07 仕事中の私に持ち込まないで
「……私のことで」
PHSを耳に当てたまま、一瞬だけ言葉が詰まった。
夜が明けた直後の病棟で、看護師が医者に「自分のことで」と言う。しかも一ノ瀬紗夜が。あの、一切の隙を見せない一ノ瀬さんが。
「今どこですか」
「病棟です。ナースステーションの奥、面談室が空いてます。申し送り終わったら来てください」
電話口の向こうは静かだった。夜勤の終わりの静けさ。みんな疲れていて、余計な雑音を出す体力がない時間帯。
「分かりました」
通話を切って、俺は白衣のポケットの名刺入れを指で押さえた。結城千景の名刺が入っている。紙の冷たさがまだ残っている気がした。
申し送りを終えて、病棟に戻る。
朝のナースステーションは、夜より雑然としている。人が増えるからだ。日勤の看護師、リハビリ、医事課の誰か、検査の搬送。みんな「いつもの朝」をやっている。
一ノ瀬さんは、その「いつもの朝」の中心にいた。
夜勤明けのはずなのに、姿勢が崩れていない。記録の確認をして、若い看護師に短く指示を出し、家族対応のメモを残している。完璧な中堅。
俺が近づくと、一ノ瀬さんは一度だけ目を上げて、会釈した。
「高槻先生。お願いします」
その声は完全に仕事の声だった。昨日の倉庫も、吐血も、電話も、どこにも混ざっていない。混ぜないようにしている。意志で。
ナースステーションの奥にある小さな面談室。空き患者の家族説明や、退院調整で使う部屋だ。扉を閉めると、外の音が少しだけ遠くなる。
一ノ瀬さんは椅子に座らず、立ったまま言った。
「結城さんから、先生に連絡いきましたよね」
「きました」
「何て言われました?」
直球だった。回りくどさがない。サバサバした性格、という設定が、ここでちゃんと生きる。
俺は一瞬だけ迷って、結局、正直に答えた。
「余計なことはするなって。院内では広げるな。倒れそうなら、普通に休ませろって」
一ノ瀬さんの肩が、ほんの少しだけ下がった。安心の気配。完璧な人が完璧を崩さない範囲で見せる、最小の安堵。
「……よかった」
その一言が、妙に胸に刺さった。彼女は、こちらが騒がないことを祈っていた。祈るような状況で生きている。
「それで、俺に何を」
俺が聞くと、一ノ瀬さんは一拍置いてから言った。
「先生にお願いがあります」
また「お願い」だ。
「今後、仕事中の私に、吸血鬼の話を持ち込まないでください」
昨日も言っていた線引き。彼女にとっては最重要らしい。
「分かりました」
即答した。ここで抵抗したら、壊れる。
一ノ瀬さんは頷いて、続けた。
「でも、もう一個だけ。……必要なときは、必要なことをしてください」
必要なこと。結城も同じ言葉を使った。余計と必要。その境界に、この話はずっと立っている。
「必要なことって?」
一ノ瀬さんは、少しだけ視線を外した。考えているというより、言い方を選んでいる。
「もし私が変だったら」
「変」
「集中力が落ちます。手順が一瞬飛びます。確認の回数が増えます。……それ、私にとっては危険です」
危険、という言葉がここで出るのは重い。彼女が怖いのは噂とか偏見だけじゃない。自分の精度が落ちることだ。看護師としての命綱が切れること。
「その時は」
一ノ瀬さんは俺を見た。まっすぐ。
「先生が、休憩取れって言ってください」
「……俺が?」
「はい」
言い切る。頼る相手を、合理で選んでいる。
淡々と説明する。理屈が冷たいのに、声の底には焦りがある。
「先生に言われると、体調確認になります。医者の言葉は、便利です」
便利。医者の言葉が便利。そう言われると、複雑だが否定できない。
「……分かりました」
俺が答えると、一ノ瀬さんはほんの少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
礼を言われるのは相変わらず落ち着かない。礼を言われるようなことをした覚えがないからだ。
