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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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06 病院の外の五分

 

 夜は、終わり方が雑だ。


 吐血の内視鏡の記録を書いて、抗菌薬の確認をして、採血の結果を追いかけて、夜間のコールをいくつか片づけたら、朝になる。誰かが「おはようございます」と言って、誰かが「夜勤お疲れさまです」と言う。世界が切り替わったみたいに。


 切り替わってないのは、こっちだけだ。


 朝の申し送りを終えるころには、俺の頭は半分だけ働いていた。眠いというより、脳が薄い。薄いまま、必要なことだけをする。


 当直室に戻って白衣を脱ぎ、ポケットからメモを出す。


 結城 千景。

 五分。病院の外。


 五分で済む話じゃない気がする。でも、五分で終わると言う人は、たいてい「終わらせる」タイプだ。


 職員通用口から外へ出ると、空気が思ったより冷たかった。朝の冷たさ。夜の冷たさとは違って、どこか正直な冷たさだ。


 駐車場の端、喫煙所の近く。自販機の前に一人、立っている。


 黒っぽいコート。スーツでも白衣でもない。手に缶コーヒー。姿勢が良いのに、いかにも「待っています」という感じがしない。そこに最初からいたみたいな立ち方。


「結城さんですか」


 声をかけると、その人は俺のほうを向いた。


 年齢は、よく分からない。三十代後半にも見えるし、四十代にも見える。目元の疲れが少ないせいか、どこか現実感が薄い。


「はい。結城 千景です。高槻先生」


 名乗り方が丁寧で、距離が一定だ。


「五分だけ、って言ってましたよね」


 俺がそう言うと、結城は缶コーヒーを軽く持ち上げた。


「時間の感覚が悪い人もいるので。あらかじめ区切ったほうが事故が減ります」


 事故、という言葉がこの人の口から出ると、交通事故みたいな乾いた響きになる。


 結城は缶をもう一本、自販機から取り出して俺に差し出した。


「飲みますか。眠気覚ましに」


「……ありがとうございます」


 受け取ってしまってから思う。こういうやり取りで距離が縮むのが嫌なんだ、この手の人は。縮めるのも、戻すのも、相手の手の上だ。


 結城は腕時計をちらっと見た。見るだけ。押しつけがましくない。


「まず、改めて。昨夜一ノ瀬さんが口にしたものは、医療機関の血液製剤ではありません。輸血部の在庫に触れていないことは重要です」


「分かってます」


「次に。先生には守秘義務の範囲でお願いしたい。院内では言わない、広げない、噂にしない。これは患者情報と同じ扱いです」


 患者情報と同じ扱い。医者に通じる言葉を選んでいる。分かりやすい。だから怖い。


「それは、守ります」


 結城は短く頷いた。


「ありがとうございます。では本題です」


 本題。やっぱり、ここまでが前置きだったらしい。


「一ノ瀬さんが夜間に補給していた理由は、先生が想像しているものの半分くらいです。つまり、緊急性はあるが、今すぐ死ぬほどではない」


 半分くらい、という言い方がいやらしい。情報を絞っているのが分かる。


 俺は缶のプルタブを開けた。音がやけに大きい。コーヒーは甘かった。眠気に効く甘さというより、気持ちを誤魔化す甘さ。


「じゃあ、何が起きてるんですか」


 結城は迷わず答えた。


「供給の形が変わります」


「昨夜、言ってましたね」


「はい。理由は一つではありませんが、現場に出る影響は一つです。次の数週間、一ノ瀬さんは補給の計画を組み直す必要がある」


 計画。補給。社会に馴染む言葉で、妙なことを言っている。


「それで、倉庫で?」


 結城は首を横に振った。


「普段はそうしません。昨夜は例外です。個人情報なので詳細は避けます。でも、わかりやすい例としては、先生が吐血の内視鏡をしたでしょう」


 一瞬、背筋が反応した。見ていたのか、と思ったが、考えれば当然だ。院内で緊急内視鏡をすれば記録が残る。救外は動く。人がしゃべる。情報はすぐ流れる。


「はい。しました」


「血の匂いと、空気の緊張と、夜勤の負荷。ああいうことが起きると、余計に消耗します。本人はそれを“我慢”で片づけますが、我慢は在庫ではありません」


 在庫ではありません。妙に上手い言い方をする。


「一ノ瀬さん、仕事中は完璧ですよ」


 俺が言うと、結城はすぐに返した。


「だから問題が見えにくい。見えないものは、対策が遅れます」


 言い切る。結城は断言するタイプだ。


 俺は自販機の脇に立ったまま、缶コーヒーを握り直した。冷たかった。金属が冷たいのか、朝が冷たいのか分からない。


「……俺に何をしてほしいんですか」


 結城は答えを用意していた。


「先生にお願いすることは、二つです」


 また数える。


「一つ。彼女を“特別扱いしない”。さっきも言いましたが、特別扱いは本人にとって毒です」


「分かります」


 言いながら、分かっていない気もした。特別扱いしないのは簡単だ。何もしないでいればいい。でも、それは放置と紙一重だ。


「二つ。もし彼女が倒れる、あるいは明らかにパフォーマンスが落ちる兆候が出たら、医者として普通に声をかけてください。採血だの検査だのではなく、まず“休める状況を作る”」


