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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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05 結城 千景

 

「高槻先生でしょうか」


 PHS越しの声は、夜勤の病棟とは違う静けさを持っていた。低い。落ち着いている。語尾が揺れない。電話口の向こうで椅子に深く座っている感じがする。


「はい。高槻です」


「結城 千景と申します。……一ノ瀬紗夜さんの件で、ご挨拶を」


 一ノ瀬さんの件。


 その言い方だけで、さっきまでの吐血の赤が別の赤に置き換わった気がした。病棟の裏側にある赤。誰も正面から触れない赤。


 俺は廊下の角、誰も通らない場所に移動して壁に背中をつけた。病院の夜は、どこでも盗み聞きが成立する。


「ご挨拶って……。今、この時間に?」


 自分でも嫌な言い方だと思った。疲れていると、人は礼儀を削る。


 結城は少しも気にした気配を見せなかった。


「夜のほうが都合が良いもので。先生も当直中でしょうし」


 当直中であることを前提に話している。俺の番号を知っている。偶然じゃない。


「俺の番号、どうやって」


「病院代表経由です。個人情報の扱いに関してはご心配なく。……本題だけ手短に」


 そう言って、結城は間を作らなかった。人に話す隙を与えないタイプだ。困ったときに困っている顔をしない、という一ノ瀬さんの言葉が腑に落ちる。


「まず確認します。先生が今夜見たものは、医療用の血液製剤ではありません」


「……一ノ瀬さんもそう言ってました。政府の支給だと」


「はい。医療機関の輸血在庫とは流通も管理も別です。ここは誤解されやすいので最初に切り分けます」


 俺は思わず笑いそうになった。誤解、という言葉が軽すぎる。誤解で済むなら、病院の裏であんなものを飲む必要はない。


「で、どうして俺に電話を」


 結城の声が少しだけ柔らかくなった。柔らかいというより、説明モードになった。


「一ノ瀬さんから連絡が入りました。『当直医に見られた』と。本人が隠蔽を望んでいるわけではありません。ただ……病院という場で、余計な騒ぎが起きるのは避けたい」


 余計な騒ぎ。

 余計な正義感。余計な噂。余計な正しさ。


 一ノ瀬さんが言った「余計なの、疲れるので」が、少し遅れて胸に刺さる。


「俺は、誰にも言ってません」


 言い切ってから、続けた。


「言うつもりもない」


 結城は一拍だけ置いた。評価しているのか、確認しているのか分からない沈黙。


「ありがとうございます。先生がそういう方で助かります」


 礼の言い方が上手すぎて、逆に怖い。人間関係の温度を下げる礼だ。書類に押す印鑑みたいな礼。


「ただし」


 結城が続ける。


「先生が“何もしない”ことと、“放置する”ことは別です」


「……何をしろと」


「最低限です。三つだけ」


 淡々と数える声。夜に数を出す人間は信用ならない。医者も含めて。


「一つ。院内の人間関係に持ち込まない。聞かれても答えない。推測も言わない」


「了解です」


「二つ。医療的な緊急が起きたとき、先生の判断で通常の救急対応をしてください。吸血鬼だから特殊、という扱いは不要です。むしろ危険です」


「……つまり、倒れたら普通に診る」


「そうです。特別扱いしないのが特別扱いです」


 嫌な言い回しだが、言いたいことは分かった。


「三つ。先生が“彼女の補給”に直接関与しない」


 俺は眉をひそめた。


「関与も何も……俺は飲ませる気もないし」


「飲ませる、という発想が出る時点で先生はまっすぐです」


 結城の声に、微かな笑いが混じった気がした。気のせいかもしれない。笑いに聞こえる雑音かもしれない。


「関与というのは、善意で助けようとすることも含みます。ルールがある。本人にも、こちらにも」


 ルール。


 俺の頭の中で、大学の医局のルールが一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。あれはルールという名の空気だった。こっちは本当に規則なんだろう。


