死人と獣 伍
人間、あまりにも鋭く綺麗に切るとあまり痛みを感じないという、
まさに今の俺の腕がその話の信憑性を物語っている、
ばっさり腕を切り裂かれているというのに俺はこんな下らない事を考えているのだから、
いや、これはただ単に切り裂き魔の正体があんなに優しかったあの爺さんだという現実から脳が、
身体が、
脊髄が目を背けようとしているだけなのかもしれない、
もっと他に考えなくてはならない事が山ほど有るというのに、
そもそも爺さんはもう死んでしまったはず、
何故人を襲うのか以前に何故動いているのかが重大だ、
それにさっき芦屋に押される前に聞こえたら声は一体…
夏の九十九神事件で霊魂とリンクした時のような感じだったが誰の声だったのか身に覚えも検討もつかない。
「おいっ!呆けてんじゃねえうすのろっ、死にてえのか!。」
芦屋の怒号によってふと我に返ると先程まで芦屋のと目の覚めるようなバトルを展開していた筈の爺さんがこちらに向かって物凄い速さで目の前に迫っていた。
「やべっ」
ヤバイヤバイヤバイ、
避けれる速さじゃねえ…
爺さんの長く鋭い爪が無情にも俺の首筋を切り裂こうとしたその時。
(やめてっ!)
また例のあの声が聞こえたと思った所、その声に反応するように爺さんの動きがぴたりと止まった、
まさか、爺さんにもこの声が聞こえているのか…?
(もうやめてよ…もう皆を傷付けないで…お母さん…)
「コ、コノコエハ…。」
爺さんは露骨に戸惑った表情を見せると何処かへ飛びさって行った、
飛び去るという表現はあたかも爺さんに羽根でも生えて飛んで行った誤解を生みそうだがそうではない、
羽根を羽ばたかせたのではなく、
自らの脚で跳ねて行ったのだ、
尋常ではない脚力、
老人どころか人間であの脚力を発揮できるものはこの世に存在しないだろう、
そう、この世では…
なんだかよくわからないけど助かった…、
緊迫した状況から解放され、
ほっと一息ついた所でまたあの声について疑問が浮かぶ、
確かにあの声は言った、
お母さんと、
どうみても爺さんは男だし間違える筈もない、
じゃあ何故あの声はお母さんと呼んだのだろう、
声の主が誰なのかという疑問に俺が頭を悩ませていると芦屋が煙草をふかしながらこちらへ歩いてきた。
「ふう、よく助かったなお前、俺様の中ではお前はもう死んでいると思い込んでいたが、何かしたのか?お前の目の前に迫った途端、奴の動きが急におかしくなったと思ったらどっかに飛んで行きやがった。」
「ああそうか、やっぱりお前には聞こえなかったのか、お前が俺をもう死んでいると何処かの暗殺拳伝承者みたいな事を考えている時に声が聞こえたんだ、ちょうど霊魂とリンクしている時みたいな感覚で、そしたら爺さんが急に止まって飛んで行ったんだ、…お母さんって言ってた。」
「またお前の数少ない才能に助けられたって訳だな、軟弱で脆弱な癖に悪運だけはいいんだな、まあそれはどうでも良いとして、奴はまだやり足りない様子だったし、生憎今日も満月だ、放ってはおけない、おい下僕、その声のリンクで何かビジョンは見えなかったのか?。」
謎の声のお母さん、というワードに大した反応もせず、
いつもの俺専用罵声を浴びせながら芦屋は緩んだ髪止めを結び直している。
「ビジョンっていきなり言われてもそんな都合よく行く訳無……痛たた、来たっ、来た来た!!。」
本当に見えた!
芦屋は反応がダサいだのもっとスマートに出来ないのかだの言っているがしょうがないだろ、
いきなりだし大量のイメージが勝手に流れ込んできて頭がパンクしそうになるんだから。
「で?何が見えたんだ、さっさと言えダサ男。」
「うるさい、別にダサくていいだろ、…病院が見えた、婆さんが入院している病院だ。」
「そうか、じゃあとりあえず病院へ行くぞ、とにかく急がないと何が起きてるかわからん、大惨事になりかねない。」
そう言って芦屋は走り出した。
「何処へ行くんだ!?。」
「馬鹿野郎!病院だって言ってんだろ!。」
「馬鹿野郎はお前だ、お前の事だから何かあるんだと思って聞いたが、芦屋、病院は逆だ。」
こいつ方向音痴だったのか…、
人を馬鹿だとかダサいとか言っていた癖に一番ダサいじゃねえか。
「………うるせえ。」
芦屋は少し沈黙した後、
頭をかきながらそう一言呟いて携帯を取りだしタクシーを呼んだ。