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πみたいに終われない恋

作者: 星渡リン
掲載日:2026/03/14

3月14日は「3.14」で、円周率の日。

終わりのない数を、今日だけは堂々と口にできる日です。


この短編は、数学研究部の女子高生が「恋を終わらせるつもり」で先輩に会いに行き、結局“続き”をもらってしまうお話。

恋は証明できないのに、なぜか手にはチョークの粉が残る。

そんな春の手前の一日を、あたたかいココアみたいな温度でどうぞ。

 3月14日。

 数学研究部の黒板に、誰かが勝手に大きな円を描いていた。円の右上には、白いチョークで「3.14」。


「……朝から圧が強い」


 私は鞄を机に置いて、円を見上げる。

 円は、始まりと終わりがつながっている形。どこから描いても、どこに戻っても同じ。逃げ道のないきれいさがある。


 今日は円周率の日。3.14の日。

 終わらない数の日。


(なのに私は、終わらせに行く)


 制服のポケットから小さなノートを引っぱり出す。表紙の裏に、昨夜の勢いで書いた文字。


『πみたいに終われない恋』


 自分の字なのに、読み返すと口の中が少しだけ苦い。

 私はノートを閉じて、胸の上で軽く押さえた。押さえたところで心臓は黙らないけど。


「綾、おはよー。朝から顔が数学の定理みたいに固い」


 ドアが勢いよく開いて、美緒が入ってきた。髪をひとつに結んで、紙袋をぶら下げている。紙袋から甘い匂いがした。


「おはよ。私の顔はいつもこうだよ」


「うそ。今日は“証明問題の最後の行が見つからない顔”してる」


「……当たってるからやめて」


 美緒は黒板の円を見て、満足そうに頷く。


「誰かちゃんと円描いたんだ。良いね。愛の円」


「数学研究部で愛って言うの禁止」


「むしろ言うべき。だって今日は円周率の日だよ? 終わらない数の日だよ? つまり」


 美緒が両手を広げる。


「終わらない恋の日!」


「勝手に制定しないで」


「でも綾、今日で先輩のこと……どうするの。終わらせるの? 割り切るの?」


 割り切る。

 その単語が胸に突き刺さって、私は小さく肩をすくめた。


「割り切れないから困ってる」


「出た。名言。円周率みたいな女」


「褒めてないでしょ」


「褒めてる褒めてる。無限の可能性ってこと!」


 美緒が紙袋を掲げた。


「はい、差し入れ。πの日だし、パイ!」


「……雑」


「語呂合わせに雑も丁寧もない!」


 紙袋の中には小さなアップルパイがいくつか入っていた。部室に甘い匂いが広がる。

 私はつい笑ってしまう。こういう笑いが出るだけで、今日の心が少し助かる。


「で。今日、奏多先輩来るんだよね?」


「……うん」


 スマホを開く。部活LINEに、昨夜届いた短いメッセージがある。


『放課後、部室寄る』


 送信者は奏多先輩。卒業したばかりの元・数学研究部。

 私の、終わらない恋の相手。


「ほらね。終わらない恋、向こうから来る」


「美緒……」


「大丈夫。綾は、数字が途切れても可愛いから」


「可愛くない。止まったら恥ずかしい」


「止まったら誤差。πは誤差が許される」


「円周率を何だと思ってるの」


「友だち。たぶん」


 真顔で言うから、私は吹き出した。



 昼休み前の部活時間。

 数学研究部は、今日だけちょっとだけ人数が増える。円周率の日の恒例行事があるからだ。


「円周率暗唱チャレンジ! 今年もやるぞー!」


 一年の後輩が謎に元気よく宣言した。ホワイトボード用のタイマーまで用意されている。気合いの方向が合ってるような、ズレてるような。


「ルールは簡単! 止まったら終了! 間違えたら終了! 笑ったら終了!」


「笑ったら終了だけ厳しすぎない?」


 美緒が口を挟むと、後輩が即答した。


「先輩、去年、笑って止まりました!」


「それは……その……」


 美緒が視線を泳がせる。

 私は横でこっそり頷いた。去年、美緒は「3.14159……パイ食べたい……」って言いながら笑って止まった。記録は四桁くらい。本人は「四桁ってもう十分理系」って言い張っている。


「綾先輩、今年も優勝ですよね!」


 別の後輩が目を輝かせてくる。

 私は曖昧に笑った。


「……たぶん」


 たぶん、が増える日ほど心が忙しい。

 私はノートを開いて、円周率の数字を指で追った。3.1415926535……。指先に、チョークの粉がついた気がして、手のひらを軽くこすった。


(今日は、止まりたくない)


