「お前のその笑顔が嫌いだ」と
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「俺たちの婚約を破棄しよう、アイラ・ハースリィン侯爵令嬢。俺はお前の、その笑顔が嫌いだ」
破棄の理由は俺の責として慰謝料は弾んでやる、と続けられた言葉は、私にとって救いなのか。
それとも、大金を払って、更に財務大臣である父を当主とする侯爵家の後ろ盾を蹴飛ばしてでも私という存在から遠ざかりたいほど、私は王太子殿下にとって疎ましかったという証左なのだろうか。
わからない。
分からなかったけれど、私の中の、私が懸命に守ってきた何かが、壊れてしまって。
涙がぽろぽろと、頬を転がり落ちていった。
*****
仕事ばかりしていた父は、領地で療養していた母の容態がいくら悪くなろうとも見舞いに来ることはなかった。
「医者でもない自分がいても病気が治る訳ではない。何の役に立たない」からだそうだ。
だから、母の体調が思わしくなくなっていた時に、一緒に領地へと送られた私は父の顔すらもう覚えていない。
マナーハウスに飾られている、両親が結婚した際に描かれたという肖像画でしか知らない。
そうして、危篤の知らせをしても帰って来ることもなかった父は、母が亡くなっても領地へ帰って来ることは無かった。
使用人たちの手を借りて、母の葬儀をひっそりと執り行う。
裏山で摘んできた花を母に贈ることができたのは、その日が最後となってしまった。
毎日私が自ら摘んで母に捧げていた白い小さな花は、侯爵家のマナーハウスを彩る庭師が丹精込めた花々ではない。
子供の手で摘んでしまっては、せっかくの庭の景観が悪くなると家令から許可が下りなかったからだ。
母の実家であるパーク伯爵家はすでに代替りしており、母の兄が継いでいた。
葬儀にきたのは、祖母一人。
侯爵家に嫁いでおきながら娘を一人産んだだけで儚くなった役立たずだと呪いを呟くばかりの祖母に取り縋ることは出来なかった。
実際のところ、父が忙しかったのは本当だろう。
侯爵領の仕事に、王宮での財務大臣としての仕事、そうして、次代の侯爵となる自分の息子を産ませる女性を探さねばならなかったのだから。
この国は女性が爵位を継ぐことはできない。私はこの家の存続させる役に立たない。そういう事だ。
「彼女が、次の侯爵夫人となる。お前の継母になる女性だ。今日からは、おかあさまと呼ぶように。礼儀を尽くし、少しでもこの家の役に立つ相手へと嫁ぐために必要な知識と礼儀作法を教わるといい」
あれはお前を甘やかしてばかりだったからな、と言う何の熱も持たない言葉が、父から出た母への最後の言葉だと思う。
悲しすぎて言葉が出ない。一人でも母を悼んで生きていこうと私は心に誓った。
それでも、紹介されたその人は髪の色や瞳の色などが母に似ていて、口では母を悪く言おうとも、父の心の奥では母への想いがあるのかもしれないと思った。
継母はすでに妊娠していた。
入籍から産み月が足りないが、早生まれという事で処理するのだろう。
「無事に男の子に恵まれるといいのだけれど」
継母がまだ丸みのない自身の腹を撫でながら、私へ視線を向けつつも、私を見ないまま呟く。
女しか産めなかった挙句、身体を壊し、夫から顧みられることなく領地へ押し込まれて儚くなった私の実母を透かし見ているのだろう。
ああはなりたくないと、その視線は告げていた。
翌年。侯爵家待望の男子が誕生した。私は13歳になっていた。
「でかした」
ふにゃふにゃと動く真っ赤な赤子を抱く継母を、父が褒める。
「ありがとうございます」
生まれたばかりの息子を抱いて自慢げな継母と父の姿は、それだけで完璧な侯爵家で。
私の入り込む隙間など、どこにも無かった。
父は継母から淑女となるべくすべてを教わるようにと言っていたけれど、継母がしてくれたのは、厳格な家庭教師をつけることのみ。
「息子のために最上級の家へ嫁いでもらわなくてはね」
「はい、おかあさま」
そう言って、隣国へ嫁して行った王女殿下を教えていたという教師を伝手を辿って手配してくれたそうだ。
その家庭教師キール夫人の教えを受けていけば、出来の悪い私であっても淑女としてそれなりにモノになるだろうと継母は言った。
「さぼることは許されません」
「ハースリィン侯爵家のためになる婚姻を結びなさい」
