11 エピローグ
当直明けの医局は、朝でも夜みたいな顔をしている。
眠気が残っているからじゃない。終わったはずの出来事が、まだ胸の内側で動いているからだ。
机の上の書類は片づいている。
死亡診断書の控えも、連絡も、必要な段取りも終わった。
それでも、笹川文代さんの声だけが、病室の白さの外に出ていかない。
紙コップを握ったまま、俺は飲むタイミングを失っていた。
ノックの音がして、一ノ瀬さんが顔を出した。
夜勤明けのはずなのに髪はきちんとまとめられている。
でも、目の下の影だけは隠れない。隠す気もないみたいに見えた。
「先生」
「お疲れさまでした」
一ノ瀬さんは俺の手元を見て言う。
「それ、飲まないんですか」
「……飲む気持ちはあるんですけど」
「気持ちだけ」
「はい」
一ノ瀬さんが小さく息を吐く。
「今日、行きたいです。食事」
言い方が短い。
“今日”と言い切るのは、先延ばしにしないための言い方だ。
俺は頷いた。
「わかりました。どこがいいですか」
「朝からやってて、静かすぎないところがいいです」
静かすぎない。
その条件が、妙にしっくりきた。静かだと、音が聞こえすぎる。
「じゃあ、近くの定食屋にしましょう。面倒が増えない店」
一ノ瀬さんが一度だけ頷く。
「それがいいです」
◇
病院の外に出ると、空気が少し冷たかった。
夜の名残がまだ残っていて、呼吸が白くなりそうな温度。
歩き出してすぐ、一ノ瀬さんが言った。
「先生」
「はい」
「病院の外でも、先生って呼んでいいですか」
確認が細かい。
こういうところが、現場の人だ。
「……今さら変えるのも面倒です」
「じゃあ先生で」
「はい」
会話がそこで途切れて、歩く音だけになる。
無理に埋めなくていい沈黙だった。
◇
店は、病院から少しだけ離れた通りにあった。
チェーンでも名店でもない、よくある定食屋。
味噌汁の匂いがして、店員さんの声が少し大きい。
この“少し大きい”が、朝にはちょうどいい。気持ちを引き上げる音だ。
席に座って、メニューを開く。
俺は何も考えずに朝定食を指差した。
考えると、余計が増える。
一ノ瀬さんはメニューをじっと見て、少しだけ迷ってから同じものを頼んだ。
「同じでいいんですか」
「同じがいいです。今日は」
今日は、という言葉に全部が入っていた。
お茶が来る。湯気が上がる。
湯気って、人を少しだけ現実に戻す。
一ノ瀬さんは湯飲みを両手で包むように持って、しばらく黙っていた。
黙り方が、病室で椅子に座っていた時と似ている。
俺が先に口を開いた。
「……お礼って言ってましたけど、俺は」
一ノ瀬さんが遮る。
「先生、そういうのはいいです」
言い方は淡々としているのに、今日は少しだけ強い。
「笹川さんの外出、成立させたじゃないですか。成立した時点で、十分です」
成立。
病棟の言葉だ。好きな言い方だ。正しさじゃなく段取りの言葉。
俺は頷いた。
「……笹川さん、外の空気、ちゃんと吸えてましたね」
一ノ瀬さんが、少しだけ目を伏せる。
「はい」
短い返事。
短いのに、胸の奥が少し動く。
「病院の中だと、あの人、ずっと“いい人”の顔してました」
「うん」
「外に出たとき、少しだけ意地悪な顔してました。昔の顔」
一ノ瀬さんがふっと笑いかけて、すぐ真顔に戻る。
「……あれ、よかったです」
よかった、という言葉が出た。
ちゃんと出た。それだけで少し救われる。
◇
料理が来た。
焼き魚。味噌汁。白米。海苔。漬物。
何でもない朝のセットが、今日は妙に眩しい。
一ノ瀬さんは箸を持って、一口食べてから、ぽつりと言った。
「先生」
「はい」
「笹川さん、私のこと、ずっと“見てた”んだと思います」
「……見てたと思います」
「見てるのに、詰めない」
「詰めないのって、すごく難しいですよね」
一ノ瀬さんが小さく頷いた。
「難しいです。だから、居心地がよかった」
居心地。
病院の外で聞くと、急に生々しい言葉だ。
俺は味噌汁を一口飲んで、言った。
「居心地がいい場所って、なくなると困りますね」
一ノ瀬さんは返事をしない代わりに、白米を一口食べた。
噛む音が小さい。
少しして、ようやく言う。
「……困ります」
言えたことが、今日の成果に見えた。
◇
会計のとき、俺は財布を出した。
「割り勘で」
一ノ瀬さんが首を振る。
「お礼です」
「お礼は、こういう形じゃ」
一ノ瀬さんが、きっぱり言った。
「先生、今は受け取ってください。受け取らないと、私が面倒です」
面倒。
この言葉を、今日はちゃんと“頼みごと”として使っている。
俺は引っ込めた。
「……わかりました。じゃあ次は俺が出します」
一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ口角を上げる。
「次、ありますか」
「あります。……ないと困ります」
「困るんですね」
「困ります」
そのやり取りが、今朝いちばん軽かった。
◇
店を出ると、空がちゃんと明るくなっていた。
朝の光は白い。でも病院の白さと違って、温度がある。
歩きながら、一ノ瀬さんが胸ポケットに手を当てた。
何かを確かめるみたいな動き。今は、聞かない。聞くと余計が増える。
一ノ瀬さんが言う。
「先生」
「はい」
「しばらく、病棟の外で話す時間をください」
「……口止め料の続きですか」
「違います」
即答。
「打ち合わせです」
病院の言葉に寄せてくるのが、らしい。
「何の」
「続けていく形の」
俺は頷いた。
「了解です。手順で続けましょう」
一ノ瀬さんも頷く。
「はい。手順で」
二人で同じ言葉を言って、少しだけ可笑しくなる。
可笑しくなれる朝は、悪くない。
病院へ戻る道の途中で、一ノ瀬さんが小さく言った。
「増えてもいい面倒があるって、笹川さんに教わりました」
俺は答えを急がず、ただ頷いた。
朝の光の中で、二人の歩幅は病棟より少しだけ揃っていた。




