02 予定表の余白
喫茶店のコーヒーは、病院の自販機より少しだけ苦い。
苦いのに、嫌じゃない。
むしろ、こういう苦さがあると「外にいる」感じがする。病棟の白さが、頭の奥から少しだけ引いていく。
「……大学からの電話」
俺が言うと、一ノ瀬さんはカップの縁を指でなぞってから、短く頷いた。
「はい」
それだけで、会話が続く。
続くけれど、急がない。急ぐと余計が増える。
店内のBGMが小さく流れて、皿を片づける音がして、誰かの笑い声が遠くにある。
病棟の音とは違う。仕事の音じゃない。生活の音だ。
「先生」
一ノ瀬さんが、目線を上げずに言った。
「来週、いつですか」
「まだ…詳しい日付は、これからメールでって」
「じゃあ、まずはメールですね」
「まずはメール」
一ノ瀬さんが頷く。
「手順っぽいです」
「手順っぽいな…」
自分で言って、少し可笑しくなる。
手順に逃げてる自覚はある。でも、逃げてるだけじゃない。足場を作ってる感じもある。
俺はスマホをテーブルの上に置いた。画面はまだ暗い。
暗いのに、そこに重さだけある。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「俺、あの電話が来た瞬間に思ったんです。断ったら面倒だ、って」
「面倒ですね」
「うん。面倒です」
一ノ瀬さんは“面倒”のまま、少しだけ声の温度を落とした。
「先生、断ったら面倒、は分かります。でも」
「でも?」
「先生が今ここで抱えてる面倒は、断る断らないの面倒とは違います」
的確すぎて、返す言葉がない。
「……そうですね」
一ノ瀬さんはカップを置く。
「先生が困ってるのは、選択肢が出てくるからです」
「……うん」
「選択肢が出ると、人は勝手に“正解”を探し始めます」
「探します」
「正解を探し始めると、余計が増えます」
言い方がいつも通りなのに、今朝は妙に刺さる。
俺は息を吐いた。
「……俺は、正解を探す癖がある」
「ありますね」
即答。
「ひどい」
「事実です」
即答の二連発。看護師の観察力は、当直明けの医者に優しくない。
俺は話題を少しずらしてみた。
「一ノ瀬さんは、こういうときどうするんですか」
「こういうとき?」
「選択肢が出てきたとき」
一ノ瀬さんは少しだけ考えた。
「私は、まず“決めない”を決めます」
「……決めないを決める」
「はい。期限を決める。情報を集める。優先順位を並べる。それから決める」
期限。情報。優先順位。
医療の意思決定と同じ枠組みだ。結局この人は、生活も“現場”なんだろう。
「優先順位、って例えば」
一ノ瀬さんは、わざとらしくないくらい自然に言った。
「先生が何を続けたいか、です」
続けたい。
続けていける形。章タイトルが、そのまま喉に引っかかる。
俺はすぐに答えられなかった。
答えられない沈黙が、変に長引きそうになったところで、一ノ瀬さんが助け舟を出すみたいに言った。
「先生、今決めなくていいです」
「……うん」
「今日は、メールを待つ。以上です」
以上。
締めがうまい。病棟の申し送りみたいだ。
◇
会計を済ませて店を出ると、朝の光が少しだけ強くなっていた。
病院の白さじゃない白さ。
同じ白でも、外の白はちゃんと温度がある。
歩道を並んで歩く。
病棟だと半歩後ろを歩く一ノ瀬さんが、今日は横にいる。横にいるのに、近すぎない。これが“病棟の外の距離”らしい。
「先生」
「はい」
「大学って、怖いですか」
怖い、という言葉を一ノ瀬さんが使うのは珍しい。
いつもは面倒で済ませるのに。
俺は少しだけ正直に言った。
「怖いっていうか…胃が重い」
「胃が重い、は怖いに入ります」
「入るか」
「入ります」
即答。
「医局って、呼ばれると断れない雰囲気があるんですよね」
一ノ瀬さんの言葉が、俺の気持ちを簡単に言語化してしまう。
「ある」
「先生、それ、病院あるあるですか」
「病院あるあるっていうか…医局あるある」
「じゃあ、私の知らないあるあるです」
知らない、と言い切ってくれるのが助かる。
知らないのに踏み込んでこない。笹川さんがやってくれたのは、こういう感じだったのかもしれない。
「知らないでいていいです。面倒なので」
一ノ瀬さんが小さく笑った。
「先生、外でも面倒、使うんですね」
「便利だから」
「便利すぎます」
会話が、少しだけ軽くなる。
軽くなったからこそ、次の重さが来るときに受け止められる。
◇
病院の職員通用口が見えたあたりで、スマホが震えた。
メールの通知。
医局秘書からだ。
件名は丁寧で、丁寧すぎて逃げ道がない。
「面談のご案内」
俺は立ち止まって、画面を開いた。
日時と場所と、簡単な注意事項。予定表に刺さる一本の針みたいな情報。
来週、平日の午後。大学、教授室。
「……確定しました」
俺が言うと、一ノ瀬さんが横から画面を覗かない距離で言った。
「確定で」
「確定で」
俺たちは病院の中へ入る。
白い廊下の匂いが戻ってくる。さっきまでの外気が、少しだけ薄まる。
「先生」
一ノ瀬さんが、歩きながら言った。
「今日は“決めない”でいいです」
「うん」
「でも、先生が戻ってきたら、続きの打ち合わせをします」
「……議題は」
「先生の優先順位」
優先順位。
俺は頷いた。
「わかりました。手順で」
「はい。手順で」
病棟の中に戻ると、言葉はまた短くなる。
短くなるけれど、短くした分だけ残った余白に、外の空気が少しだけ残っている。
その余白が、次の話を動かす。