(止まったら、私の気持ちも止まりそうで怖い)


 でも、放課後には先輩が来る。

 会う。話す。終わらせる。終わらせたい。

 その言葉が頭の中でぐるぐる回って、円みたいに出口がない。


「それでは! 一年から順番に!」


 後輩たちがわいわい始める。

 みんな、覚えているところまで言って、途中で止まって笑って、拍手が起きる。部活らしい平和な騒ぎ。


 そして、私の番が来た。


「綾先輩、お願いします!」


 私は深呼吸して、黒板の円を見た。

 窓が少し開いていて、冷たい空気が頬を撫でる。春の手前の冷たさ。胸の奥まで届く冷たさ。


「……3.1415926535」


 口に出すと、数字はリズムになる。

 リズムは私を守る。余計なことを考えないための盾になる。


「8979323846……」


 後輩が「おお……」って呟いた。

 美緒が小声で「いつ見ても引くわ」と言った。ひどい。


 私は続ける。続けられる。

 ずっと続けられる気がする。


 でも。


 ふっと、奏多先輩の声が頭に割り込んだ。


『最後まで言えなくていい。続きはまた明日でいい』


 去年の円周率の日。私が優勝して、息を切らして、まだ続きがあるのに悔しくて。そんな私に先輩が笑って言った言葉。


 続きはまた明日。

 その“また明日”が、今日で終わる気がして。


「……」


 数字が、喉の手前で止まった。


 タイマーの音がやけに大きく聞こえる。

 部室が静かになった。後輩たちの目が丸い。美緒の目も丸い。


 私は慌てて笑ってしまった。


「ごめん。今日は小数点以下が反抗期」


 一瞬の静寂のあと、どっと笑いが起きた。

 美緒が大げさに頷く。


「ほら、πも終わらないんだから、綾が止まっても誤差だよ誤差」


「誤差じゃない!」


「誤差ですー!」


 後輩たちも便乗して「誤差誤差!」って言い出して、私は顔が熱くなった。恥ずかしい。でも、救われた。

 止まった私を責める空気がない。それだけで呼吸ができる。


(止まっても、終わりじゃない)


