01 卵生じゃないです
病院の外で会う回数が増えると、会話の種類が変わる。
病棟だと、言葉は短くなる。短いほうが安全で、短いほうが優しい。
外に出ると、短くしすぎた言葉の隙間に、余計なものが入り込む。
それは面倒だ。
でも、面倒じゃないと続かないこともある。
◇
当直明けの朝、俺たちは病院から少し離れた、駅前の喫茶店に入った。
定食屋ほど騒がしくなく、カフェほど気取ってない店。
椅子が固すぎないのがありがたい。体は素直だから、固い椅子に座ると心まで固くなる。
向かいの席に一ノ瀬さんが座った。
病棟の完璧な一ノ瀬さんではなく、少しだけ目の下に影がある一ノ瀬さん。
「先生」
「はい」
一ノ瀬さんはコーヒーを一口飲んで、少しだけ間を置いてから言った。
「先生、聞きたいことある顔してます」
見抜くな。
でもたぶん、見抜かれてる方が楽だ。
「……吸血鬼って、どうやって生まれるんですか」
一ノ瀬さんは瞬き一つで、少しだけ眉を寄せた。
「急に来ましたね」
「急に来ました」
「今、真面目に聞いてます?」
「真面目です」
一ノ瀬さんは淡々と言った。
「普通です」
「普通」
「卵生ではなく胎生です」
俺は思わずコーヒーを飲みかけて止まった。
「卵生って」
一ノ瀬さんが小さくため息を吐く。
「先生。コウモリが運んでくるとか、そういうの、ほんと面倒です」
「すみません」
「いえ。聞かれるの、慣れてます」
慣れてる、が少し痛い言い方だった。
俺は言い直した。
「じゃあ、親が吸血…吸血人だと、子もそうなる」
「吸血鬼です」
「……じゃあ、親が吸血鬼だと、子も吸血鬼」
「基本は、そうです」
基本は、という言い方に引っかかった。
「基本は、ってことは」
一ノ瀬さんは淡々と続ける。
「人間と吸血鬼でも子どもはできます」
「え」
「できます」
即答が、医者の頭に優しくない。
俺は思考を整理しようとして、逆に絡まった。
「じゃあ、いわゆる…」
「ハーフバンパイア?」
一ノ瀬さんが先に言った。苦笑いすらない。
「昔はそういう呼び方で揉めたみたいですけど、今は混血が多いです。純血なんて、逆に聞いたことないです」
混血が多い。
なるほど。人口学的には納得できる。長い歴史があるなら、混ざる。
「じゃあ一ノ瀬さんのご両親も…」
口に出した瞬間に、やってしまったと思った。
踏み込みすぎる。こういうのは面倒が増える。
「あ、すみません。忘れて――」
一ノ瀬さんは、止めなかった。
「そこまで複雑な事情はありません」
言い方が、逆に複雑だ。
「両親は普通に吸血鬼です。父は会社員で、母は専業主婦です」
普通に、会社員。
吸血鬼が会社員。世界が勝手に平らになる。
「母方の祖父は、人間でした」
「……なるほど」
一ノ瀬さんはカップを置いて、少しだけ声を落とす。
「先生が想像してるほど、特別じゃないです。吸血鬼も、普通に生活してます。面倒が増えるので」
最後は面倒で締める。
それで安心してしまう自分がいる。
俺は、気を逸らすつもりで言った。
「じゃあ、遺伝子とか…」
一ノ瀬さんは首を振った。
「詳しいことは知りません。政府の資料には難しいことが書いてありますけど、読むと眠くなるので」
「眠くなるんだ」
「眠くなります。先生の学会スライドと同じです」
「ひどい」
「事実です」
即答だった。
俺は笑いかけて、笑いきれなかった。
笹川さんの夜がまだ胸に残っている。
一ノ瀬さんも、それを分かっている顔をしていた。
分かっているのに、わざと日常の話をしている。そういう優しさがある。
「……先生」
「はい」
一ノ瀬さんは視線を落として言った。
「こういう話、病棟ではできません」
「……そうですね」
◇
そのとき、俺のスマートフォンが鳴った。
PHSじゃない。個人の携帯。
画面に表示された文字を見て、胃が少しだけ重くなった。
医局
出たくない。
でも、出ないと面倒が増えるタイプの相手だ。
「……すみません」
俺は席を立って、店の隅に移動して通話に出た。
「高槻です」
「先生、ご無沙汰しております。医局秘書です」
声が丁寧で、丁寧なほど逃げ道がない。
「教授から先生にお話があるようでして。来週のこの日、大学までお越しいただけませんか」
断ってはいけない連絡だ。
断ってはいけない、というより、断ると何が起きるか分からない。
「……承知しました」
「ありがとうございます。詳細は後ほどメールしますね」
通話は短く終わった。
短いのに、胸の中に重いものを置いていった。
席に戻ると、一ノ瀬さんが何も聞かずにコーヒーを飲んでいた。
聞かないのに、分かっている顔。
「……大学からですか」
当てるな。
でも当たる。こういう時、看護師の勘は鋭い。
「……はい」
俺が答えると、一ノ瀬さんは一拍置いて言った。
「面倒ですね」
「面倒です」
久しぶりに、面倒がただの冗談じゃなくなる。
一ノ瀬さんはカップを置いた。
「行くんですか」
「行きます。行かない方が面倒なので」
「行く理由が面倒なのも、面倒ですね」
その通りだ。
俺は視線を落として言った。
「……教授に呼ばれるって、そういうことなんです」
一ノ瀬さんは頷くだけで、促さない。
促さないのに、話せる空気がある。
「俺は昔、大学で消化器をやってました。いろいろあって、ここに来た」
「いろいろ」
「いろいろです」
曖昧に逃げようとしたら、一ノ瀬さんが言った。
「先生、今の“いろいろ”は、逃げです」
「……はい」
逃げだ。
逃げは知ってる。でも今日は、逃げたままだと続かない。
俺はコーヒーを一口飲んで、少しだけ言葉を整えた。
「大学に戻れって話かもしれない。あるいは確認。あるいは…」
「先生がどうするかの、選択肢を出してくる」
一ノ瀬さんが言った。淡々としてるのに、やけに的確だ。
「……そう」
一ノ瀬さんは視線を外して、窓の外を見た。
「先生、ここにいるの、嫌ですか」
聞き方が、意外とまっすぐだった。
病棟の“確認”の聞き方じゃない。
俺は少しだけ考えて、正直に言った。
「嫌じゃないです」
一ノ瀬さんが、少しだけ目を細める。
「じゃあ、困りますね」
困る。
面倒より、困るの方が痛い言葉だ。
俺は息を吐いた。
「……困ります」
一ノ瀬さんは頷いた。
「続けていける形、考えましょう。先生が逃げない形」
「……逃げない形」
「はい。手順で」
また手順に戻る。
でも今日は、手順が逃げ道じゃなく、進むための足場に聞こえた。
店の外は朝の光で、白いのに温度があった。
俺たちはまだ、答えを持っていない。
けれど少なくとも、同じテーブルに答えを置けるようにはなっていた。




