追想 喪失と、百年後の始まり
このエピソードは本編『ネビュラ・ディバイド』と、その前日譚にあたる『ネビュラ・ディバイド:0』の間の物語になります。
サクラダケの森を抜け、視界が開ける。
ここから見るゴンドが、私の一番好きな景色。
ほんの数十年で、ゴンドの景色は大きく変わった。
辺境の村落に過ぎなかったゴンドは異世界情緒溢れる温泉町へと変容し、今では大陸中から人々が集まるようになった。
変わりゆく故郷の姿に寂しさを感じない、ということもない。けれど千年を生きる私たち狐族にとり、変化とは俯瞰して眺め、受け入れるべきものだ。
だから、どれだけ変わってもこの景色を見ると、ホッとする。
帰って来たんだって思えるから。
——お母さんにも、見せてあげたい。
幾度目かの旅も、また空振りに終わった。
母を見つけるどころか、手掛かりすらどこにもない。
まるで、初めからいなかったみたいに。
母がいなくなり、後を追うようにゴンドを去ったジュストの手掛かりも公都アルヴヘイム——当時はアルヴと呼ばれていた、そこで途切れている。
全部無駄なのかもしれない。
何度浮かんだか分からないその考えを振り払って、足を前へ運ぶ。
ゴンドの通りは随分立派になった。
石畳が敷かれ、街路樹が植わり、身なりの良い温泉客が漫ろ歩いている。
酒屋の前で葬儀が営まれていた。
あそこの主人が赤ん坊の頃から、私は知っている。
家の人に呼び止められ、話を聞くと大往生だったらしい。
定命種は皆、いつの間にか私を追い越していなくなってしまう。
何度も何度も何度も、私はただ、彼らを見送った。
実家が建つ小山を前にして、私は立ち竦む。
旅から帰る時は、いつもそうだ。
その度に父が痩せ、弱っていくように思えたから。
そんな父を置いて一人旅に出るのは、いつも後ろ髪を引かれる思いだった。
それでも、だからこそ私は、旅立たずにはいられなかった。
三百年前のあの日から、父は笑わなくなった。
ううん。私に笑顔を向けてくれる。
だけど、その笑顔の終わり際には必ず、泣きそうな顔をするんだ。
あるはずだった、喪われた未来を想像してしまったみたいに。
意を決して、小山を登る。
木板で形どられた階段を、一段一段踏み締めるように。
この山の景色はずっと変わらない。
土の匂いも。
虫の声も。
父は庭で薪割りをしていた。
こちらに向けられた背中がなんだか、小さく見えた。
それだけで何故か、心臓がキュッと鷲掴みにされたようだった。
鉈を振り下ろしきったタイミングで、その背中に声を掛ける。
「ただいま。お父さん」
父はすぐに振り返り、笑顔を作った。
「ああコハク、おかえり。旅はどうだった?」
“母さんは見つかったかい?”
そう訊ねられたことは、一度だってない。
「うん。……特に収穫は無かったよ」
「そうか。でも……うん。なんだか逞しくなったんじゃないか」
父は母のことには触れようとしない。
ジュストのことも、今は領主になったアムラスのことも。
「疲れてるだろう。部屋で休むといい。掃除はしてあるからね」
「ん、ありがとう。少し寝ようかな」
父は頷くと、再び薪に向き直り鉈を振り上げる。
カン。
薪の割れる小気味の良い音を背に、私は生家の玄関を潜った。
窓から差し込む夕陽が瞼を灼いて、私は目を覚ます。
見慣れた部屋。
ベッドと箪笥、それに文机が置かれただけの、私の部屋だ。
ニャーラが来た時は、あまりにも殺風景な部屋に本気で慄いていたくらいだ。
小さく伸びをして、それから尻尾についた寝癖を整える。
夕飯の支度をしよう。
旅先で食べたあのスパイスが効いた料理を。
辛くて、なのにやめられない。私は涙と汗を流しながら完食した。
父にも食べさせたくて、すぐにスパイスを買い集めた。
美味しいものを食べてる間は、きっと悲しみも忘れられるから。辛いものなら、なおさらだ。
これだけは間違いなく、この旅の収穫だと胸を張れる。
薄暮のリビングでお父さんは椅子に腰掛けていた。
「お父さん」
その背に声を掛けても反応はない。
眠っているのだろうか。
突然、嫌な予感がしてお父さんの正面に回り込む。
酷い汗だ。
