何故か急に失速しだした物語ほどつまんないものはない
「な、なんか知らんがゆうげナイス!」
「く……どうしてこんな時に、よりによってゆうげが!?」
「にゃはは〜、覚悟しやがれぃだぜぇ正午〜!」
正午はゆうげの長身を前に怯み、三時と昇はいまがチャンスと言わんばかりに距離を詰める。ジリジリと互いに間合いを測る三人を見つめ、ゆうげはフムと鼻を鳴らし、
「ちょっと待て。ストップ。ウェイト。この騒ぎ……まさかお前らも購買のカツサンド狙いなんのかィ?」
「「「……、え」」」
ギクリと。三時、正午、昇はギチギチギリギチと錆び付いた機械の様な音を発しながら、ゆうげに向き直る。
「あ〜、その反応、やっぱそうなんか。悪ィけど、ありゃ俺のもんだから。お前らに渡す訳にゃいかねぇっての?」
「……フッ、そうですか」
正午は乾いた笑みを浮かべながら、両手を前で交差させ、背筋を曲げて前かがみに構える。欧米では意外とポピュラーな格闘技であるエスクリマ・カリの技にはジュルスという型があり、状況に応じて型を変えたり、流派によって細かく差異があったりする。まるで、日本の空手流派の様に。
「にゃっはっは。諦めるなら今のうちだぜぃ? あれを奪い合う敵なら、生かしておく必要はにゃいかにゃ〜」
「いや、殺すなよ」
キュキュ、と昇は屋内バッシュを鳴らしながら、身軽そうにステップを踏む。両手は固定せず、まるでストレッチでもする様に右に左に動かしているが、これは決して無防備なんかではなく、デトロイトスタイルと呼ばれる構え(ファイティングポーズ)である。某ボクシングマンガで有名なヒットマンスタイルというのは、実はデトロイトスタイルの改良だったりするのだ。
「おいおいおいおい。二対一は卑怯なんじゃね? 武術家としてそれは恥じるべき行為の代償って事で、俺にカツサンドを譲ってくれてもバチは当たらねぇだろうよ?」
ややひきつった笑みを浮かべながら、ゆうげは一歩、二歩と後ずさる。ツツ、と冷ややかな汗が頬を伝う。
(……つか、この間に行けばいいのに)
睨み合う三人を横目に、三時は忍び足で階段を下りようとし、
「……深夜! 止めろ!」
「……りょーかい」
ドッ、パゴン!
けたたましい騒音を昼休みの廊下に轟かせ、今まで沈黙を保っていた長い黒髪の小柄な少年、深夜――の姿が、消えた。
「……へ?」
「……ゆうげの、頼みだから」
光陰の矢の様に、一瞬で三時の懐に潜り込んだ深夜は、三時の顔面めがけて左手を軽く振るう。三時がとっさにその手を払いのけた瞬間、
深夜の右手が、蜃気楼の如くブレた。それが攻撃だと気付くよりも早く、蛇の様にうねり鞭の様にしなる右の拳を感覚で避ける事が出来たのは、まさに奇跡。
三時は深夜の腹を蹴りでついて押し返し、何とか距離を取る。距離を取るついでに、拳風が撫でるだけで留まった首を確認する。まるでギロチンを落とされた気分だ。
「……まさ、か、……これは首里手……か?」
「……うん。せーかい」
茫然自失としたまま、しかし三時は目の前で構える深夜を見つめる。左手は手のひらを相手に向ける様に自分の頭の位置まで上げ、右手は腰に溜める様に、軸足である右足はどっしりと重心を支え、左足はまるで間合いを測る様に前に出している。
「そうか……。お前、空手家だったのか!」
「……ぴん、ぽん。せーかい」
全く無表情を崩す事なく、深夜は答える。長い前髪からチラリと覗く冷ややかな視線は、睨み付ける蛇の様な色さえ見て取れる。
空手とは、元を辿れば中国拳法である。唐が那覇……つまり沖縄に渡来した際に伝承した武術である唐手は、いつしか剣術の動きと組み合わされ、空手と名称を変えて生まれた独自文化の一つ。基本は打撃系の技を使う空手だが、しかし九州南部や沖縄では未だに寝技や関節技を伝える流派も珍しくはない。尤も、公式戦では使えない訳だが。
空手家がステップを踏む光景を見るのは珍しくはないが、そもそも東洋の武術にステップというものは存在しない。近代のいわゆるスポーツ空手は、如何に敵に一撃を当てるかという技術向上の為、ボクシングのステップを取り入れている。これはスポーツ空手の意味が『敵を殺す為の実戦ではなく、己に克つ為の修行』に昇華した結果である。
「……そして何より、深夜の首里手。近代のスポーツ空手では軽いパンチ、つまり手首のスナップを効かせる様な拳では一本を取れない為に、首里手を教えない道場が多いんだにゃ。下手にクセににゃったら、試合で負けるからにゃ。最近じゃ主流の打ちは那覇手と呼ばれる、引き手(左手)を戻す際の腰の回転と肘の捻りを生かしたパンチなんだにゃ」
「……ってか、今までのモノローグは貴方だったのですか?」
何故か空手を語るボクサーを見つめる、エスクリマ・カリの使い手。何というか、こんな高校生の集団なんて何処にもいない。賭けてもいい。
と、二人の注意が僅かに逸れた瞬間、ゆうげは一気に走り出した。
「あ、コラ! 待ちなさい!」
「逃がす訳にゃいかねぇんだにゃ!」
ゆうげの逃走に気付いた二人も、後に続こうとする。
「深夜、止めろ!」
「……りょーかい」
再び高速で、下り階段前まで移動した深夜は、二人をなぎ倒す死神の鎌と言わんばかりに回し蹴りを放つ。正午は四肢を駆使して獣の様にバックステップ、昇は上半身を後ろに反らして何とか回避した。
「にゃ、にゃはははは……死ぬかと思ったにゃはは」
「そ、そんな攻撃……ジュルスを以てすれば……」
まだ余裕がある様な口振りだが、どこか恐怖した様に声が震えている。
「……足止め、任された」
フン、と鼻を鳴らし、鉄壁の守りの様な深夜が立ち塞がる。
「……三時、どうにかならないんですか? テコンドーは空手の親戚でしょう?」
「そもそもの基盤は鉄脚なんだがな。……見ろ、深夜を」
「うにゃにゃ?」
それぞれ身構えながら、深夜を見る。コー、フーと、深く呼吸を行う事で全身に気を行き渡らせ、筋肉を岩の様に強固する『息吹法』を行っている。空手に先手なし、とよく言うが、まさしく後の先……カウンター狙いの守りの型である。
「肩を狭め、脇を締め、膝を内側に向けて金的を守る……。見ろ。おまけに、三支の剛体法まで取り込んでやがるぞ」
「にゃ……はは。こりゃどうしたもんかにゃ……」
「打つ手なし……というか、果てしなく手を打ちたくはないですね」
三人は顔を見合わせ、同時に首を横に振った。少なくとも現状、深夜をどうにか出来ない訳ではない。ただ、深夜をどうにかする際に自分が負傷し、二人に先を越されたくないが為に、この膠着状態をどうにかする気にはなれないのだ。
「ゆ……ゆうげェェェええエ! 厄介な土産置いてってんじゃねぇぞテメェこんチクショォォォおおオ!」
三時の叫びは、どこか負け犬みたいだった。