戦闘開始でトップスピードはやりすぎな件について
チュイン、と。空気が引き裂かれる様な異質に甲高い音が廊下に木霊する。
「ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!」
チュイン! チュイン! チュイン!
三時の蹴りは全てを砕かんと言わんばかりに昇の頭部に襲いかかるが、昇は軽いフットワークで全てを難なくかわしていく。
「あっはっは、甘いにゃ甘いにゃサンジ。そんな蹴りじゃ海王類は仕留められんにゃ〜」
「黙れ! っつか誰がサンジだ誰が! 俺の名前は『ミトキ』だっつってんだろうが!」
軸足となる右足だけでスキップする様に前方移動を行い、体重を斜め前に落としながら左足で飛び上がり、昇めがけて跳躍する。三跳骨と呼ばれる身体運用法であり、左足のみでのステップ故に、右足は自分の動かし易い方向に自在に扱う事が出来るのだ。
「ツェイッ!」
「うにょら!」
ボパン、と空気の塊を蹴る音が響く程の一撃は、しかし昇はスウェー(上体を反らして避ける技法)でかわす。
「ほう。見事な平行蹴り(イスクーチュオン)ですね。しかも宙を飛びながらとは恐れ入りました。腿拳道ですか」
感心した様子で、走りながら闘うという器用な真似をしている二人を見ていた正午は、感心した様に呟く。
そう。三時が使っている格闘技は腿拳道――つまりはテコンドーである。
韓国武術……ひいては蹴り系武術の代名詞とも言われているテコンドーの創始は一九五四年。日本の空手や蹴り技主体の韓国武術『鉄脚』を元に生み出された武術で、創始者チェ・ホンヒはこれを韓国文化特有の二年徴兵の間に組み合わせたという。後に韓国の軍事格闘技に改良された包蹴脚が広まったとされるが、それらを含め韓国では全ての蹴り系格闘技を併せてテコンドーと呼ぶ。
繰り返すが、テコンドーは空手と鉄脚を組み合わせた格闘技である。つまり、
「フシュッ」
しゃがみ込んで足払いを放つ三時だが、昇は綺麗で無駄のないバックステップでこれをかわす。が、足払いというのはマンガにある様な便利な技ではなく、モーションが大きいせいで割と避けられる事が多いものだ。
「そこっ!」
「うにゃっ!?」
三時は体重を前に移動させながら、昇に向かって拳を突き上げる。低い位置からの一撃というのはなかなか反応しにくいものだが、それだけ昇の身体能力が高いのか、両腕を交差させて拳をガードする。
「け、蹴り技だけじゃないんかにゃ!?」
「バァカ。テコンドーってな空手も吸収した格闘技だ。中には徒手空拳もあるんだよ」
『テコンドー=蹴りだけ』というのは一般人が生み出した偏見である。空を舞う様な蹴り技が多数存在する為にその印象が強いだけで、実は拳を使った技も存在する。そもそもテコンドーは日本もそうだが、何より欧米大陸に伝わって以来はそれこそ夜空の星の様に流派があるという。尤も、テコンドーの公式試合に於いて手技では一本を取れないルールから、やはり徒手空拳は普及していないのだが。最近では手技を一切排した流派が殆どだ。
「だ・け・ど・にゃア!」
ニヤリと不気味な笑みをこぼす昇は、交差した腕、クロスアームブロックを前に押して三時の体勢を崩す。元々、無茶な構えだった三時のバランスを崩すのはいとも簡単だと言わんばかりに。
屋内シューズの滑り止めを鳴らし、昇は左拳を顎に当てがい、
「今回の戦いだけは譲れないんだにゃ〜!」
膝、腰、肩と流れる様に回転させて遠心力というエネルギーを蓄えた右の拳を、目にも留まらぬ速さで繰り出した。ヒュボン、と空気を喰らい尽くす様な音が聞こえる前に、拳風だけで三時の長い髪を揺らした。
「……はっ?」
「にゃにゃにゃ。今のを避けるとは、流石はサンジだにゃ〜」
言うが早いか、呆然とする三時を捨て置き、キュキュとシューズの底を翻して廊下を走り出す。
「テメッ、ボクサーか!」
