クリスタルゲート発動【1】
光が反転し、音の輪郭が遠のいた。 ──それが、クリスタル・ゲートを越えた瞬間の感覚。
荒れ狂う怨念も、体育館の埃っぽい匂いも、すべてが薄い膜の向こう側へ追いやられる。
代わりに流れ込んできたのは、ひやりとした、静謐な空気だった。
足元には、年月を感じさせる板張りの床。 古びてはいるが、誰かの手によって丹念に磨き上げられ、鈍い光を放っている。 視線を上げれば、譜面台と、一台のアップライトピアノ。
「……音楽室?」
ひかりが零した呟きは、まるで水中で発したかのように、わずかなラグを伴って響いた。
「いや、違う。ここは記憶の中心――特定の場所じゃない。誰かの執着が作り出した精神世界よ」
エマの低い声が、その場の異質さを肯定した。
やがて、視界の奥から過去が染み出すように動き出す。
ピアノの前に座る一人の少女。 制服を纏った背筋は、見入るほどに凛としている。 最初の一音。 それは決して完璧な技術ではない。けれど、迷いがない。
自分の鳴らす音を、その価値を、一点の疑いもなく信じきっている指の運びだった。
「……弾ける子やな」
「うん、綺麗な音」
リンの口から、感嘆が漏れた時、ミオも隣で静かに同意する。
初めてのクリスタルゲートは──どこか、現実世界じゃないみたいだ。いや、現実世界じゃないのは当たり前なんだけど。でも、不思議と常にゾクゾクが走る。
少女は、壁に貼られた一枚のポスターに視線を送る。 まだアイドルという仮面を被る前、一人のピアニストとして生きていた頃の赤井蓮。
彼女は彼の演奏動画を、何度も止めては巻き戻す。 一音一音をなぞるその姿は、憧れを通り越し、正解を探し当てる答え合わせのようでもあった。
「……好き、なんやな。それも、痛いほど」
ひかりの言葉には、同情も否定もない。ただ、目の前の純粋な熱量を事実として受け止めていた。
だが、時間は無情に景色を塗り替えていく。 少女のスマホに並ぶ通知。画面を埋め尽くす「赤井蓮」の文字。
彼女の顔を見る限り、最初は誇らしかったのだろう。自分の選んだ音が世界に認められていく。 ……けれど、人間ってのはそんなに単純な生き物でもないらしい。
動画の内容が演奏から歌番組へ、ドラマへ、バラエティへと変質していく。
それと呼応するように、賞賛の質も変わっていく。
『顔が良すぎる』
『びじゅ最高じゃん!』
少女の指が、スクロールを止めた。 瞳から光が消え、深い闇が宿る。
「……違う。そんなんじゃない」
誰にも届かない独り言。 この独り言を知るのは私たちと本人のみだ。
画面の中では、彼がまばゆいスポットライトを浴び、何万人の歓声を浴びている。
「私の方が、先に知っていたのに」
「私の方が、あの音の真実を知っているのに」
それは、まだ憎しみではない。 正体のない、焦燥。 自分だけの聖域が、大衆という濁流に飲み込まれていくことへの、言語化できない恐怖の様にも思えた。
「ここからだね、歪んでいくのは」
ミオが苦々しく吐き捨てる。
「純粋な好きだけじゃ、あそこまでの怨念は生まれないはず…」
エマが小さく頷きながら、そんな事を言った。
私は、無意識に自分の拳を強く握りしめた。 これは敵の過去だ。そんなの分かってる。だけど同時に、一歩間違えれば自分が辿っていたかもしれない可能性の姿でもある。
そんな思いを抱いているというのに、クリスタルゲートはまだ閉じそうになかった。