「それ、医者の仕事ですか」


「医者が一番言いやすいからです。看護師同士だと角が立つ。上司が言うと管理になる。先生が言うと、体調の話にできる」


 合理的。現実的。嫌になるくらい正しい。


「俺、そんなに信用されてるんですか」


 聞いてみると、結城は一拍だけ間を置いた。


「信用というより、観察の結果です」


 観察。ここで言うのか、その言葉を。


「先生は昨年、上の方針に口を出した」


 俺は顔をしかめた。そこに触れられるのは気分が悪い。事情を知らない人間に、勝手にラベルを貼られるのはもっと悪い。


 結城は淡々と続けた。


「それは“正しさの暴走”にも見えますし、“患者の側に立った”とも見える。どちらか分からない人は、たいてい噂を広げます。先生は広げないタイプです」


「……噂を広げる暇がなかっただけです」


「それも含めて」


 結城の声には、感情の揺れがない。評価しているのか、ただの統計なのか分からない。だから怖い。


 俺は息を吐いた。


「結城さん、あなたは……何なんですか。役所の人?」


 結城は少しだけ口角を上げた。笑いではなく、形だけの変化。


「役所の人です」


「それだけ?」


「それで十分です」


 十分なわけがない。だが、この人は「十分」で世界を回す側の人間なんだろう。


 結城は腕時計を見た。


「四分経ちました」


 本当に時間を切ってくる。


「最後に、連絡先です。何かあればこちらに」


 結城は名刺を差し出した。紙が厚い。役所の名刺にしては、やけに手触りが良い。肩書きは読んでもよく分からない部署名だった。分からないことを、分からないままにするための言葉が並んでいる。


 俺は名刺を受け取った。


「……一ノ瀬さん本人には、どう伝えるんですか」


 結城は即答した。


「必要なことだけ伝えます。余計なことは言いません」


 余計なこと。昨夜からずっと出てくる言葉だ。


 結城は一歩だけ距離を詰め、声を少し落とした。


「先生。彼女にとって一番危ないのは、渇きではありません」


「……何ですか」


「居場所が壊れることです」


 その言葉だけが、妙に人間っぽかった。


 腕時計を見て、結城は言った。


「五分です。先生、当直お疲れさまでした」


 そう言って、コートのポケットに手を入れたまま、踵を返した。


 去り方がきれいすぎる。まるで最初からいなかったみたいに、病院の敷地の端へ歩いていく。


 俺は名刺を見下ろして、もう一つだけ聞きたいことが口に残っているのに気づいた。聞かないと、きっと後悔する類いのやつ。


「結城さん」


 呼び止めると、結城は足を止めて振り返った。


 俺は言葉を選ぶのをやめた。


「……あなたも、吸血鬼なんですか」


 結城の顔は変わらなかった。驚かない。怒らない。否定もしない。


 ただ、朝の冷たい空気の中で、ほんの少しだけ目を細めた。


「先生」


「はい」


「その質問は、余計です」


 そう言って、結城は一歩だけこちらに視線を残したまま、答えた。


「でも、間違ってはいません」


 そして今度こそ、歩き出した。


 俺はその場に立ち尽くした。手の中の缶コーヒーはまだ冷たい。名刺の紙も冷たい。


 病院の中に戻れば、いつも通りの朝がある。回診があって、指示があって、検査があって、退院調整がある。


 そのいつも通りの中に、一ノ瀬紗夜がいる。


 完璧な看護師として。


 そして、俺だけが知ってしまった。完璧が崩れる前の、微妙な綻びを。


 PHSが鳴った。今度は普通に、内線の呼び出し音。


 俺は反射で取る。


「高槻です」


「先生、申し送り終わったら……すみません、少しだけ病棟に来てもらえますか」


 声がブレない。仕事の声。


 一ノ瀬紗夜だった。


「何かあった?」


 一拍。


「患者さんじゃないです」


 さらに一拍。


「……私のことで」


 朝が、始まってしまった。


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