「当たりだにゃ〜」
慌てて追走するが、時既に遅し。二人の距離は八メートルは開いていて、この僅かな差は同時に決定的な距離でもある。
「にゃっはははは〜!購買部が一月に一度しか売り出さない限定商品『究極至高カツサンド』はオイラが頂きにゃ〜!」
「やっぱりテメェも目的は同じかァァァあああ!」
究極至高カツサンド。それは文字通り、最高の購買商品である。
鹿児島の自然で育てられた霧島神話豚の柔らかで肉厚のあるカツに、茨城の烏骨鶏の有精卵を使ったサクサクの衣、そしてしつこい二種類の油を中和する紀州梅のさっぱり風味で食べごたえのある、贅沢な一品である。これを買う為だけに毎月、大勢の生徒が学校のあちこちで乱闘騒ぎを起こしていたりする。
「にゃはは〜、ノロマのドン亀がァ! ボクサーに短距離走で追い付こうなんざ、百万光年長いんだにゃ!」
「長いの!?」
全力疾走する二人だが、肝心な事を忘れていた。
そう。『究極至高カツサンド』を狙っているのは、何も二人だけではないのだ。
「――かつて世界を渡り歩いた偉大なる師、マゼランを殺した武術をご存じですか?」
「にゃ?」
不意に、昇は声がした後方をチラリと見てみると、そこには猛獣の如く襲いかかる正午の姿があった。
「……にゃは?」
「ネク・ロック・ブロークン(首刈り落とし)!」
ゴウ、と唸る正午の左腕が昇の首に極まり掛けたが、昇は何とか弾きながら地面を転がる事で避ける事に成功した。
「チッ、外しましたね」
「こ、殺す気かにゃテメェ!」
「いえ、足を止めようとしただけですよ」
走り出す正午。チィ、と舌打ちしながら昇が走り出した時、ようやく三時は横に並ぶ事に成功した。
「な、何だ今のは!? 投げ技か!?」
「うにゃあ……多分、あれはペンチャック・シラット……いや、違うにゃ。あれはエスクリマ・カリかにゃ?」
「エスク……何?」
「エスクリマ・カリ。かつて領域侵犯を犯したマゼランを殺した武術と言われているフィリピンの格闘技……いや、戦闘技だにゃ。武術形式は無手(武器を持たない事)と有手(武器を持つ事)の両方が存在し、それまであった杖術にスペインのナイフ術を組み合わせた派生流派エスパダイ・ダガという二刀剣術もあるにゃ」
「な……何か、スゴそうだな」
「ちなみに、さっき言ったペンチャック・シラットとエスクリマ・カリは同系統の武術だにゃ。単純にインドネシアで使われる場合がペンチャック・シラット、フィリピンで使われる場合がエスクリマ・カリと覚えておくといいにゃ」
「ってかお前、万年赤点なクセにどうして戦闘面の説明役だ?」
「そんなん作者に聞けぃ」
二人が話しながら走っている間に、正午の小柄な身体が階段に差し掛かった。
「うにょら!? さ、サンジのせいで正吾が行って仕舞うんだにゃ!!」
「何をさりげなく責任転嫁してやがんだお前のせいだろうがそして俺はミトキだと何遍言や分かんだテメェは!」
「もらいました!」
まさしく猛獣の様にしなやかにカーブしようとしていた正午だったが、不意に目の前に現れた影を避けるべく横に飛んだ。体勢を崩しながらも何とか空中で身を捻り、着地する。
「おいおい。廊下を走るとあぶねぇだろ、正午。小学校ン時に習わなかったのか?」
「……」
階段を降りて現れたのは、二人の少年だった。
片や長身の男。髪は鮮やかな金に染められていて、オールバックに撫でつけられている。どう贔屓目に見ても、ホストにしか見えない。
片や小柄な少年。長い髪は目元まで覆い被せていて、その表情は窺えない。ただ、形よい唇だけがへの字に結ばれている。
「むむっ。奴ら……金髪が暮野夕餉、無口なのが大月深夜だにゃ」
「そうか。この上なく胡散臭い説明口調をどうもありがとよ。登場人物の口語説明ってあからさまになるよな」
「それはオイラに言ってるようで、別の誰かに言ってるッポイにゃ〜」