それが継母からの私への教えだった。多分、父も同じように考えているに違いない。
侯爵家のために嫁し、侯爵家のために生きる。
それ以外は許されなかった。
家族としても。多分許されていないのだと肌で感じる。
「おかあさま。……おとう、さま」
弟の父であるのは当然だけれど、私にとっても父であるはずのその人が、私を視界に入れてくれることはない。
世界があまりにも冷たくて、体の芯まで凍えそうだ。たまに、息をするのも難しくなる。
だから。
「アイラ。お前が、この国の王太子殿下の婚約者に決まった。ハースリィン侯爵家の名を汚すことなく、良く尽くすように」
初めてまっすぐに見つめられ、父から殿下との婚約が成立したと告げられた時には、驚きと共に幸せが押し寄せた。
「ありがとうございます。精一杯努めさせていただきます」
「うむ。励めよ」
継母からはキール夫人をお招きするまでどれだけ大変だったかと語られ、すばらしい教育を受けられたことに感謝するように、という言葉を頂いた。
そうしてキール夫人からは、私にはまだまだ足りない部分が多いこと、この国には素晴らしいご令嬢がたくさんいるのでこれから先の精進が足りなければ簡単に捨てられてしまうだろうと教唆される。
「よりすばらしい淑女となれるようにこれから一層励まなければいけません」
「はい。キール夫人。ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
淑女の礼をとると、一番深く腰を落としたままでいるように指示され、言われた通りに深く腰を静めて止める。
そのままジッとしていたが、あまりの長さに膝と背中が辛くなって、眉と口元に力が入ってしまった。
「この程度で表情をゆがませるなど。まだまだ鍛え方が足りないようですね、アイラ嬢」
「申し訳ございません。キール夫人」
反省の気持ちを込めて首を下げると、膝裏に衝撃を受けてよろめいた。そのまま体勢を崩して床に手をついた。
視線を彷徨わせ見上げたキール夫人の手のひらの中に、小さな鞭が握られていることに気が付いて、身体が震える。
「この程度の衝撃で転んで床に手をつくなど。なんて無様な」
叩かれたといってもドレスの上からでしかなく、身体に傷がつくようなことはない。
それでも鞭で叩かれたのは初めてのことで、身体だけでなく心に衝撃が走る。
パシンパシンと音を立ててキール夫人が自身の手のひらに鞭を叩きつける度に、鞭の先が鋭く揺れる。
それを見せつけられるだけで、私の心は圧し潰されるような重苦しい気持ちになった。
「奥様の御指示により、ハースリィン侯爵家の恥とならぬよう王太子殿下との婚姻を挙げるまでに至らぬあなたを完璧な淑女になる教育を終わらせねばならなくなりました。侯爵令嬢であるならば幼い頃よりきちんとした教育を受けさせるべきであるのに。まったく」
言外に、亡き母の教育が悪かったのだと当て擦られて赤面する。
やさしかった母。大好きだった母を悪く言われて、視界が涙で潤む。
「この程度の言葉で涙ぐんでみせるなんて。みっともない。このままではまったく時間が足りないと言わざるをえません。これからは、これまで以上に苛酷な試練を与えることになりますが、致し方ないことでしょう」
キール夫人の眉がくいっと吊り上がる。
私は流れ落ちてしまう前に涙を指で拭うと、すっくと立ち上がった。まだ心の臓が激しい動悸で受けた衝撃の大きさを伝えてきたけれど、気力で抑え込む。
己の不甲斐なさから再び母をけなされないよう、再び淑女の礼をとった。
今度こそ、何があっても身体を揺るがすことのないよう歯を食いしばる。
ヒュンッ
顔のすぐ横を鞭が素通りして、結い上げた髪を掠める。
掠めただけだ。身体に対するダメージがある訳がない。
それでも、私は心に再び強い衝撃を受け、あれだけ固く決心したにもかかわらず、身体を揺らしてしまったのだった。
「まったく。ぶたれてもいないのに。なんて無様な」
「申し訳、ございません」
「わたくしだって、このような粗野な手段に出たくはありませんのに。不出来なあなたが悪いのですよ、アイラ」
ヒュンッ
小さな鞭の音がする度に少しずつ。少しずつ私の心は削られて、顔に心の動きが出ることはなくなった。