跪くようにしてその手を握ると、すごく熱い。
苦しそうに父が呻き、私はぐらりと目の前が揺れるのを感じた。
「ベッドに寝かせないと……」
その揺らぎを抑え込んで父の肩を担ぐ。
思ったよりもずっと軽く感じられて、それがまた私の心臓を強く締め付ける。
ううん。きっと、旅で足腰が鍛えられたからだ。
父の部屋のドアを開き、その身体をベッドに寝かせる。
「コハ……ク」
まだ意識が朦朧としているようだ。
「ここにいるから、少し待ってて」
私は桶に冷たい井戸水を汲み、父の部屋へと運んだ。
濡れた手拭いを額に乗せると、父の表情は少しだけ揺らいだように見えた。
ネビュラでは、病は希少だ。
ネビュラ創世教の教えでは世界を満たし、全ての生き物に宿るアニマの加護が病から守ってくれるからだとされている。
実際、私は熱を出した記憶がない。
一方で、ワタリビトたちの最期は、大抵病によるものだった。
異世界からやって来た彼らには、アニマの加護が無いからだ。
なら、なぜ父はこんなに苦しんでいるのだろう。
アニマはその者の生きる意思に呼応する。そんな記述を目にしたことがある。
だとしたら、父は——
翌朝部屋に入ると、父は身体を起こしてカーテンの隙間から溢れる朝日を見つめていた。
「やあ。おはよう、コハク」
「……おはよう」
穏やかな声に私は胸を撫で下ろし、ベッドの横に立つ。
「カーテンを開けてくれないか。朝日が見たいんだ」
「うん」
カーテンを目一杯開くと、部屋を橙色の光が満たした。
オービスではこれを琥珀色と呼ぶのだと、ジュストが教えてくれた。
私と父の瞳の色と同じ。だから私はこの色が好きだった。
目を細めてそれを眺める父の顔は痩せて……いや、目に見えてやつれていた。
「もう、僕のために旅をするのはやめなさい」
朝食の粥を運んでくると、無言で朝日を見ていた父がやにわに口を開いた。
「母さんは……ヒスイはもう、きっとこの世界にはいない。君はもう大人になった。だから、君自身の人生を見つけなきゃならない」
静かな声だった。
私は、なんだか久しぶりに父の声を聞いたような気がしていた。
「……私は、私の意思でお母さんを探してる」
家族を取り戻すために。
お母さんにもう一度会いたかった。
記憶の片隅に残る、柔らかな笑顔に。
少しずつ弱っていく父を助けたかった。
「もう、いいんだ」
そう言って、父は微笑んだ。
あと数百年一緒にいられるはずだった最愛の人を失った、その痛みを飲み込んで。
ただ諦めたわけじゃない。
三百年だ。
三百年間、その喪失と、痛みと向き合い続け、それでも父は生きてきた。
きっと——私のために。
頭の中で浮かんでは消える感情に、私の心は嵐の中の小舟みたいに翻弄されて、気づいたら訳も分からず泣いていた。
跪くようにしてベッドに縋りつく私の頭を、父は優しく撫でながら言った。
「きっと、もうすぐ僕はいなくなる。コハクが大人になるまでは。そう思って生きてきたけど……もう、時間切れみたいだ。……勝手な願いだけど、どうか、独りにならないで欲しい」
父がいなくなれば、私はひとりぼっちだ。
小さな山の上の、この小さな家にただひとり。
何百年も。
「……出会いと別れは、必ずひと繋ぎだ。どれだけ強く結びついても、どんなに大切でも、いつか必ず訪れる。僕はヒスイに出会えて幸せだった。別れは苦しくて、辛くて、痛い。けど、出会ったことに後悔は無いんだ」
とても力強い声だった。
弱りきった体から発せられているとは思えないほどに。
「だから、出会いと……別れを恐れないで。きっと、コハクにもずっと一緒にいたいと思える人が、現れるからね」
「私は……お父さん、と……離れたく……ない……よぉ」
私は溢れ出る涙を両手で拭いながら、必死に言い募った。
「——僕もさ。きっと、母さんもそうだった。僕たちの大切な、コハク」
泣きじゃくる私の頭を、父は優しく撫で続けた。
小さな子供をあやすように。
いつしか私は、眠りの中に落ちていた。
夢を見ていた。
この家にお父さんとお母さんがいて、私は今の年齢で——ジュストがいる。だから、これは——夢。
