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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
続けていける形

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03 議題:優先順位(仮)

 

 医局からのメールは、予定表の中で一番薄い顔をしているくせに、胃の奥だけはしっかり重くする。


 来週、午後。大学、教授室。

 用件は書いてない。そういうところが一番いやらしい。


 俺はその画面を閉じて、PHSを白衣のポケットに戻した。

 病棟に戻れば、予定表より先に目の前の仕事が来る。仕事は正直で助かる。逃げ道があるから。


 …いや、逃げ道って言うと聞こえが悪いな。

 仕事は、立っていられる場所だ。


 ◇


 その日の午後、救外から電話が入った。


 PHSが鳴る。電話として鳴る。

 こういう鳴り方のときは、だいたい余計が増える。


「高槻です」


「救外です。吐血疑いで来てます。コーヒー残渣っぽい嘔吐があって、Hbも下がってます。先生、いけますか」


「行きます。バイタルは?」


「今は保ててます。輸液入れてます」


「了解です」


 電話を切った瞬間、頭の中の予定表の針が、少しだけ折れた気がした。

 大学の教授室より、今この人の食道と胃の方が現実だ。


 救外で患者の顔を見る。高齢男性。血圧は保ててるが顔色が薄い。

 既往、内服、NSAIDsの有無、肝硬変、抗血栓薬…確認事項はいつもの順番で並ぶ。順番があると安心するのは、医者の欠陥でもあり機能でもある。


「緊急で上部内視鏡いきます」


 言ったとき、自分の声が少しだけ戻っていた。

 “消化器の医者の声”だ。


 内視鏡室の準備が動く。酸素、モニター、鎮静、吸引。

 出血の量が多くないのが幸いで、視界はなんとか保てる。胃の中に血液が溜まっている。洗いながら進める。


 出血点が見つかったとき、身体が勝手に整う。

 手が覚えている。目が覚えている。怖いくらい。


「止血具、お願いします」


 声をかけると、器具が出てくる。

 この病院の内視鏡室は、普段は静かだ。静かな場所が一瞬だけ“救急”になる。


 止血が取れた瞬間、ふっと息が抜けた。

 何かをやりきった、というより、何かを“戻した”感じ。


 終わって廊下に出ると、救外の看護師が小さく言った。


「先生、やっぱり早いですね」


「早くないです。…戻ってきただけです」


 自分で言って、少しだけ胸が痛い。

 戻ってきた、の中には、失ったものも含まれているから。


 ◇


 夕方、医局に戻ると、机の上の予定表がまた目に入った。

 折れたはずの針が、しぶとく刺さっている。


 そんなところへ、師長が医局の入り口に顔を出した。


「高槻先生」


「はい」


 師長は雑談みたいな声で言った。


「今日の救外のやつ、助かった。院長も見てたよ」


「…そうですか」


「先生、こういうの続くと、病院の空気変わるから」


 空気。

 病院の空気は、人が作る。実績と安心で作る。


 師長はそこで一拍置いて、わざと軽く言った。


「面倒が増えるって意味ね」


「増えますね」


「増えるよ。確定で」


 “確定で”まで感染している。病棟は強い。


 ◇


 その日の終業後、俺は院内の売店横の小さな休憩スペースにいた。

 自販機の前ほどザワつかず、医局ほど固くならない、妙な中間地帯。


 一ノ瀬さんが先にいた。白衣じゃない。勤務終わりの服。

 なのに姿勢が病棟のままだ。人は急にはほどけない。


「先生」


「お疲れさまです」


 一ノ瀬さんは俺の顔を見て、すぐ言った。


「今日、内視鏡しましたね」


「見てました?」


「病棟に噂が来ます。病棟は口コミが速いです」


「最悪だ…」


「最悪ではないです。便利です」


 便利。便利で済ませるの、上手いな。


 俺が缶コーヒーを買うと、一ノ瀬さんはポケットから小さなメモ帳を出した。

