1. 買う前に、一本
「古い剣術に客はつかない。看板だけ、俺が使ってやろう」
橋詰めの道場の板の間は、黒く磨かれている。壁には剣の架け。父の真剣は、鞘に収まったままだ。架けの下まで、床のつやが続いている。
床に買い取りの証文が置かれた。〈橋詰めの道場、看板と門弟ごと、金貨五十枚にて譲り受ける。門弟の仕事は英雄道場が保障する〉。署名の欄は白い。床のつやを、白い紙が途切れさせている。
隅で座っていた十八の俺、アルヴォは、木剣を握り直した。大きな手のひらに、剣だこが無い。押すと、やわらかい皮膚がへこむ。柄のほうが、手より固い。床には黒い髪と濃い茶色の目が映る。寝起きの顔だ。細い顎の上に、父と同じ太い眉。
紙を見下ろす父ゲラルトの、白のまじった黒い髪が揺れた。戸口から入った男の金の髪は、長く束ねてある。門弟は七人。赤毛のオラフが、壁ぎわで雑巾を絞っている。
ヴィガントのその声は、六十年前から覚えている。前の人生で、この男が秋に道場を買い、家を出た俺は六十年剣を振り、二十年目に剣聖と呼ばれた。だが、父はその前の年に死んでいたのだ。
目の前の父が笑っている。歯が見える。板の間の光が、その歯を明るくする。俺の手だけが、柄を握った形で止まった。
ヴィガントの青い目が、俺たちを見回す。左の頬の古い傷が、口を開くたび動く。
「橋の英雄ヴィガントが、看板を買ってやると言っている。門弟七人で屋根も直せん道場だろう。働き口も残す。剣だけ振っていても、雨は防げんぞ」
オラフが雑巾を床に置いた。絞った水が、板の継ぎ目に落ちる。オラフは、紙の白い欄を睨む。
「先生、こんな奴に渡すのかよ! 人の稽古場に紙を投げて、買ってやるだと? 門弟まで、もう買った顔しやがって!」
父の背を見ながら、俺は立ち上がった。膝が軽い。手を突くより先に、体が上がる。父と同じ高さだ。肩だけが、まだ薄い。紙より先に、俺は木剣を前へ出す。
「親父の剣なら、こうする」
父の濃い茶色の目が俺を見る。木剣を握る俺の口だけが、先に動いた。
「わしは……じゃなかった。俺は、ここで一本やる」
相手へ向き直る。ヴィガントが、紋の入った鞘に手を置く。俺はその手でなく、床に置かれた足を見る。
「買う前に、一本どうです。父の剣を、俺が使います」
「坊主。お前が相手か? さっきまで隅で寝ていた奴が、俺に剣を向けるのか? 親父の背に隠れるなら、今のうちだぞ」
「習ったのは、この道場です。寝ていた分は、起きて取り戻します」
ヴィガントの口の端が上がる。鞘に置いた手は動かない。
「古い剣に値はつかんと言ったばかりだ。買い手を床に立たせて、値を上げるつもりか? 俺の名なら客も集まる。その違いが、わかるか?」
「では、その古い剣を試してください。紙に名を書くより、剣を合わせる方が早いです」
オラフが俺と壁の架けを見比べた。目が俺に戻る。声が跳ねる。
「坊、寝ぼけてんのか! 相手を見ろよ。いつもの稽古みたいに、寝直せると思うな!」
「起きてるよ、オラフ。床を空けてくれ。そこだと、雑巾を踏む」
「踏め! 踏んで転べ。その方が怪我が少ねえ。寝てる奴の受け身は見飽きた」
「転ばんよ。今日は、起きてるからな」
「その『今日は』が怖えんだよ! 先生、止めてくれよ。坊の返事がまともなほど、腹立ってくる!」
俺は雑巾を避け、足の置き所を決める。
「怒るなら、終わってからだ。そこ、借りるぞ」
父が架けから木剣を取った。ヴィガントはそれを受け、腰の剣を残す。借りた柄を確かめるように握り、父を見た。
「ゲラルト殿。息子が怪我をしても文句は無いな? 木剣だからといって、手加減を約束する俺ではないぞ。剣を向けた以上、寝ていたでは済まさん」
父は架けの前から動かない。俺の足元を見たまま、短く言う。
「……木剣でなら。見てみたい」
オラフの雑巾が、床で音を立てた。オラフは父と俺を見比べ、雑巾の端を握り直す。
「先生まで! ……ちっ、坊。木剣を落としたら自分で拾えよ!」
