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陽キャのソナタ【3】

 


 体育館の喧騒が、ピアノの前に座った瞬間にふっと凪いだ。 何百という視線が自分に突き刺さっているはずなのに、世界から色が抜け、鍵盤の白と黒だけが暴力的なほど鮮明に浮かび上がる。


「……久しぶり」


 誰にも聞こえるはずのない小さな私の声。



 指先に触れる象牙の冷たさに、胸の奥が締め付けられた。


 音楽を遠ざけていた時間は、自分が思うよりもずっと、心に深い空白を作っていたらしい。



 バイトに明け暮れて、友達と飲んだくれて。心配してくれている親にすら弱音や本音を見せれずに……。自分を助ける為に逃げた事実が自分を苦しめていたのかもしれない。


 そんな事が指先が鍵盤に触れた瞬間に、頭の中に浮かぶ。


 けれど、指は私の意思を追い越して動いた。


  最初の一音。 静まり返った空間に、氷を溶かしたような澄んだ音が広がる。



 反射し、重なり、消えていく。 ――あ。 懐かしさよりも先に、刺すような痛みが走った。



 それでも、指を止めることは許されない。


 祈るように和音を重ねる。 歌い出したのは、赤井蓮。 安物のマイクだという事を感じさせないくらいの真っすぐな歌声。


 派手さはなかった。


 だけど、一分の狂いもない完璧なピッチ。



 これが日本が誇るエンターテイナー会社の稼ぎ頭達か…。そんな事を思うと、自然と肩の力が抜ける。


 

 だけどその瞬間に観客の拍手のタイミングが、ほんのわずかに、けれど確実に遅れたのが分かった。



  観客席のざわめきが、湿り気を帯びて重く沈んでいく。


 嫌な予感がして不意に視線を上げると、最前列で肩を震わせる少女と目が合った。


 それは、感動の涙じゃなかった。 歓喜でも、純粋な羨望でもない。


 ――執着。 どろりと濁った感情が、赤井の歌声に絡みついているのが見えた。



「もっと」

「私だけを見て」

「あの頃に戻して」



 声にならない叫びが、音の隙間に侵食してくる。



 ……これはアカン。



 私の防衛本能が警鐘を鳴らしたときには、もう曲は終わっていた。



「最高だったよ!」「大成功だ!」 スタッフたちの威勢のいい声が飛び交い、撮影現場は華やかな祝祭感に包まれる。 赤井は爽やかに手を振り、社会科の先生に何やらメモを手渡すとメンバーと共に車へと消えていった。



 けれど、私は立ち上がれなかった。


 胸の奥に、さきほどの不協和音がこびりついて離れない。



 体育館は急激にその容積を広げた。 照明が落ち、機材が運び出され、日常という名の空虚が戻ってくる。なのに。 床の冷たさが、ストッキング越しに足裏を刺した。


 空気が、生理的な嫌悪感を覚えるほど重い。


 誰もいないはずのステージ中央。



 そこに、澱んだ黒い影がゆっくりと、確実に形を成し始めていた。


「リン」


 不意に、頭上から声が降ってきた。 見上げると、(はり)の上にうずくまったゴン太が、苦々しい顔でこちらを見下ろしている。


「今回は……デカいよ」


 その言葉で、心臓の鼓動が跳ねた。



 やっぱりだ。あの時感じたのは──。ゴクリ、とつばを飲み込んでから鍵盤からゆっくりと手を離す。


 ここには、頼れるエマも、元気なひかりも、一生懸命なミオもいない。



 今迄感じた事のないレベルの怨念を私一人で…倒さないといけないのだ。



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