ミオという生き物【2】
会議が終わったのは、思っていたよりも少し遅い時間だった。
昼休憩に差し掛かる前に役員会議に出席していた先輩に肩を叩かれた。思わずビクッとしたけど満面の笑みだった所から察するに、私の作り直した資料は上手に活用されたのだろう。
資料の説明を任されたわけでもないのに、背中にじんわりと汗をかいている。
私は逃げる様にロビーに向かうと、自販機の前で悩む事なくリンゴジュースを選び、そのペットボトルの蓋を開ける。
「さっきの資料、助かったよ」
背後から声を掛けられて、思わず先ほどと同じ様に肩が跳ねる。
振り返ると、そこにいたのは先程まで壇上に立っていた専務──そう、朝、先輩たちがひたすらに噂話をしていた家茂の姿がそこには有った。
朝と同じ、穏やかな表情。でも朝と違う点と言えば、他の人の視線がまるで私と専務二人にからまっている様なこの状態だろう。
「い、いえ……」
「一年目であれだけ整えられてるなら十分だと思うよ」
そんな優しい言葉を言った専務は、スマートフォンを取り出し自販機にかざすと、緑茶を選んだ。そして、朝の様に長い背を少し屈ませ、キンキンに冷えたペットボトルを取り出す。
海帝社の社長は確か今年で60歳だったはず。
目の前の『海帝家茂』は見た感じ、まだ年齢はそこまでいっていない。多分、30歳ジャストか、プラス二歳程度だろう。
「……ありがとうございます」
それだけで精一杯だった。家茂はそれ以上踏み込まず、軽く頷く。
「無理しちゃダメだよ。」
その言い方が、やけに優しかった。
説教でも評価でもなく、ただ事実を置いていくみたいな声。
私の胸の奥が、また小さく跳ねる。
近くで見る家茂は、やっぱり非現実的だった。
整いすぎた顔立ち、清潔感のある佇まい、余計な感情を乗せない視線。学生の頃、乙女ゲームに夢中になっていた時に画面越しに見ていた“攻略対象”が、もし現実にいたらきっとこんな感じなんだろう、なんて場違いな考えが浮かぶ。
──あれ、私、今、何考えてるんだろう。
恋愛経験なんて、ほぼない。
誰かを好きになる、という感覚も、正直よく分からない。
なのに、胸の奥がそわそわして落ち着かない理由を深く考えないようにした。ただの緊張。そういうことにしておく方が楽だった。
その時、家茂のスマートフォンが静かに震えた。彼は画面を一瞥して、少しだけ表情を緩める。
「ごめん、呼ばれてる。神崎さん、だったよね?」
「あ……はい」
「覚えておくよ。」
そう言いながら優しい笑顔で去っていく背中を、思わず目で追ってしまう。
その瞬間、彼の進んだロビーの奥から声が飛んできた。
「もしもし隼人?どうした?」
──え?
心臓が、一拍遅れて強く鳴った。
『隼人』
朝、LINEで見た名前。
ひかりちゃんの世界にいたはずの名前。
珍しくない名前だし、偶然だ。と自分に言い聞かせる。
でも、胸の奥に残ったざわつきは、簡単には消えてくれなかった。