いつでもどんな時でも、淑女としての美しい微笑みだけを浮かべることができるようになったのだった。
そうして。どうにかキール夫人から辛うじて合格を頂くことができたのは、王太子殿下と初めての顔合わせの日の前日のことだった。
継母からは、この日のために作っておいたとドレスを受け取った。
父ゆずりの銀色の髪に映える濃紺の天鵞絨ドレスだった。スカートの広がりは極限まで抑えてあるものの、袖口や首元に銀糸の刺繍が施されており、シンプルなデザインながらとても美しい。
唯一つ。暖かくなってきているのに手首まである長袖で首をすっぽりと覆い隠すデザインなのはすこし辛かった。
「露出は最低限にしてあまり華美でない方が慎みがあってあなたには似合うと思ったの」
「ありがとうございます」
汗だくになった方が慎みを乱しそうだと思ったけれど、私は大人しく受け取り礼を言った。
たぶんきっと娘のいない継母は、自分が娘に着せてみたかった理想のドレスを私に作ってみたかったのだろう。夢が膨らみすぎて季節感を忘れてしまったのだ。そう思うことにした。
でも、亡き母ならば、どんなドレスを作ってくれただろうと考えずにはいられなかった。
緊張と期待のはざまに揺れながら、それを必死に押し隠して淑女の微笑みを浮かべて、私と結婚して家族になりたいと望んでくださったという王太子殿下フェリクス様とお会いする。
「ハースリィン侯爵家が一女アイラでございます」
「うむ」
ときめきに弾む胸の高鳴りを必死に押し隠して名乗りを終え、顔を上げた先にあったものは、王族特有の燃えるように赤い髪をした美しい顔だった。
きりりとした眉も強く輝く瞳も。まるで神が彫刻刀で刻まれたかというように力強く美しい。生命の力に溢れていた。
しかしその完璧な顔は、私の顔を見た瞬間から一目で分かるほど、不機嫌な表情へと変化した。
『あ、嫌われた』
そう瞬時に分かったけれど、狼狽えを表に出すようなことはしない。
それができるだけの訓練を私は積んできたのだから。
「未来の王太子妃、強いては未来の王妃となるべく研鑽を続けてまいります。よろしくお願いいたします」
重ねて言葉を掛けたけれど、王太子殿下から更に睨まれただけだった。
お言葉も頂けないまま、その日は終わった。
そうして私はようやく、この婚約は私という個人と家族になることを求めてのものではなく、国内のバランスを鑑みた上でハースリィン侯爵家の後ろ盾を求めてのものだと理解した。
それでも。
「共に国を治め、一生添い遂げるのだもの。いつか仲良く、笑い合えるようになりたい」
弟と三人で見つめ合い笑うハースリィン侯爵家の父と継母の姿がぼんやりと思い浮かんだ。
父の表情も継母の顔だって良く見たことはない。見えるほど近づく勇気はない。
そんな印象ばかりの遠景のような家族像しか私は持っていないのだ。
温かい関係でなくても構わない。冷たい侯爵家から連れ出してくれるだけでも十分だ。
お役目を与えられて、それをきちんとこなすことができれば、仕事上のパートナーとして認めて貰えたならばそれでいい。
そんな風生きる目標を貰えただけで十分だと目を閉じた。
*****
「何故泣く」
ふわりと温かなモノが、私に触れる。
とめどなく溢れ続け、私の心を溺れ死にさせようとする涙の川を懸命に拭い、冷たい水の底から救い出そうとする温かな手だった。
それが誰かの手だと理解した瞬間、慌てて身体を離そうとした。
逃げ出そうとした私を、獲物を逃がすまいとでもいうような本能的な反射的なのか、その手が熱い胸の中へと囲い込んだ。
豪奢な錦糸の刺繍が頬に擦れる。
「⋯⋯で、んか?」
「何故泣く。何故、そんな悲しそうに泣くんだ。俺から解放された喜びの涙ならともかく」
言葉の最後は声が掠れていた。
それでも、初めての抱擁はあたたかくて。
身体を捩ってみたものの、背中に回された腕は強くて、抜け出すことなど出来そうにない。
いいや。たとえこの一時の事だとしても、この腕の中の温かさを遠ざけることなど、温かさに飢えた私に出来るわけがない。
「でん、かが⋯⋯だって、殿下が」
静かな地獄でしかない侯爵家から救い出してくれると思っていた殿下の手が離されて、笑える訳がないのに。
けれど、それ以上告げる言葉を見つけることもできなかった。
嗚咽を繰り返すばかりの私に、殿下は散々ためらった挙句、ついにそれを告白した。
