04 定期の話
院長室って、だいたい静かだ。
外来のざわつきも、病棟の足音も、救外の緊張も、分厚いドアの前で一回止まる。
止まるから、入る前に余計な想像が膨らむ。
事務からの電話を切って、俺は廊下を歩いた。
白い廊下はいつも通りなのに、今日だけ少し遠く感じる。
院長室の前に着くと、秘書さんが立っていた。
「高槻先生ですね。どうぞ」
「失礼します」
声に出すと、自分の声が少し硬い。
救外でスコープを握っていた時より硬い。こういうのが、自分の苦手分野だ。
ドアが閉まる音がして、空気が一段静かになる。
◇
院長と事務長が並んで座っていた。
院長は穏やかな顔をしている。穏やかな人が穏やかなまま呼び出してくる時、たいてい内容は穏やかじゃない。
事務長は資料を机に揃えている。揃え方が几帳面すぎて、話の方向が分かる。
「高槻先生、忙しいところすみませんね」
院長がまず言った。
「いえ」
「最近、救急中心に緊急内視鏡を対応していただいていますよね。ありがとうございます」
そう言われて、俺は一瞬だけ返事に迷った。
ありがとうございます、を医者が真正面から受け取ると、面倒が増えることがある。
「いえ、必要なら当然です」
院長が頷く。
「先生のおかげで、救急の受け入れの幅が広がっています。地域の先生方からも、紹介しやすくなったと声が来ています」
横で事務長が、淡々と補足する。
「救急車の受け入れ件数も、今月は増えています。特に消化管出血の案件が、以前より当院に流れるようになりました」
数字の話になった。ここから先は、だいたい現実の話だ。
院長が続ける。
「実は、先生に相談があります」
来た。
俺は背筋を伸ばした。面倒が増える予感が、胃のあたりで先に動く。
「数年前に消化器内科の常勤がいなくなってから、当院では定期の内視鏡検査を止めているんです。救急対応はなんとかしていましたが、定期の検査は負担が大きいので」
「はい」
「ただ、最近は地域から『定期のカメラをやってほしい』という声が増えていて」
事務長が資料を一枚、机の上に滑らせる。
「紹介状の件数も増えています。市内で予約が取れない、と言われることが多いようで」
俺は資料に目を落とした。
こういう時、医者が資料を見ると急に賢そうな顔になる。便利だ。
院長が、少しだけ身を乗り出した。
「先生が可能なら、来年度から定期的な内視鏡検査を再開できないか、検討してほしいんです」
来年度。
今すぐじゃない。そこが、逆に本気だ。
俺は正直に言った。
「…僕一人では、厳しいと思います」
院長はすぐに頷いた。
「もちろんです。先生一人に押し付ける話にしたくありません」
事務長が、準備していた言葉を置くみたいに言う。
「体制を組みたいんです。例えば、非常勤で応援を頼む。内視鏡室のスタッフ教育も段階的に。検査枠も無理のない数から」
院長が続ける。
「先生は消化器の専門です。ここに来てから、本来の力を出せる場面が増えている。院内でも皆、安心しているんです」
安心。
その言葉は嬉しい。嬉しいのに、簡単に頷くと危ない。
「…ありがとうございます」
院長が少しだけ笑う。
「それでですね。大学の先生にも、非常勤で来てもらう形が取れないか、と」
大学。
その単語が出た瞬間、胃がもう一段重くなった。
昨日届いた「面談のご案内」が、予定表の中でニヤついた気がした。
事務長が続ける。
「先生のご出身の医局に非常勤をお願いできるなら、当院としても動きやすいです。機器更新や鎮静の体制も、予算の見通しが立てられますので」
なるほど。
つまりこれは、俺にとっての「仕事の話」であり、病院にとっての「経営の話」であり、大学にとっての「関係の話」だ。
三方向から面倒が来るやつ。
院長が、最後に一言を足した。
「先生、こちらとしては、先生にここで続けてほしいと思っています」
続けてほしい。
その言い方がまっすぐで、だから余計に断りづらい。
俺は一度だけ呼吸を整えてから言った。
「…すぐに結論は出せません。ですが、検討します。具体的な負担と体制が見えるなら、現実的に考えたいです」
院長が頷く。
「それで十分です。先生に無理をさせるつもりはない。まずは先生の意見を聞かせてください」
事務長が淡々と締める。
「来年度開始を目標に、年内に方針を固められると動きやすいです。先生のご希望も伺いながら進めます」
年内。
長いようで短い。短いようで長い。嫌な種類の期限だ。
「わかりました」
院長が、最後にもう一度だけ言った。
「高槻先生、お願いします」
お願いします。
それは依頼であり、期待であり、拘束だ。
俺は立ち上がって頭を下げた。
「こちらこそ、整理してお返事します」
◇
廊下に出ると、白さが戻ってきた。
戻ってきたのに、さっきより白が薄い。
院長室の静けさが、まだ耳の奥に残っている。
自販機の前まで歩くと、一ノ瀬さんがいた。
いつもみたいに待っている感じはない。
でも、いる。いることが分かる。
「先生」
「…どうして分かったんですか」
「先生、今、顔が“会議”です」
「会議の顔って何ですか」
「余計なことを言いそうな顔です」
ひどい。けど当たっている。
俺は缶コーヒーを買って、落ちてくるのを待ちながら言った。
「院長と事務長に呼ばれました」
「議題2ですね」
「議題2です」
缶が落ちる。カタン。音がやけに大きい。
「来年度から定期の内視鏡を再開したいって」
一ノ瀬さんが一拍置いて、頷いた。
「先生には、嬉しい話でもありますね」
嬉しい。
そう言われると、否定できない。
「嬉しい、の中に面倒が混ざってます」
「混ざります。定期は、面倒の前払いなので」
「前払い」
「はい。救急は後払いです」
言い方が妙に的確で、笑いそうになる。
俺は缶を一口飲んで、続けた。
「大学の先生にも非常勤で来てもらえないか、って」
一ノ瀬さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「大学の面談と、繋がりましたね」
「繋がりました」
繋がると、面倒は立体になる。逃げ道が減る。
一ノ瀬さんは、いつもの調子で言った。
「先生、今日の結論は出さなくていいです」
「…うん」
「まずは情報です。病院が何を用意できるか。先生がどこまでできるか。大学が何を言ってくるか」
「三方向」
「三方向です。面倒ですね」
「面倒です」
一ノ瀬さんが、少しだけ声を落とした。
「でも、先生」
「はい」
「面倒が増えるってことは、先生の居場所が増えるってことでもあります」
居場所。
笹川さんの話の後だと、その言葉は軽くない。
俺は返事をすぐに出せなかった。
一ノ瀬さんは、返事を急かさなかった。
その“急かさない”が、最近増えた彼女の優しさだと思った。
「…打ち合わせ、続けますか」
俺が言うと、一ノ瀬さんが頷いた。
「続けます。仮の優先順位、更新しましょう」
更新。
医療みたいな言い方だ。助かる。
俺は缶を握って言った。
「俺、こういうの、全部怖いです」
一ノ瀬さんは即答しなかった。
一拍置いて、淡々と言った。
「怖いなら、手順でいきましょう。怖くないふりは、余計が増えます」
「…はい」
その言葉に、少しだけ救われた。
予定表の針は増えた。
でも、針が増えた分だけ、机の上に並べて考える理由も増えた。
続けていける形は、たぶん「すぐ決める」形じゃない。
増えた面倒を、増えたまま持てる形のことだ。




