表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/34

08 広報SNS係

 

 事務長の笑顔は、だいたい「断れない話」を運んでくる。


 廊下の真ん中で呼び止められて、逃げる方向を間違えた時点で詰んでいた。


「高槻先生、最近ね、病院のSNSを作ったんですよ」


「……はあ」


「で、医師側の担当を決めたいんです。先生、お願いできませんか」


 朝の光の下で言われると、夜の怪談より現実味がある。逃げ道がないやつの現実味。


「僕、そういうの向いてないと思いますけど」


「向き不向きじゃないんですよ、若い先生いないんで。若者はそういうの詳しいでしょ。当番。当番」


 当番という単語が強い。医局の当番も、当直の当番も、委員会の当番も、当番は人を殺さずに人を削る。


 事務長は続けた。


「医師の顔が出ないとね、見てもらえないんですよ。病院って怖い場所だと思われてるから、柔らかい雰囲気が必要で」


 柔らかい雰囲気。

 俺の人生で一番縁がない。


「誰か他に――」


「それとね、看護師側は師長に聞いて、一ノ瀬さんで決めてます」


 決めてます、の言い方が軽い。決められる側の体力を、最初から計算に入れていない軽さ。


「……一ノ瀬さん、夜勤明けですよ」


「そこは調整します。若いし、仕事できるし、印象もいいし。先生と並べるとちょうど――」


「ちょうど?」


 事務長は笑って誤魔化した。


「ちょうど、ええと、バランスが」


 何のバランスかは聞かない方が良い。たぶん、誰も得しない。


 結局、俺は「分かりました」と言ってしまった。言ってしまう口が、いちばん問題だ。


 ◇


 ナースステーションに戻ると、一ノ瀬紗夜はまだいた。夜勤明けのはずなのに、最後の記録を整えて、日勤への引き継ぎメモをまとめている。姿勢が崩れない。


 俺が近づくと、一ノ瀬さんは一度だけ顔を上げた。


「SNS係ですね」


 先に言われた。


「……聞いてたんですか」


「今さっき、師長から」


 師長から。もちろん回る。こういう話は血液より早く回る。


「すみません。巻き込まれました」


「私もです」


 同じ温度で返されて、妙に安心した。巻き込まれ仲間だ。


 一ノ瀬さんは、仕事用の丁寧な顔のまま言った。


「先生、写真に写るの苦手ですか」


「苦手っていうか、興味がないです」


「助かります」


 助かる、という評価が怖い。何をするつもりだ。


「まず、人物を出さずにいきましょう。院内風景と、設備と、啓発。患者さんが写らないやつ」


 啓発。言葉が真面目すぎる。SNSなのに。


「でも事務長、医者の顔がないと見てもらえないって」


 一ノ瀬さんは一拍だけ間を置いた。疲れているのに、頭は切り替えが早い。


「じゃあ、医師の手元だけ」


「手元?」


「診察のイメージ。聴診器。カルテ。手袋。顔が写らなければ、個人情報が減ります」


 個人情報を減らす。看護師の口から出ると納得感がある。減らせるなら減らす。それは正しい。


 俺は、そこで一つだけ“必要な質問”を思いついた。


「一ノ瀬さん」


「はい」


「……吸血鬼って、写真に写るんですか」


 言った瞬間、やってしまったと思った。

 仕事中の彼女に持ち込まない。さっき約束したばかりだ。


 でも、これはSNS係だ。写真の話だ。業務上、必要――ということにしたい。


 一ノ瀬さんは、俺を見た。目が冷たいわけじゃない。ただ、線を引く目。


「先生」


「……はい」


「その話題、仕事中に持ち込まないでって言いましたよね」


 正論。反論できない。


 俺は小さく頭を下げた。


「すみません。でも、写真は仕事なので。必要かなって」


 一ノ瀬さんはほんの少しだけ息を吐いた。夜勤明けの、余分な怒りを出す体力がない息。


「写ります」


 即答だった。


「幽霊じゃないので」


 そこだけ、ほんの少しだけ皮肉が混じった。彼女なりの冗談だ。


「じゃあ、顔出しもできる」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは首を横に振った。


「できる、の意味が違います」


「……どう違うんですか」


「写るのと、出すのは別です。SNSは残ります」


 残ります、という言葉が重い。吸血鬼というより、現代人としての重さだ。炎上も、スクショも、転載も、全部残る。


「顔は、できれば出したくないです」


 その言い方は、個人の好みというより、生活防衛だった。


「理由は?」


 俺が聞くと、一ノ瀬さんは言いかけて、やめた。


「……余計なので」


 余計。結城も言っていた。余計なことはしない。余計な優しさは危ない。


「分かりました。顔は出さない方向で」


 俺がすぐに引くと、一ノ瀬さんの視線が少しだけ柔らかくなった。


「ありがとうございます」


 礼を言われるほどのことじゃないのに、また礼を言われる。


 ◇


「じゃあ、今から少しだけ撮りますか」