「皆がお前の笑顔は素晴らしいという。なのに、俺の前ではいつだってお前は苦しそうにしか笑わない。いつまでだって親しさをみせず、隔たりを感じさせるように取り繕った貼り付けたような笑顔しか見せようとしない。今だって嫌そうに逃げ出そうとしている。だから俺は、不本意な俺との婚約という枷を外してやろうと決めたのに。何故、そんな辛そうな涙を流すんだ。俺以外の男の前でも、そんな風に涙を流してみせるのか」
たぶんきっと、周囲がいう「素晴らしい笑顔」というものこそ、殿下のいう「取り繕った貼り付けたような笑顔」なのだと私はぼんやりと思った。
私としては、キール夫人から教え込まれた渾身の淑女の微笑みのつもりだったのに。
他の誰を騙せようとも王族である殿下には通用しないのだ。所詮付け焼刃でしかない私の淑女の微笑みなど嘘くさいとしか感じなかったのだろう。そんな自分が恥ずかしくて、身体を縮こめた。
「あの、その……すみません。私の修行が足りず、不快な笑顔を見せして」
「違う! そうじゃない。そうじゃないんだ。何故お前は、あの笑顔にならない。何故俺が近づくと怖がる。どうすれば、昔のあの笑顔が見れる? 俺は、俺が恋した少女の、愛らしい笑みがまた見たい」
顔のすぐ近くまで手を伸ばされて、ビクンと勝手に体が跳ねる。
それに気が付いた殿下は辛そうに顔を顰めた。伸ばした手をぎゅっと握りしめて引き戻し、抱きしめていた腕を離してくれた。
「まただ」
小さく呟いた殿下の言葉は、息をつけるようになったことにホッとする私の耳には届かなかった。
「あの、私、殿下とお会いしたのは、婚約の顔合わせの時が初めてだと」
「うっ。……アイラ嬢にとっては、そうだろう。だが、俺は……その。婚約者候補すべてと会ってから、決めたいと思ってだな。でも幼い頃のお前は身体が弱くて領地で療養していただろう? 王妃は体の弱い王妃候補などありえないと会わなくていいと言われたのだが、候補の候補に入っていた令嬢たちの中でお前だけ知らないままなのは納得できなくてな。だから、その……会いに行ったのだ。こっそりと」
実際には、勉強尽くしであった日常から飛び出したかったという思いがフェリクスの中において半分くらいは締めていたと思う。
王妃は、候補に入れることには反対の立場であったため、ハースリィン侯爵家へは第一王子であることは絶対に伏せて、外戚となる従兄の名前を借り旅行中に領主家へ挨拶に来たという態をとる事、それで会えなければ諦めることを約束させられた。
けれどそんなやましい気持ちで向かった先で見つけた愛らしい少女の笑顔に、フェリクスの心は鷲掴みされたのだ。
思わず近づいて、「なにをしている」と話し掛けずにいられないほどに。
「花を摘んでいるの」と言われても、フェリクスが知るバラやアネモネのような大輪で色とりどりの花などどこにも無い。
少女の手の中にあるのも、緑の葉っぱでしかないように見えた。
首を傾げてよくよく見ると、ほとんどが緑色の葉ばかりのその中に、花というには小さすぎる白い花があった。
「これが、花?」
疑問形を付けてしまったフェリクスに気が付かなかったのか、少女はもう一本花を摘んで、持っていた手の中の花と一緒に束ねると満足そうに微笑んだ。
「うん。かわいいでしょう?」
そう笑った顔に、息が止まるほど心惹かれたのだ。
だが初めての感情にどう言葉にすればいいのか分からないまま、少女は花束を摘み終えると去ってしまった。
「じゃあね、おにいちゃん」
さっと手を振ると、あっさりと侯爵家のマナーハウスへと駆け戻っていく。
その後ろ姿を見送る。
「こんな場所に一人で貴族の令嬢がいるはずがない。侯爵家の使用人の娘、か」
どれだけ心惹かれようとも、平民の娘を第一王子であるフェリクスの婚約者候補に入れられる訳がない。どれだけ幼くともきちんと理解していたフェリクスは、少女の背中がすっかり見えなくなるまで見送ると、胸が潰れそうなほどの喪失感を隠して、ハースリィン侯爵家のマナーハウスを訪ねた。
「そうして、マナーハウスで挨拶をして出てきた君が、あの少女だった時の俺の驚きと興奮を、俺は一生忘れることはないだろう。あの時決めたんだ。君がいいと。……なのに、君は、どれだけ経っても、あの日の笑顔を俺に向けてはくれなかった」
そんなことがあっただろうか?