 その感覚が、少しだけ胸に残った。



 放課後。

 廊下の空気は、卒業式後のゆるさでふわっとしている。私は部室に向かいながら、制服の袖を何度も引っぱった。落ち着かない。手のやり場がない。


「綾、顔がまた定理」


 美緒が横で囁く。


「定理やめて」


「じゃあ証明。証明が難航してる顔」


「……当たってるからやめて」


 部室のドアを開けると、後輩たちが片付けをしていた。ホワイトボードも、タイマーも、パイの紙袋もまだ出ている。甘い匂いが少し残っている。


「先輩、来ますよね?」


「うん。来る」


 私の返事は平静のふりをしていた。ふり、だけど。


 そして、ドアが開いた。


「……お邪魔します」


 低くて落ち着いた声。

 奏多先輩が入ってきた。


 私服だった。黒っぽいパーカーに細身のパンツ。制服じゃないだけで、急に遠く見える。

 “卒業”って、たぶんこういう距離の作り方なんだと思う。


「久しぶりです」


 私が言うと、先輩は「うん」と短く返した。

 視線が黒板の円に向かう。


「今年もやってる」


「恒例ですから」


 私は平静を装った。装ったつもりだった。


 でも先輩は、私を一瞬見て、すぐ分かったみたいに言った。


「綾、終わらせる顔してる」


 心臓が変な音を立てた。

 美緒が後輩を押し出すみたいにして、そそくさと外へ出る。


「じゃ、私たち、廊下で“誤差”してるんで!」


「誤差を動詞にするな!」


 後輩たちも「失礼しまーす!」と逃げるように出て行って、部室に二人きりになった。


 空気が急に重い。数字の重さじゃない。言葉の重さ。


「……終わらせる顔って、何ですか」


 笑って言ったのに、声が少し震えた。

 先輩は机の端に腰をかけて、私を見た。


「“ちゃんと終わらせます”って顔」


「……」


「綾、そういうの好きだよな。ちゃんとするの」


 ちゃんとするのは、私の癖だ。

 癖のせいで苦しくなることもある。


 先輩は黒板の前に立って、チョークを取った。

 3.1415926。そこまで書いて止める。


「ここまでなら、言える」


「……続き、言わないんですか」


「綾が言う?」


 先輩が振り返る。

 私は喉が詰まった。言いたい。言える。でも言ったら、何かが続いてしまう気がする。


「……今日は、無理」


 私が言うと、先輩は「そっか」と言った。

 短い。だけど責めがない。


「屋上、行く?」


 誘い方が自然で、逃げ道も残してくれている。

 私は小さく頷いた。



 屋上は風が冷たかった。

 フェンスの向こうに、春の色が薄く広がっている。校庭の端の桜の枝はまだ固いのに、光だけがやけに柔らかい。


「寒い?」


「……寒いです」


「じゃあ、ちょっとだけ」


 先輩がパーカーのポケットから小さな缶を出した。ココアと書いてある。もう一本も。


「え」


「帰りに買った。今日は寒いって天気予報が言ってたから」


「天気予報、優秀……」


 先輩は缶を二つ開けて、ひとつを私に渡す。缶が温かい。手のひらが助かる。


「……優しい」


 私が小さく言うと、先輩はわざとらしく首を傾げた。


「今さら気づいた?」


「今さらです」


「遅いな」


「πみたいに、遅いんです」


「それ褒めてないだろ」


「褒めてます。無限の可能性」


 言い返したら、先輩が笑った。

 笑うと胸が軽くなる。でも軽くなると、言わなきゃいけないことが近づく。


 私は缶を握りしめて、息を吸った。


「先輩。私……」


「うん」


「今日、終わらせようと思ってました」


 言えた。

 言った瞬間、胸が痛くなった。痛いのに、少しだけ楽になった。


「終わらせる、って何を」


 先輩の声は落ち着いていた。

 責めない声。逃げない声。


「……恋」


 私が言うと、先輩は瞬きを一回した。

 それだけで、先輩の中でも何かが動いたのが分かった。


「理由は?」


「……先輩、卒業したから」


「それだけ?」


「……それだけじゃない」


 言葉を探す。言葉はいつも、数字より難しい。


「迷惑かけたくない。先輩の時間、邪魔したくない。……私、恋って、そういうものだと思ってて」


 先輩が、少しだけ眉を寄せた。


「恋をすることが迷惑?」


「……はい。だって片想いって、勝手だから」


「勝手に好きになって、勝手に苦しくなって、勝手に期待して……ってやつ?」


「……そうです」


 先輩は缶を持ったまま、フェンスにもたれた。


「綾、恋を“証明”しようとする」


 どきっとした。

 当てられた。


「正しい終わり方とか、正しい距離とか、正しい整理とか。数学みたいに答えが出ると思ってる」


「だって……答えが出ないと、ずっと引きずるから」


 私は口を尖らせた。子どもみたいだ。でも止まらない。


「引きずるの、嫌なんです。自分が嫌になる。……ぐるぐるするの、苦手」


 先輩は私を見て、静かに言った。


「引きずってもいいじゃん」


「よくないです」


「πだって引きずってる」


「円周率を引きずるって言わないです」


「言わないけど、言いたくなる気持ちは分かるだろ」


 先輩の口元が少しだけ上がる。


「終わりの数字がないんだから、終わりの一言もいらない。そういうの、綾には難しい?」


 難しい。

 難しいけど。


 私は缶を飲んだ。甘くて温かい。口の中が甘いと、言葉が少しだけ柔らかくなる気がする。


「……先輩は平気なんですか」


「何が」


「私が、終われないままでも」


 先輩は少し黙って、ポケットに手を入れた。

 そして、小さな紙片を取り出した。