 一ノ瀬さんがそう言って、スマホを取り出した。病院支給のやつじゃなくて、業務用の端末に見える。無駄がない。機種も地味。


「今から?」


「今日やらないと、たぶんずっとやりません」


 それは、ものすごく分かる。委員会資料と同じだ。先延ばしは腐る。


 俺たちは、患者が写らない場所を選んで院内を歩いた。廊下のサイン、外来の掲示板、感染対策のポスター。角度を調整して、名前が写らないようにして、反射に気をつけて。


 一ノ瀬さんは撮りながら、淡々と指示を出す。


「先生、その位置だと名札写ります。隠してください」


「これ?」


「それです。個人情報です」


「俺の名前、別に」


「先生のじゃなくて、背景に写る患者さんの呼び出し番号とか、ボードとか。全部です」


 全部です。そういうところが、彼女を完璧にしているんだろう。


 救急カートの写真を撮る時も、一ノ瀬さんは首を振った。


「薬剤は写さない方がいいです。防犯的に」


「SNSって意外と面倒だな」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは真顔で返した。


「面倒だから事故が減ります」


 事故、という言い方が彼女の口にも合う。医療安全の人間の言葉だ。


 一通り撮って、面談室に戻って文章を作ることになった。俺は椅子に沈み込んだ。眠気が背中から押してくる。


 一ノ瀬さんはスマホで文章を打つ。速い。丁寧。敬語がきれいすぎて、逆にSNSっぽくない。


「これ、固くない?」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは画面を見せた。


「『当院では感染対策を徹底しています。手指衛生にご協力ください』」


 正しい。正しすぎる。


「正しいけど、誰も読まない気がする」


「読まなくても、出しておくことに意味があります」


 またそれだ。出すことに意味。啓発の人の言い方。


「もうちょい柔らかくするなら、どうすれば」


 一ノ瀬さんは一拍考えてから、ほんの少しだけ口角を上げた。


「先生が絵文字を付けるとか」


「俺が?」


「先生、そういうの苦手そうなので」


 正確すぎて反論できない。


「じゃあ、一ノ瀬さんが付ければ」


「私も苦手です」


 同類だった。妙な安心。


 ◇


 一通りの下書きができた頃、俺のPHSが鳴った。普通の着信音。病院の内線ではない番号だった。


 こんな時間に外線。嫌な予感がする。


「高槻です」


「高槻先生でしょうか」


 声の温度で分かった。結城 千景だ。


 一ノ瀬さんがスマホから目を上げた。目だけで「誰ですか」と聞いてくる。


 俺は小さく口だけ動かした。


「結城さん」


 一ノ瀬さんの表情が変わらないまま、空気だけが張った。


 結城は用件だけ言った。


「広報の件で一点。今、院内SNSに一ノ瀬紗夜さんを“顔出し”で載せる予定が進んでいますか」


「……今、下書きを作ってました」


「顔は出しますか」


 一ノ瀬さんがこちらを見た。線を引いた目。


 俺は答えた。


「出さない方向で考えてます」


 結城は短く言った。


「それがいい」


 それだけで通話を終えそうな勢いだったが、最後に一言だけ足した。


「先生。彼女の居場所が壊れるのは、渇きより早い」


 そして切れた。


 PHSの画面が暗くなる。部屋の蛍光灯が白い。眠気が一瞬で引いた。


 一ノ瀬さんが、何もなかったみたいにスマホに目を戻して言った。


「結城さん、余計なこと言いました?」


「……余計というより、必要なことだけ」


 俺が答えると、一ノ瀬さんは小さく頷いた。


「じゃあ、顔は出しません。先生の手元だけにしましょう」


 淡々。決定が早い。完璧な人は、切り替えも完璧だ。


 でも俺は、さっき結城が言った言葉が頭から離れなかった。


 居場所が壊れるのは、渇きより早い。


 病院のSNSは、病院のためのものだ。

 一ノ瀬紗夜の生活のためのものじゃない。


 俺は椅子の背にもたれて、乾いた声で言った。


「……俺たち、何やってるんだろうな」


 一ノ瀬さんは、画面から目を離さずに返した。


「余計なことを減らすための、必要なことです」


 正しい。正しすぎる。


 そのとき、面談室のドアがノックされた。


 コン、コン。


「一ノ瀬さん、師長から。ちょっといい?」


 外の声がした。


 一ノ瀬さんが立ち上がる。職場の顔に戻る速度が早い。


「はい、今行きます」


 扉の前で一度だけ振り返って、俺に言った。


「先生、SNSの下書き、保存しといてください。消さないで」


「分かった」


「あと」


 一拍。


「今日の私は、もう限界なので。余計な優しさ、いりません」


 そう言って、一ノ瀬紗夜は朝の病棟へ出ていった。


 残された俺の前には、保存された下書きと、結城の名刺と、冷めた缶コーヒーだけがあった。


 朝は、容赦なく進む。

 余計なことも、必要なことも、同じ速度で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