 表紙に、きっちり書いてある。


『打ち合わせ』


「…本気ですね」


「本気です。面倒が増える前に」


 またそれだ。


 俺は缶のプルタブを開けながら言った。


「議題、なんでしたっけ」


 一ノ瀬さんはメモ帳を開いて、淡々と言う。


「議題1:大学。議題2:今の病院。議題3:生活」


「生活」


「先生、生活が一番最後なんですね」


 言われて気づく。俺の並べ方の癖だ。仕事を先に置いて、生活は勝手についてくると思ってる。


「…仕事が先に立たないと、生活が崩れるので」


 一ノ瀬さんは即答しない。珍しい。

 一拍置いてから言った。


「先生、それ、正しいです。でも」


「でも?」


「先生の場合、“仕事が立つ場所”が複数あるから困ってるんです」


 痛い。正しい。

 救外の止血で戻ってきた感じがした直後に言われると、なおさら。


 俺は缶コーヒーを一口飲んだ。


「一ノ瀬さんは、どうしてそんなに手順が好きなんですか」


「好きというより、必要です」


「必要」


「吸血鬼は、油断するとすぐ誤解されます。誤解されると面倒が増えます。だから最初に枠を作ります」


 枠。

 それはつまり、彼女なりの“社会に溶けるための手順”なんだろう。


「なるほど」


 一ノ瀬さんはメモ帳にペン先を当てたまま言った。


「先生。優先順位、仮でいいので置きましょう」


「仮」


「仮置きです。決定じゃない。仮」


 仮、という言葉がありがたい。

 医者は決定が怖いくせに、決定しないと落ち着かない生き物だ。


「…じゃあ、仮で」


 俺は少し考えて、言った。


「1位、今の病院でちゃんと臨床ができること。消化器として」


 一ノ瀬さんが頷いて、書く。


「2位、大学の話を“勝手に怖がらない”こと。ちゃんと聞く」


 一ノ瀬さんが書く。


「3位…」


 ここで詰まる。

 生活、と言ってしまうと、急に照れくさくなる。面倒だ。


 一ノ瀬さんが、先回りせずに待っている。

 待つのが上手いのは、たぶん笹川さんに似ている。


 俺は小さく息を吐いて言った。


「3位、病棟の外で話す時間を残すこと。…続けるために」


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ目を細めた。


「それ、仮じゃなくて本音に近いです」


「…仮です」


「仮にしておきましょう」


 優しい。雑じゃなく、優しい。


 一ノ瀬さんがペンを置いた。


「先生。情報、集めましょう」


「大学の面談で情報をもらう」


「はい。それと」


 一ノ瀬さんはメモ帳を指で軽く叩いた。


「今の病院の情報。先生が勝手に想像しない」


「…どうやって」


「院長と話す」


 院長。

 それは、確かに最短の情報源だ。面倒だけど。


 俺が缶を持ったまま固まっていると、一ノ瀬さんが淡々と言った。


「先生、今日、院長に見られてましたよね」


「…見られてたらしい」


「呼ばれます」


「呼ばれるか」


 一ノ瀬さんは頷いた。


「確定で」


 言った瞬間、俺のPHSが鳴った。


 本当に鳴ると、笑えない。


「高槻です」


「事務からです。高槻先生、院長と事務長が先生にお話があるそうで…今、お時間いただけますか」


 俺は一ノ瀬さんを見る。

 一ノ瀬さんは、メモ帳を閉じて一度だけ頷いた。


 “情報、取りに行ってください”の頷きだった。


「…分かりました。行きます」


 通話を切ると、一ノ瀬さんが言った。


「議題2、来ましたね」


「来ました」


「面倒ですね」


「面倒です」


 俺は立ち上がって、白い廊下の方へ歩き出した。

 予定表の針は、まだ刺さっている。だけど今日、新しい針がもう一本刺さった。


 刺さる針が増えるほど、人は選ばなきゃいけなくなる。

 それでも、針が一本だった頃より、今の方が少しだけ呼吸がしやすい気がした。


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