「で、結城さんは何者ですか」


 今さらだが、ここを曖昧にしたまま話を進めるのは嫌だった。


 結城は、答えを用意していたみたいに言った。


「制度の担当です。窓口、連絡、供給、健康管理。……一ノ瀬さんの“生活”が破綻しないようにする係」


 生活、という言葉が妙に重い。医者が扱うのは病気だが、病気だけでは人は生きていけない。生きている人間の大半は、生活で倒れる。


「生活が破綻しないように、病院の倉庫で飲むのが正解なんですか」


 自分でも意地の悪い言い方だと思った。だけど言わないと気が済まなかった。


 結城は、間髪を入れずに返した。


「正解ではありません。だから、こちらも手を打ちます」


 さらっと言う。反省も言い訳もない。正しいことしか言わないタイプだ。恐ろしい。


「先生、今日彼女が補給したのは“たまたま”です。普段はそうしない」


「……一ノ瀬さんが言ったんですか」


「はい。彼女は真面目なので、事実だけ言います」


 真面目、という評価が、俺の中の一ノ瀬さん像と一致する。だから余計に引っかかる。真面目な人が“たまたま”規則を外したなら、外さざるを得ない理由があったはずだ。


「理由は?」


 結城は少しだけ声を落とした。


「先生がそれを知る必要はありません。まだ」


 “まだ”。


 その一言で、会話が一段深くなった気がした。いきなり全部説明しない。けど、隠しもしない。距離を設計している。


「明け方、病院に伺います。先生は当直明けですよね」


「……ええ」


「五分だけ、お時間をください。場所は病院の外で。職員に見られないほうが良い」


 病院の外で。職員に見られない。

 それだけで、この話が“現実”だと確定する。


 俺はため息をつきかけて、飲み込んだ。疲れているのに、さらに面倒が増える。けど、面倒を避けるほど面倒になるパターンも知っている。


「分かりました」


 結城は短く答えた。


「ありがとうございます。……最後に一つ」


「はい」


「先生、一ノ瀬さんに余計な優しさを向けないでください。彼女は優しさに慣れていません。慣れていない人は、優しさで壊れます」


 妙な言い方だった。脅しでも忠告でもなく、ただの観察結果みたいに言う。


 俺は反射で返した。


「俺は優しくないです」


 結城の声が、ほんの少しだけ笑った。今度は気のせいじゃない気がした。


「そういう方ほど危ない」


 通話が切れた。


 PHSを持ったまま、俺はしばらく廊下に立ち尽くした。吐血の処置のときのような、アドレナリンはない。代わりに、じわじわと現実が染みてくる。


 病院の外で会う。

 制度の担当者。

 吸血鬼の看護師。

 政府支給の補給。


 ふと、胸ポケットのメモが気になって取り出した。さっき書いた文字が、薄暗い廊下の光で浮かぶ。


 結城 千景。

 政府支給。

 一ノ瀬 紗夜=看護師。

 吸血鬼(?)

 余計なことはしない。


 その最後の一文が、急に頼りなく見えた。


 余計なことはしない。

 でも、必要なことは何だ。


 考えている場合じゃない。夜はまだ終わっていない。


 ナースステーションの方から、小走りの足音が聞こえた。誰かがこちらに向かってくる。胸が一瞬だけ強く鳴る。


 角を曲がって現れたのは、一ノ瀬紗夜だった。


 いつもの表情。いつもの歩幅。いつもの声。


「高槻先生」


「……どうしました」


 一ノ瀬さんは周囲を一度だけ見回し、声を落とした。


「結城さん、連絡しました?」


「今、きた」


「そうですか」


 それだけ言って、少しだけ息を吐く。


「先生。お願いがあります」


 お願い、という単語が一ノ瀬さんの口から出るのは珍しい。頼みごとをする人の顔ではない。いつもは頼まれて動く側だ。


「何ですか」


 一ノ瀬さんは、真っ直ぐ俺を見た。


「今日のこと、仕事中の私には持ち込まないでください」


 言い切る。線を引く。彼女はいつも通りのことをしているだけなのに、その線は夜の蛍光灯より白く見えた。


「分かりました」


 俺が即答すると、一ノ瀬さんのまつ毛がほんの少しだけ下がった。安心の気配。ほんの一滴だけ。


「ありがとうございます」


 また礼を言う。礼を言われるほど、俺のほうが落ち着かない。


「……さっきの吐血、助かった」


 俺がそう言うと、一ノ瀬さんは少しだけ口角を上げた。


「仕事なので」


 同じ言葉。いつもの言葉。だけど今は、そこに別の意味が混ざってしまう。


 仕事としての完璧。

 生活としての補給。

 そしてその間を、誰にも見せずに歩く。


「先生」


 一ノ瀬さんが続けた。


「当直、まだ続きますよね。寝てください」


「寝られたら寝ます」


「寝てください。倒れたら面倒なので」


 俺の言葉を、また返してくる。笑いそうになって、笑えなくて、変な顔になった。


 一ノ瀬さんはそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「……変な顔」


「してません」


「してます」


 その会話だけが、今夜いちばん普通だった。


 一ノ瀬さんはナースステーションへ戻っていった。背中はまっすぐで、歩幅は変わらない。


 俺は当直室に戻りながら、ひとつだけ決めた。


 余計なことはしない。

 でも、必要なことが分からないなら――分かる人に聞く。


 明け方。病院の外。結城 千景。


 眠れない夜は、まだ続く。


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