俺は椅子に座る気になれず、壁にもたれたまま聞いた。
「それって、供給が変わるから?」
一ノ瀬さんの目が一瞬だけ鋭くなった。結城から聞いたことを察した目。
「結城さん、そこまで言いましたか」
「形が変わる、って」
「……そうです」
短い肯定。詳細は言わない。言えないのか、言わないのかは分からない。
「じゃあ、昨夜の倉庫も」
俺が続けると、一ノ瀬さんはすぐに遮った。
「例外です」
強い。
「例外にしたくないです。私も」
そう言って、一ノ瀬さんは白衣のポケットから小さなカードを出した。名刺より小さい。ラミネートされた、病院のIDカードみたいな質感。
「これ」
俺に差し出す。
表には、番号が二つと短い文。読まなくても分かる。緊急連絡先だ。
「結城さんの直通と、夜間窓口。……私がもしおかしくなったら、先生は普通に対応して、その後にここに連絡してください」
「普通に対応って?」
「倒れたらコードブルーでも、救外でも。そこは先生の仕事でいいです」
そこは、という言い方が怖かった。彼女は自分の命の扱いを、手順に分けている。感情じゃなく、手順に。
「そのあとに、結城さん」
「はい。そうすると、余計なことが減ります」
余計なこと。結局そこに戻る。
俺はカードを受け取った。冷たい。紙じゃなくて、硬い。規則の硬さだ。
「……これ、俺が持ってていいの」
「先生が一番困るので」
また「面倒」と同じ種類の理屈。冷たいのに優しい。
一ノ瀬さんは、ここまで言って初めて、少しだけ表情を崩した。崩すというほどではない。ただ、疲れが見える。夜勤明けの疲れ。完璧を維持してきた疲れ。
「先生」
「はい」
「昨日の吐血のとき、呼んでくれて助かりました」
「呼んだのは俺じゃない。必要だったから来てもらっただけ」
「それでも」
一ノ瀬さんは言葉を切った。言い切る前に、外からノックが入った。
コン、コン。
面談室の扉が少し開いて、若い看護師の顔が覗いた。
「一ノ瀬さん、すみません。申し送りの確認で……」
一ノ瀬さんの顔が一瞬で戻る。完璧な中堅看護師の顔。
「はい、今行きます」
若い看護師が去る。
扉が閉まると、一ノ瀬さんは小さく言った。
「……こういう感じなので」
「分かってます」
本当に分かっているかは怪しい。でも、分かったふりはできる。
一ノ瀬さんはカードを渡したことで用事は済んだはずなのに、もう一言だけ足した。
「先生、もし私が休憩取ってたら」
「うん」
「探さないでください」
探さないで。つまり、見つけないで。つまり、見ないで。
俺は頷いた。
「了解です」
一ノ瀬さんは短く会釈して、扉の取っ手に手をかけた。
出ていく直前、振り返らずに言う。
「高槻先生」
「はい」
「結城さんのこと、余計に詮索しないでください」
やっぱり線を引く。昨日から何本、線を引かれたか分からない。
「分かりました」
本当は聞きたいことだらけだった。結城が吸血鬼かどうかも、制度の中身も、彼女がどこまで危ないのかも。
でもそれは余計だ。
彼女が求めたのは、理解じゃない。運用だ。生活が壊れないための、最小の協力。
一ノ瀬紗夜は扉を開けて、病棟の朝に戻っていった。
俺は面談室に一人残って、受け取ったカードを見つめた。
そこに書かれている番号は、医局の内線でも、救外の直通でもない。病院の外につながる番号だ。
つまり、この病院の「いつも通り」の外側に、もう一つの当直がある。
俺はため息を吐いて、白衣のポケットにカードを入れた。
余計なことはしない。
必要なことだけする。
それが一番難しい。
面談室を出た瞬間、廊下の向こうから誰かが呼ぶ声がした。
「高槻先生、ちょっといいですか」
振り向くと、事務長が立っていた。朝の顔。嫌な予感がする顔。
「今度、院内の広報SNS、医師側の担当を決めたいんですけどね」
朝は、容赦なく次の面倒を運んでくる。




