怠らず、失血は輸血で補っていたのだ。そんなことはこの青年にとって、造作もないし面倒でもない。そこに横たわる女と遊ぶためならどんな労も厭わない。持てる技術と知識を総動員して楽しみ尽くす。それこそが青年の信条だった。
「僕さぁ、思うんだよね」
乱雑に置かれた金属器具をがちゃがちゃと漁りながら青年は女に言った。さして聞かせる必要もない、むしろ彼の独り言に近い。青年はよく手入れの行き届いたメスを片手に芝居がかった立ち回りで台詞を吐く。
「どんな綺麗な花もさ、たった一人の人間には敵わない……って。だってそうだろう?」
痛みで遠のくどころか冴え渡る女の意識に、耳に、聞いているだけなら心地よい青年の声が残酷に響く。
次第に詰められる距離。眼前に迫る青年の顔。その顔の美しさ。口元を彩る笑みさえなければ、彼は彫像のように美しいのに。
そして青年は笑う。
底冷えのする程、凶悪な笑みで。
「大輪の薔薇より、内臓の方がずっと綺麗だから」
ぷつ、
何かが弾ける音がした。
瞬間、女の腹がぱっくり裂けた。
血は吹き出すことなくどろりと溢れ、零れ、滴り落ちた。
「ほぉらぁぁあぁぁああっ! どんなに赤く咲いた薔薇も、裂かれた腹の血の赤には敵わないんだよぉぉぉぉぉぉっ!」
女は縫合された口でなにやら叫んだあと、鼻から血を噴いて、動かなくなった。生命の名残が、彼女の体を不規則に痙攣させる。それが終わっても尚、湧き出る血の色に青年はぶるりと身を震わせ、嘆息する。甘く濡れた吐息、紅潮する頬。がくがくと足を震わせながら、青年はぱっくりと縦に裂けた女の腹に頽れた。
「最っ高…………!」
生温かい臓腑の、心地よく冷えゆく過程。徐々に弱まる脈拍は微睡み落ちる子供のよう。
この瞬間のために、人はいる。
傲慢で厚顔な青年――時留玲は一人、死体のはらわたに顔を埋めて笑う。