 折り目がたくさんついていて、角が丸くなっている。

 私はそれを見た瞬間に息が止まった。


「それ……」


 先輩が私に差し出す。


「これ。捨てられなかった」


 紙には、私の字が書いてあった。

 去年の円周率の日。私が先輩に渡した、ふざけたメモ。


『3.1415926… 続きはまた明日』


 私は紙を受け取って、指でなぞった。紙の感触が生々しい。

 “捨てられなかった”の重さがそこにある。


「……なんで」


「なんでだろ」


 先輩が少し困ったみたいに笑う。


「綾が言っただろ。続きはまた明日、って」


「……言いました」


「俺、あれ、嬉しかった」


 胸が、きゅっと縮んだ。

 嬉しかった。その一言で、私の一年がひっくり返りそうになる。


「続きがある、って思えた」


 先輩の声は、春の手前の風みたいに冷たいのに、優しい。


「だから、終わりの言葉を作らなくていい。綾が“続き”を言いたいなら、俺が聞く」


 私は紙片を握りしめた。指が少し震える。震えたまま、私は言った。


「……好きです」


 声が小さすぎて、自分でも驚いた。

 でも先輩はちゃんと聞いてくれた顔をした。


「終わらせたいって言ったの、嘘じゃないけど」


 私は急いで言葉を足した。足さないと恥ずかしくて消えたい。


「終わらせ方が分からなかっただけです。正しい終わり方がないなら怖い。でも、先輩が聞いてくれるなら……」


 先輩が、少しだけ笑った。

 その笑いは、ちゃんと温かかった。


「じゃあ、終わらせない方で」


「……え」


「終わらせない。続ける」


 簡単に言う。

 簡単な言葉にするまで、先輩がどれだけ考えたのか私は分からない。でも分からないままでもいい気がした。


「3.1415926…の続き、言って」


 先輩が言った。


 私は息を吸った。冷たい空気が肺に入って、目が少し潤む。泣くのは違う。違うけど、止まらない。


「……535」


 私が言うと、先輩がすぐに続けた。


「8979」


「3238」


「4626」


 二人で数字をつなげる。

 途切れそうになると、相手が拾ってくれる。数字なのに会話みたいだ。


 私は思わず笑ってしまった。


「笑うと、途切れます」


「じゃあ綾が笑った分、俺が続ける」


「ずるい」


「πみたいにずるい」


「それ褒めてないです」


「褒めてる。無限の可能性」


 先輩が言って、私はまた笑った。


(終わらないって、不安じゃないのかもしれない)

(終わらないって、約束になるのかもしれない)



 部室に戻ると、廊下で“誤差”していた美緒と後輩たちが待ち構えていた。


「おかえり! どうだった!? 終わった!? 終わらなかった!?」


「うるさい!」


 私が叫ぶと、美緒が目を輝かせる。


「その声、終わってないね! 終わってない声だね!」


「終わらせないことになりました!」


 私が言ってしまって、後輩が「ええええ!」と騒いだ。

 先輩が咳払いをひとつして、少しだけ照れた顔をする。


「……騒ぐな。数学研究部だろ」


「先輩、数学研究部って騒がない部活じゃないです!」


 後輩が即答して、部室が笑いに包まれた。

 私は顔が熱くて、どうしていいか分からないまま、黒板の前に立った。


 円の横に、先輩がさっき書いた「3.1415926」が残っている。

 私はチョークを取って、その続きを書く。


「535」


 先輩が隣に立って続ける。


「8979」


 美緒が腕を組んで頷いた。


「ほら、終わらないやつ、始まった」


「美緒、うるさい」


「うるさいのは応援です!」


 後輩が「共同作業だ!」と盛り上がる。

 私は笑いそうになって、先輩をちらりと見た。


 先輩も、ちょっとだけ笑っていた。

 私服の先輩はやっぱり遠く見えるのに、黒板の前に並ぶと不思議と距離が近くなる。


 数字をつなげて、白い線が伸びていく。

 どこまで書いても終わりは来ない。終わりがないことが、今日は怖くない。


 私はチョークの粉がついた指先を見て、思った。


(言葉にできないものは、手に残る)

(でも、残っていい)


 先輩が小さく言った。


「綾」


「……はい」


「続きは、また明日」


 私は一瞬目を丸くして、それから笑った。


「はい。……また明日」


 終わらない数の横で、終わらない恋が、ちゃんと形になった。

 円は閉じているのに、私たちの“続き”は、どこまでも書ける気がした。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


円周率は、どこまで行っても終わりません。

だから不安になることもあるし、だから安心できることもある。

この短編で描きたかったのは、「終わらない=片づかない」ではなく、「終わらない=続けてもいい」という感覚です。


恋は数学みたいに、きれいに割り切れない。

でも、途切れそうになったときに続きを渡してくれる人がいるなら、そこは“終わり”ではなく“また明日”になる。


あなたの中にも、答えが出ないまま大事にしているものがあるなら、どうか急いで閉じなくて大丈夫です。

続きは、また明日。そんなふうに。

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― 新着の感想 ―
青春してるなあと思いました。 こう言うのは本当に好きです。 大人になれば円周率は3で割りきれとなるかもしれない。世間体を考えて3.14まで続けるかもしれない。それ以上続けると未練がましいと言われるこ…
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