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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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09 休憩の指示

 

 面談室に残されたのは、保存したSNSの下書きと、静かな蛍光灯の音だけだった。


 俺は言われた通り、下書きを保存して、消さないように二重でメモを付けた。こういうのは、消した瞬間に面倒が倍になる。


 画面に残る文章は相変わらず真面目すぎた。


「感染対策を徹底しています」


 徹底してるのは分かる。医療者はみんな、たぶんそれを信じたくて徹底してる。SNSで読む人が信じるかは別だ。


 ため息をついて、スマホを閉じたところで、廊下の向こうから声が飛んできた。


「先生ー、高槻先生、ちょっと!」


 病棟の朝は雑だ。声が雑で、用件が雑で、予定が雑に変わる。


 声の主は日勤の看護師だった。若い。顔が少し焦っている。


「昨日の吐血の患者さん、家族が――」


「ああ、はい。説明する」


 説明。朝の仕事。現実。俺は白衣の襟を直して、面談室を出た。


 ◇


 家族説明を終えて、救外からの転院書類を確認して、指示を出して、ようやく一息ついた頃には、午前の中盤に差しかかっていた。


 ナースステーションを見ると、一ノ瀬紗夜がまだいた。


 夜勤明けのはずだ。


 彼女は師長の横で、書類を一枚ずつ確認している。内容は見えない。でも表情から、面倒な種類のやつだと分かる。完璧な人間に回ってくる、完璧さを要求される仕事。


 師長が何か言い、一ノ瀬さんが短く頷く。そこまではいつも通りだった。


 違ったのは、彼女の指先だった。


 紙をめくる手が、一瞬だけ止まる。止まって、また動く。ほんの一瞬。誰も気づかないくらいの遅れ。でも俺には、妙に目についた。


 昨日から、俺の視線がおかしい。病棟を見ているのに、一ノ瀬紗夜を観察している。


 余計だ。分かってる。分かってるのに、やめられない。


 師長が去り、一ノ瀬さんが一人になった瞬間、彼女は軽く肩を回した。夜勤明けの人間の動き。完璧の外側にある、普通の疲れ。


 俺は声をかけようとして、やめた。


 仕事中の私に持ち込まないで。

 余計な優しさ、いりません。


 言われたことを守れない医者は、ただの厄介者だ。


 ◇


 その直後だった。


 ナースステーションの隣の処置台で、採血の準備が始まった。午前のルーチン。採血、点滴更新、処置。病棟の現実が進む。


 日勤の看護師が困った顔で言うのが聞こえた。


「これ、血管取れないタイプだ……」


「一ノ瀬さん、お願いできます?」


 誰かが軽く言った。軽い頼み方。できる人に投げる軽さ。


 一ノ瀬さんは一拍置いた。いつもなら即答で「はい」なのに。


 でも次の瞬間、彼女は仕事の声に戻った。


「分かりました」


 その声を聞いた日勤の看護師が、ほっとした顔をした。ひどい話だ。安心の責任を一人に背負わせる。


 一ノ瀬さんがトレーを手にして処置台に立つ。手袋。駆血帯。アルコール綿。針。


 動きは相変わらず綺麗だった。綺麗すぎて、逆に怖い。崩れないように支えている綺麗さだ。


 患者は高齢で、皮膚が薄い。血管が逃げるタイプ。採血が上手い人が必要なやつ。


 一ノ瀬さんが穿刺して、逆血を確認して、採血管に移す。ここまでは完璧だった。


 問題は、その後だった。


 彼女が採血管に貼るラベルを取り上げた時、ラベルの患者名が違った。


 ほんの一瞬、俺の頭が冷えた。


 誰だって人間は間違える。だけど一ノ瀬紗夜が、ここで間違えるのは、違う意味を持つ。


「一ノ瀬さん」


 俺は思ったより低い声で言っていた。


 彼女の手が止まる。目がこちらに向く。


「……はい」


「それ、患者違います」


 一ノ瀬さんはラベルを見て、何も言わずに捨てた。捨て方が速い。反省の仕草もない。言い訳もしない。なかったことにする速度だけが異様に速い。


 そしてすぐに、正しいラベルに貼り替えた。


「すみません」


 小さい声。