記憶を探ってみても、母の死より前の幼い頃のことは遠いかすみの向こう側を覗き込むようであまり覚えていない。
母の笑った顔や髪を撫でてくれる優しい手の感触とか甘い匂いとか。途切れ途切れに残るのみだ。
いくら思い出そうとしても、その顔も声もどんな人だったのかも、まるで薄いベールの向こう側のようにぼんやりとしていてはっきりしなかった。
そんな風に思考の中へと沈んでいる私に向けて、殿下の震える指が伸ばされたのが見えて思わず顔を背けてしまった。
「ちっ」
小さな舌打ちの音が聞こえて、目を閉じた。
目を閉じていても感じるほど強い視線にさらされているというだけでも、頭がくらくらするというのに。
すぐ傍で私を見つめる殿下を前に、私はまた心が揺らいでみっともなく震え出そうとする身体をぎゅっと両手で抑え込んだ。
突然の婚約破棄宣言。
幼い殿下との邂逅について。
笑顔が嫌いだといった殿下が「見せろ」とねだる、殿下の望む笑顔とは、いったいどんなものなのだろう。
──幼い自分は、どうやってどんな顔をして笑っていたのだろう。
笑える日は、来るのだろうか。それは殿下のいう本当の笑顔なのだろうか。
苦しい。婚約を破棄されて、私はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。
分からない。
なにも役に立たない自分が、つらい。
いろいろなことが頭の中で渦巻いた。ううん。渦巻きすぎてしまったのだろう。
視界が突然昏くなる。
ずるりと視界が傾げていく中で、殿下が、必死な顔をして私に向かって駆け寄ると、受けとめてくれた気がする。
「アイラ! アイラ!?」
こんなにたくさん、叱責するため以外で名前を呼んで貰うのはいつ以来だろう。
今日一日だけで、婚約してから昨日までの分、全部を合わせた回数よりたくさん、殿下から名前を読んで貰えているかもしれない。
──このまま死んでしまうのも、悪くないかも。あぁ、でも。できることなら、名前を呼んでみたかった。
「……ふぇりくす、さま、って」
本当に声に出せたのかは分からないけれど。
不思議と幸せな気分で、私は意識を失った
*****
目を覚ました時、一番最初に見たのは、殿下の安堵した表情だった。
「よかった。アイラ」
濃い隈を作った殿下が自分を見つめていた。
潤んだその瞳が、心配していたのだと訴えかけてくる。
『愛しているわ。アイラ』
ずっと忘れていた母がアイラを呼ぶ声が聞こえた気がして目を瞬く。
殿下の視線は、亡き母が幼いアイラを見つめていたものによく似ていた。
けれど。だからこそ、殿下のお傍に居る訳にはいかない。
「失態をお見せしてしまいまして、大変申し訳ございません。すぐに王宮よりお暇致します」
そう謝罪してベッドから降りようとする私を殿下が止める。
「お前は3日も目を覚まさなかったのだぞ。まだベッドから降りてはいけない」
「いいえ。もう王太子殿下の婚約者ですらなくなった私が、王城にとどまるなんてできません」
「アイラ」
「婚約者として至らずご不快を与えてしまったこと、大変、たいへんもうしわけなく」
きっと侯爵家に戻ったら、父からは失望の視線を浴び、継母は大いに嘆くのだろう。
『愛息の邪魔をするつもりなのか』と。
ハースリィン侯爵で唯一愛される存在。王太子殿下から婚約を破棄されたような異母姉をジャンの傍に置いていてくれるような父や継母ではない。
私に残された道は、年の離れた貴族の後妻か、運が良くて修道院入りと言ったところだろう。
元王女の家庭教師であるキール夫人の師事を受けておきながら、結局は付け焼刃としてしか教養を身に着けることのできなかった不出来な娘。
追い出されても仕方がないと私はすべてを諦めていた。
「アイラ。俺はベッドに戻れと言っている」
「……」
聞き分けのない幼子に対するような殿下の叱責に、反論することはできなかった。
