08 広報SNS係
事務長の笑顔は、だいたい「断れない話」を運んでくる。
廊下の真ん中で呼び止められて、逃げる方向を間違えた時点で詰んでいた。
「高槻先生、最近ね、病院のSNSを作ったんですよ」
「……はあ」
「で、医師側の担当を決めたいんです。先生、お願いできませんか」
朝の光の下で言われると、夜の怪談より現実味がある。逃げ道がないやつの現実味。
「僕、そういうの向いてないと思いますけど」
「向き不向きじゃないんですよ、若い先生いないんで。若者はそういうの詳しいでしょ。当番。当番」
当番という単語が強い。医局の当番も、当直の当番も、委員会の当番も、当番は人を殺さずに人を削る。
事務長は続けた。
「医師の顔が出ないとね、見てもらえないんですよ。病院って怖い場所だと思われてるから、柔らかい雰囲気が必要で」
柔らかい雰囲気。
俺の人生で一番縁がない。
「誰か他に――」
「それとね、看護師側は師長に聞いて、一ノ瀬さんで決めてます」
決めてます、の言い方が軽い。決められる側の体力を、最初から計算に入れていない軽さ。
「……一ノ瀬さん、夜勤明けですよ」
「そこは調整します。若いし、仕事できるし、印象もいいし。先生と並べるとちょうど――」
「ちょうど?」
事務長は笑って誤魔化した。
「ちょうど、ええと、バランスが」
何のバランスかは聞かない方が良い。たぶん、誰も得しない。
結局、俺は「分かりました」と言ってしまった。言ってしまう口が、いちばん問題だ。
◇
ナースステーションに戻ると、一ノ瀬紗夜はまだいた。夜勤明けのはずなのに、最後の記録を整えて、日勤への引き継ぎメモをまとめている。姿勢が崩れない。
俺が近づくと、一ノ瀬さんは一度だけ顔を上げた。
「SNS係ですね」
先に言われた。
「……聞いてたんですか」
「今さっき、師長から」
師長から。もちろん回る。こういう話は血液より早く回る。
「すみません。巻き込まれました」
「私もです」
同じ温度で返されて、妙に安心した。巻き込まれ仲間だ。
一ノ瀬さんは、仕事用の丁寧な顔のまま言った。
「先生、写真に写るの苦手ですか」
「苦手っていうか、興味がないです」
「助かります」
助かる、という評価が怖い。何をするつもりだ。
「まず、人物を出さずにいきましょう。院内風景と、設備と、啓発。患者さんが写らないやつ」
啓発。言葉が真面目すぎる。SNSなのに。
「でも事務長、医者の顔がないと見てもらえないって」
一ノ瀬さんは一拍だけ間を置いた。疲れているのに、頭は切り替えが早い。
「じゃあ、医師の手元だけ」
「手元?」
「診察のイメージ。聴診器。カルテ。手袋。顔が写らなければ、個人情報が減ります」
個人情報を減らす。看護師の口から出ると納得感がある。減らせるなら減らす。それは正しい。
俺は、そこで一つだけ“必要な質問”を思いついた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「……吸血鬼って、写真に写るんですか」
言った瞬間、やってしまったと思った。
仕事中の彼女に持ち込まない。さっき約束したばかりだ。
でも、これはSNS係だ。写真の話だ。業務上、必要――ということにしたい。
一ノ瀬さんは、俺を見た。目が冷たいわけじゃない。ただ、線を引く目。
「先生」
「……はい」
「その話題、仕事中に持ち込まないでって言いましたよね」
正論。反論できない。
俺は小さく頭を下げた。
「すみません。でも、写真は仕事なので。必要かなって」
一ノ瀬さんはほんの少しだけ息を吐いた。夜勤明けの、余分な怒りを出す体力がない息。
「写ります」
即答だった。
「幽霊じゃないので」
そこだけ、ほんの少しだけ皮肉が混じった。彼女なりの冗談だ。
「じゃあ、顔出しもできる」
俺が言うと、一ノ瀬さんは首を横に振った。
「できる、の意味が違います」
「……どう違うんですか」
「写るのと、出すのは別です。SNSは残ります」
残ります、という言葉が重い。吸血鬼というより、現代人としての重さだ。炎上も、スクショも、転載も、全部残る。
「顔は、できれば出したくないです」
その言い方は、個人の好みというより、生活防衛だった。
「理由は?」
俺が聞くと、一ノ瀬さんは言いかけて、やめた。
「……余計なので」
余計。結城も言っていた。余計なことはしない。余計な優しさは危ない。
「分かりました。顔は出さない方向で」
俺がすぐに引くと、一ノ瀬さんの視線が少しだけ柔らかくなった。
「ありがとうございます」
礼を言われるほどのことじゃないのに、また礼を言われる。
◇