偉くなったアムラスが手土産を持って遊びに来て、ジュストと楽しそうにお酒を飲んでる。
私はそれをねだり、もう大人なんだよって言うと、二人は目を見合わせて苦笑い。
差し出されたお酒を口にした私は派手に咽せて、皆が笑った。
ああ——こんな時間が永遠なら、どんなに幸せだっただろう。
目が覚めた私は、自分のベッドに横たわっていた。
自分で歩いた記憶はない。
父はあの体で、どうやって私をここまで運んだのだろうか。
けれど子供の頃父に抱かれたあの温もりを、夢の中で感じた気がする。
それから、父は熱こそ下がったが、目に見えて弱っていった。
調子の良い日もあったけど、食事の量も減り、次第に歩くことすら難しくなっていった。
別れの日が近い。
私は否定しようのない未来から目を背けながら、父の看病を続けた。
母はある日突然いなくなった。
こうして着実に別れが近づくのと、どちらがマシなのだろう。
ジクジクとした胸の痛みは強くなりすぎて、もう麻痺している。
父の看病をし、占いの仕事をして、帰ったらまた父の世話をする。
その度に、父は申し訳なさそうに謝った。
謝ることなんて、何もありはしないのに。
そうして日々はただ、淡々と過ぎていく。
父はその間、少しずつ母の話をしてくれた。
アルヴで出会った日のこと。
初めて一緒に出かけた日のこと。
母の両親に挨拶しに行った日のこと。
許されず、二人でゴンドへ逃げて来た日のこと。
ジュストと出会った日のこと。
——私が生まれた日のこと。
何百年も前の出来事を、父は昨日のことのように話した。
それは子供の頃訊ねても、決して教えてはくれなかった話だ。
「照れ臭くてね」
父はそう言って笑った。
けど、きっとその全てが傷だから言葉に出来なかったのだと思った。
傷痕じゃない。
今なお膿んで痛むから、直視できなかったのだ、と。
その話が今この日に追いついた時、父はどこか清々しい顔をしていた。
ある日、私はいつも通り夜明けとともに父の部屋を訪れた。
声を掛けるけど、返事はない。
カーテンを開き、布団を捲るけど目を覚さない。
私は静かに、いつもと同じように話しかけながら日課をこなしていく。
窓を開けて空気を入れ替え、天気の話をする。
けれど、父は目を覚まさない。
覚まさない。
覚まさない。
「お父さん、朝日が綺麗だよ」
琥珀色の朝日が滲む。
滲んで、崩壊する。
——私の泣き声はもう、誰にも届かない。
それから時は流れた。
定命種の赤ん坊が、ヨボヨボの老人になるより永い時が。
私にとっては、その寿命の一割ほどの時が。
父の言葉を守り、なるべく多くの人と関わるようになった。
人付き合いが得意な方じゃないけれど。
出会いが増えるだけ、別れの傷も増えたけれど。
そうしてもう何度目か分からない旅を終え、私はまたゴンドへ帰る。
今回も、母に繋がる手掛かりは何も見つけられなかった。
もうすぐゴンドに着くけど、汗を流したい。
本当はゆっくり温泉に浸かりたいけど、少し路銀を使いすぎたから、この先の小さな泉で水浴びをして帰ろう。
山道から少し離れた場所にあるこの泉は、滅多に人が来ることもない。
辺りを見回してから服を脱ぎ、水面に足先をつけるとその冷たさに腰が引けた。
それでも少しずつ慣らし、腰まで水に浸かる。
手のひらで澄んだ水を掬い、汗を流す。
相変わらず水は冷たいが、生き返るような心地だ。
物音。
微かに草葉を踏むような音がし、私の耳はピクンと跳ねた。
音の方を向くと、見慣れない服装の男の人がキョトンとこちらを見ていた。
静寂の中、しばらく見つめ合い——彼は聞き馴染みのない言葉を放つと、大慌てでこの場を去ろうとした。
私はすぐに水から上がると地面に置いた服を掴み、その後を追った。
背後からその手首を掴む。
「あなたは——ワタリビト?」
彼は恐る恐るこちらを振り返る。
熱い。熱い。熱い。
熱いのは掴んだ彼の手首か。それとも、私の体か。
心臓が激しく鼓動する。
何かが始まろうとしている、その期待に。
それは、いつか別れることを約束された出会い。
それがどんな形であろうとも、出会ったことを後悔することはないだろう。
お父さんと、お母さんのように。