 それが、今日初めて聞いた“人間の声”だった。


 採血が終わり、患者が「痛かった」と言い、誰かが「お疲れさまです」と言って、現場は何事もなかったように回り続ける。


 でも俺の中では、何かが決まった。


 余計な優しさはいらない。

 でも、これは余計じゃない。


 俺はナースステーションの奥へ一ノ瀬さんを呼んだ。


 呼ぶというより、立ち位置で逃げ道を塞いだ。


「一ノ瀬さん」


「はい」


 返事は仕事の返事。でも目が少しだけ鋭い。警戒している。


「今から休憩取ってください」


 一ノ瀬さんの眉が、ほんの少しだけ動いた。


「大丈夫です」


 即答。おなじみのやつ。


「大丈夫じゃない」


 俺が言うと、一ノ瀬さんが一度だけ息を止めた。


「先生、仕事中の私に――」


「吸血鬼の話じゃない」


 言い切った。結城の声が頭の中で反復する。特別扱いしない。休める状況を作る。


「今、採血のラベルを間違えた。あなたが」


 一ノ瀬さんの目が一瞬だけ揺れた。怒りでも羞恥でもなく、計算が崩れた揺れ。


「……あれは、すぐ訂正しました」


「訂正できるうちはいい」


 俺は続けた。


「訂正できなくなったら困る。あなたも困る。病棟が困る。俺が面倒」


 最後は、いつもの盾だ。面倒だから。業務だから。体調だから。


 一ノ瀬さんは数秒黙った。声を出さずに、短い戦いをしているみたいだった。


 そして、諦めたように頷いた。


「分かりました。十五分、休憩します」


 俺は頷いた。


「そうしてください」


 一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ声を落とした。


「……先生」


「はい」


「探さないでください」


 来た。


 俺は、即答した。


「探しません」


 一ノ瀬さんはそれだけで十分だという顔をして、背中を向けた。歩き方は崩れていない。崩れていないのに、どこか軽くふらついて見える。俺の目が変なのかもしれない。


 彼女は職員通用口の方へ消えていった。


 ◇


 十五分。


 時計の針を見ながら仕事をするのは、医者に向いていない。針は進むのに、心だけが置いていかれる。


 俺は診療録を開いて、吐血患者の転院先の情報を追い、抗菌薬の見直しをし、ついでに昼の回診の段取りを考えた。考えた。考えたつもりになった。


 気づけば二十分が過ぎていた。


 三十分。


 一ノ瀬さんは戻ってこない。


「一ノ瀬さん、休憩長くない?」


 日勤の看護師が、軽く言った。軽く。軽い言葉は、軽い危険を運ぶ。


 師長が眉をひそめる。


「夜勤明けだし、早く仕事終わらせて帰って欲しいんだけどね。そういうこともあるんじゃない。」


 擁護の言葉の形をしているけど、声音には別の意味が混じっていた。確認したい、という意味。管理したい、という意味。病棟を回したい、という意味。


 俺は口を開きかけて、閉じた。


 探さないでください。

 探しません。


 約束を守るなら黙る。

 でも、倒れていたら?


 俺の白衣のポケットの中で、ラミネートされたカードの角が指に当たった。結城の窓口。夜間直通。


 そのとき、俺のPHSが鳴った。


 内線の着信音。病棟番号。


 俺は反射で取った。


「高槻です」


「先生、すみません」


 師長の声ではなかった。処置台の近くにいた、さっきの若い看護師の声。


 少しだけ震えている。


「一ノ瀬さんが……戻ってこないんですけど、職員休憩室、見に行ったら」


 一拍。


「倒れてました」


 世界が、また一段だけ白くなった。


「意識は?」


「呼びかけには反応します。でも、顔色が……」


「分かった。すぐ行く」


 通話を切って走り出した。


 探さないって約束は、守るつもりだった。

 でも、探さないことと、放置することは違う。


 結城の声が頭の中で冷たく響いた。


 特別扱いしないのが特別扱いです。


 俺は職員休憩室のドアを開けた。


 そして――

 床に座り込んだ一ノ瀬紗夜の手元に、見覚えのある赤いパックが転がっているのを見た。


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