言いつけ通りにベッドへ戻り、羞恥に染まった頬を隠すように布団をかぶった。
「はぁ」
殿下がため息をつく音が聞こえてぎゅっと掛け布団の端を掴む手に力が入った。
実母はアイラを産んだことで身体を壊して領地下がりとなり、そのまま儚くなった。
不出来な私を指導するため、キール夫人は鞭を使った指導をする羽目になった。
そうして。そんな私と、殿下は不本意な婚約を強いられてきた。
あれほど努力してようやく及第点を貰えるようになったところだったというのに。
それでも婚約を破棄したいと言わせてしまうほど無様な笑顔しかできないなんて。
それもこれもすべて、私が令嬢として不適格という証左。
「アイラ。こちらを向け」
呼ばれても、顔を上げるどころか振り向くことすらできなかった。
目の奥がチリチリと熱くなる。我慢したかったけれど、しきれずに、涙が溢れる。
自分が情けなさすぎて、涙が次々溢れて止められない。
殿下との最後の時間だというのに、淑女らしく感情を抑え込むことすら私にはできない。
せめて声を上げることだけは我慢しようとしていたのに、抑えきれない嗚咽が、静かな部屋に響いた。
ぎしりと音がして、ベッドの縁が沈み込んだ。
「アイラ。泣くな」
覗き込むようにして殿下が声を掛けてくれたけれど、その声が優しく響いて、より泣けてくる。情けない。
「うっ、ううっ」
泣くなという命令にも応えられない。母の葬儀以外で涙を流したことなんて無かったのに。
一度流れてしまった涙は、止まることを忘れてしまったようだ。
耐えきれない苦しみが嗚咽となって漏れていく。それを必死に食いしばろうと唇を噛んで手で押さえ込む。
「あぁ、ちがう。すまないアイラ。謝らなければならないのは俺の方だ。今まで何も気が付かずに、すまなかった」
「でん、か」
「フェリクスだろ」
「え?」
「気を失う前に、そう呼んでくれたじゃないか」
「あっ」
掛け布団からはみ出していた髪をひと房、手に取ると殿下がそこへ唇を寄せた。
たったそれだけで、息がつまる。
「もう大丈夫だ。安心していい。ハースリィン侯爵と侯爵夫人、そしてあの自称王女の家庭教師はすでに捕らえた。今日からお前が、ハースリィン女侯爵だ」
「え?」
馬鹿のように、一つ覚えの返事を繰り返す私に、殿下……ううん、フェリクス様は、ゆっくりと説明してくれた。
産後の肥立ちが悪く体調を崩し勝ちになった母を、父は「怠け病」だとして最低限の治療しか許可しなかったらしい。それを領地の使用人たちにも徹底していたそうだ。
そうして妻と娘を領地に留め置いて、自分は王都で浮気三昧の日々を過ごしていたのだそうだ。
「たしかに、各家の金の使い方を王家は指示できる訳ではない。だが、だからといってこれは未必の故意的殺意があったと言わざるを得ない」
薬も出さず、食事も弱った体が受け付けやすくなるように適切な調理法をしている訳でもない。それで回復できる訳がないのだ。
当然の帰結として死に至った妻を労わることすらせず、夫でありながら妻の葬儀にすら参列しなかった。
それほどまでに不遇な扱いを妻に強いるのは高位貴族としてあまりにも不適格であると判じたのだという。
そうして継母は、家庭教師としてあまりにも苛烈な指導を行う札付きの夫人を継子である王太子の婚約者につけることで、婚約者の地位から引き摺り下ろそうと画策していたというのだ。
「キール夫人は、高名な家庭教師だと、わざわざ伝手を辿っておかあさまが連れてきて」
「たしかにある意味有名な家庭教師だ。教え子である貴族家の子女に体罰を与えて大怪我をさせただけでなく、笑顔で鞭を振る姿がトラウマになり心の病に陥らせたこともあると悪い意味で有名なんだ。過去のこともあり、あの家庭教師にはむち打ち刑に処した」