父は壁ぎわへ下がる。ヴィガントが借りた木剣を持ち上げ、俺の前に立った。
「泣いてからでは遅いぞ、坊主。看板を守るなら、それなりの剣を見せろ。構えただけで満足するなよ」
「はい。父にも見てもらいます。証文は踏まない所に置いてください」
◇
キュッと床板が、踏んだ足の下で鳴る。右の肩が先に落ちる。打ち込みの起こりだ。半歩引くつもりが、足は一歩、引いていた――。
『ちっ!』
長すぎる。戻す踏み込みが遅れ、剣先が鼻先をかすめる。若い足は思った以上によく動く。
また右の肩――今度はその落ちる前に、半歩入った。
「ほっ!」
ヴィガントの木剣の柄を弾く。カン!と乾いた音が、磨いた板の間で跳ねた――。
相手の木剣が床を滑っていく。
「ん!?」「へ?」「は?」
誰も声を出さない。壁ぎわの七人が、動かない。俺の剣先が膝裏に触れ――ヴィガントの片膝が落ちる。
押し込まず、木剣を下ろす。膝も皮膚も、傷は無い。ヴィガントが、落ちた木剣を見た。
「くっ……偶然だ。坊主の足が乱れて、俺の足まで取られた。それだけだ」
ヴィガントの手が、木剣を拾う。拾った木剣は、架けへ放った。俺は、まだ床にある証文へ目を落とす。
「足を引きすぎたのは、俺です。ですが、古い剣術も捨てたものではないことは、証明できました」
ヴィガントが証文を拾い、懐へ折り込む。
「証明などされとらん! 明日、弟子を連れて来る。今の剣が偶然でないなら、そいつらの前でもやってみろ。お前の足も、じっくり見せてもらう」
長身で肩の広い背中が、門を出る。門の外の光が床へ伸びて、戸の影に縮んだ。
俺はぐっとこぶしを握る。今度は強くなるために家を出ない。家を守るために、この場所で強くなる。
一番若い門弟が、壁から身を乗り出した。
「……今の、何ですか? 木剣が落ちてから、膝まで……見ていたのに、追えません」
声が重なる。オラフの薄い青の目だけが俺を睨む。大きな鼻の下で、口の端が片方だけ上がった。長い腕が雑巾を投げる。
「坊。勝ったなら雑巾だ。英雄様が滑らせた分まで、きっちり拭けよ。剣だけ振って、俺に床を残すんじゃねえ」
「……今か? 木剣を戻してからでも、床は逃げないだろ」
「今だ。床が逃げなくても坊は寝る。俺はそっちの足の方を知ってんだよ」
「……拭くよ」
「声が小せえ。木剣を振るときだけ起きてんじゃねえぞ」
俺は飛んできた雑巾を受けた。木剣より、水を含んだ布のほうが手になじむ。
「……拭くから、そんなに怒るな」
鍋の湯気の匂いが、戸口から流れてくる。戸口で母のロスマリーが手を拭いている。栗色の髪は後ろにまとめてある。小柄な体の前で、まくった袖から腕が覗く。
その陰で、妹カトリンの栗色の二つ結いが揺れた。素足だ。膝に擦り傷がある。
母が帳面を抱え、緑の目を俺へ向ける。丸い顔にえくぼ。母は濡れた床を見て、帳面を抱え直す。
「何の音だったの? 台所まで響いてきたよ。あんたたち、戸まで外したんじゃないだろうね? 私の帳面まで泣かせないでよ」
ただいま、が喉で止まった。雑巾を受けた手を下ろす。母の声が、鍋の匂いと一緒に届く。俺は濡れた布を握り、戸口を見る。
「母さん。木剣の音だ。戸はついてる。カトリン、そこは濡れてるぞ。拭くから、まだ来るな」
妹の緑の目が細くなる。そばかすの浮いた頬に、母と同じえくぼ。
「兄さん、いま、年寄りみたいだった。わし、って言ったでしょ。戸の陰で聞いちゃった! 十八なのに、言い方だけおじいちゃんじゃん!」
◇
父だけが歓声を上げていない。門弟の声が引いたあとの板の間に、父の足音だけが残る。笑っていない顔が、俺の足元を向く。厚い胸の前で木剣を持ち直した。右手の親指の付け根の古い傷が、柄にかかる。
「その足運び、誰に習った?」
架けに木剣を戻す。父の手が届く所へ、柄を向けた。父の目が、足元から俺の顔へ、ゆっくり上がる。俺は柄を離した、やわらかい手のひらを下ろす。
「親父に習った剣だ。今度は、ちゃんと見ててくれ」