「じゃあ、今から少しだけ撮りますか」
一ノ瀬さんがそう言って、スマホを取り出した。病院支給のやつじゃなくて、業務用の端末に見える。無駄がない。機種も地味。
「今から?」
「今日やらないと、たぶんずっとやりません」
それは、ものすごく分かる。委員会資料と同じだ。先延ばしは腐る。
俺たちは、患者が写らない場所を選んで院内を歩いた。廊下のサイン、外来の掲示板、感染対策のポスター。角度を調整して、名前が写らないようにして、反射に気をつけて。
一ノ瀬さんは撮りながら、淡々と指示を出す。
「先生、その位置だと名札写ります。隠してください」
「これ?」
「それです。個人情報です」
「俺の名前、別に」
「先生のじゃなくて、背景に写る患者さんの呼び出し番号とか、ボードとか。全部です」
全部です。そういうところが、彼女を完璧にしているんだろう。
救急カートの写真を撮る時も、一ノ瀬さんは首を振った。
「薬剤は写さない方がいいです。防犯的に」
「SNSって意外と面倒だな」
俺が言うと、一ノ瀬さんは真顔で返した。
「面倒だから事故が減ります」
事故、という言い方が彼女の口にも合う。医療安全の人間の言葉だ。
一通り撮って、面談室に戻って文章を作ることになった。俺は椅子に沈み込んだ。眠気が背中から押してくる。
一ノ瀬さんはスマホで文章を打つ。速い。丁寧。敬語がきれいすぎて、逆にSNSっぽくない。
「これ、固くない?」
俺が言うと、一ノ瀬さんは画面を見せた。
「『当院では感染対策を徹底しています。手指衛生にご協力ください』」
正しい。正しすぎる。
「正しいけど、誰も読まない気がする」
「読まなくても、出しておくことに意味があります」
またそれだ。出すことに意味。啓発の人の言い方。
「もうちょい柔らかくするなら、どうすれば」
一ノ瀬さんは一拍考えてから、ほんの少しだけ口角を上げた。
「先生が絵文字を付けるとか」
「俺が?」
「先生、そういうの苦手そうなので」
正確すぎて反論できない。
「じゃあ、一ノ瀬さんが付ければ」
「私も苦手です」
同類だった。妙な安心。
◇
一通りの下書きができた頃、俺のPHSが鳴った。普通の着信音。病院の内線ではない番号だった。
こんな時間に外線。嫌な予感がする。
「高槻です」
「高槻先生でしょうか」
声の温度で分かった。結城 千景だ。
一ノ瀬さんがスマホから目を上げた。目だけで「誰ですか」と聞いてくる。
俺は小さく口だけ動かした。
「結城さん」
一ノ瀬さんの表情が変わらないまま、空気だけが張った。
結城は用件だけ言った。
「広報の件で一点。今、院内SNSに一ノ瀬紗夜さんを“顔出し”で載せる予定が進んでいますか」
「……今、下書きを作ってました」
「顔は出しますか」
一ノ瀬さんがこちらを見た。線を引いた目。
俺は答えた。
「出さない方向で考えてます」
結城は短く言った。
「それがいい」
それだけで通話を終えそうな勢いだったが、最後に一言だけ足した。
「先生。彼女の居場所が壊れるのは、渇きより早い」
そして切れた。
PHSの画面が暗くなる。部屋の蛍光灯が白い。眠気が一瞬で引いた。
一ノ瀬さんが、何もなかったみたいにスマホに目を戻して言った。
「結城さん、余計なこと言いました?」
「……余計というより、必要なことだけ」
俺が答えると、一ノ瀬さんは小さく頷いた。
「じゃあ、顔は出しません。先生の手元だけにしましょう」
淡々。決定が早い。完璧な人は、切り替えも完璧だ。
でも俺は、さっき結城が言った言葉が頭から離れなかった。
居場所が壊れるのは、渇きより早い。
病院のSNSは、病院のためのものだ。
一ノ瀬紗夜の生活のためのものじゃない。
俺は椅子の背にもたれて、乾いた声で言った。
「……俺たち、何やってるんだろうな」
一ノ瀬さんは、画面から目を離さずに返した。
「余計なことを減らすための、必要なことです」
正しい。正しすぎる。
そのとき、面談室のドアがノックされた。
コン、コン。
「一ノ瀬さん、師長から。ちょっといい?」
外の声がした。
一ノ瀬さんが立ち上がる。職場の顔に戻る速度が早い。
「はい、今行きます」
扉の前で一度だけ振り返って、俺に言った。
「先生、SNSの下書き、保存しといてください。消さないで」
「分かった」
「あと」
一拍。
「今日の私は、もう限界なので。余計な優しさ、いりません」
そう言って、一ノ瀬紗夜は朝の病棟へ出ていった。
残された俺の前には、保存された下書きと、結城の名刺と、冷めた缶コーヒーだけがあった。
朝は、容赦なく進む。
余計なことも、必要なことも、同じ速度で。