フェリクスは殊更さらりと刑を告げた。実際には鞭打ち百回が課せられた。実質死刑だ。夫人が生徒を脅すために使っていた軽量のものではなく刑罰に使われる鞭は重い。男性でも30回を超えると気絶するし、百に満たない回数で死に至るとされているからだ。
けれど、そのようなことはアイラに教えるつもりはなかった。フェリクスだけが知っていればいいことだからだ。
アイラの身体がふるりと震えた。
「そうですか。笑顔で、鞭を……」
目の前で鞭を見せつけていたあの時、キール夫人の表情は、どうだっただろう。
覚えていない。怖すぎて、見られなかったからだ。
「でも、継母は私に『ジャンのためになる婚姻を』と常々言っていました。王太子妃以上にジャンの未来のためになる婚姻などないのに。なぜ」
「『先妻の娘であるアイラが、自分の息子より上の地位につくことが許せなかった』とあの女は言っていた」
「あ……」
記憶の中で継母がアイラを見る目はいつだって冷たくて。アイラのことは家族ではないと言葉以外で痛いほど強く伝えてきていたのに。
だからフェリクス様の言葉に納得できてしまった。それ以上言葉が出なかった。
「だから、サディストな家庭教師をつけてお前の心を壊し、王太子の婚約者を辞退させ、金持ちの後妻にでもして金に換えるつもりだったようだ。クソが」
「そう、だったのですね」
まだ傷つく自分が情けなかった。
心のどこかでまだ信じていたのだ。家族なのだから、と。
継母の紹介を言葉通りに受け取り疑うことすらしなかった挙句、亡き母を貶す言葉にすら言い返せなかった。
「言い返してやればよかった」
ぽつりを零れた思いに、フェリクス様が笑った。
「お前には汚い言葉で罵るなんてできないだろう?」
「それは……はい、そうかもしれません」
自分以上に私のことを理解している風のフェリクス様に顔が赤くなった。熱い。
「だから、俺が散々罵倒してやっといた。ついでに父親からはハースリィン侯爵位を取り上げたぞ。ハースリィン侯爵位はお前が名を引き継ぎ、お前が産んだ子に与えることになった。大変だぞ、最低でも2人、いや3人は産まないといけないな」
「!?」
突然の言葉に理解が追い付かなくて、息が止まる。それほど驚いてしまったので、思わず口が空いたままになっていたことに気が付いて慌てて口を閉じた。
なのに。
「あの男には一代爵である准男爵を与えておいた。あの女と異母弟も一緒に家を出ていかせることにしてある。どうだ俺は仕事が早いだろ。褒めろ」
重ねて告げられた言葉も大概すぎてフェリクスを振り向くと、そこには、ニマニマと自信たっぷりで褒められ待ちをしている顔があった。
「……もうっ。なんですか、それ」
不思議な衝動が身体の奥の方から笑いが沸き上がってきて、くすくすと笑いながらつい目の前のフェリクスの身体をぽすんと叩いた。
その手を、掴まれて顔を覗き込まれる。
ベッドの中で寝返りを打っただけの私に覆いかぶさるように。
「だからもう、一人で泣くな」
「っ!」
「俺の傍にいろ。泣くなら、俺の前でだけだ」
「こ、」
甘く蕩けるような瞳で見つめられるから、涙が溢れてしまいそうになる。
私との婚約を破棄したのは、殿下の方だというのに。
なんでこんな視線を向けるの?
「こっ……婚約の、破棄を告げたのは、殿下じゃな、キャッ」
きゅっと鼻先を摘ままれた。
「“フェリクス”だ。それと、当然婚約破棄など破棄だ!」
鼻を摘まんでいた手を離して、「無しだ、無し!」と手を振る。
フェリクスのあまりに勝手な宣言に目を見張る。それと共に、もう摘ままれたりしないように両手で鼻先を押さえて隠した。
「あれは、お前が俺を嫌いなのだと思っていたからだ。俺の傍で、泣いて笑って、本当の表情を見せてくれるなら、ずっと傍にいて欲しい」
「フェリクスさま」
「愛してる。俺にお前を、守らせろ」
そっと影が近づいてきて、私と重なり一つになった。
お付き合いありがとうございましたー!




