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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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04 救急外来、吐血

 

 当直室の机に置いた紙コップのコーヒーは、もう温度を失っていた。味だけ残っている。苦い、というより、ただ濃い。


 PHS(ピッチ)が鳴った。


 病院の夜の音に混ざる、あの電子音。電話だ。俺は反射で取る。


「当直、高槻です」


 受話口の向こうは少し騒がしかった。救急外来の雑音。ストレッチャーの車輪の音。


「救外です。吐血の搬入、今入りました。結構出てます」


「分かりました。行きます」


 言ってから、白衣のポケットを探る。聴診器、ペン、手袋。身体が勝手に準備を始める。さっきまで、吸血鬼だの政府支給だの、脳が現実逃避していたのに。


 吐血、という二文字は強い。


 救外に着くと、ベッドの周りに人が集まっていた。看護師、救外当番の医者、家族らしき女性が一人。ベッドの横に赤黒い吐物の入った受け皿。血の匂いは、慣れていても好きにはなれない。


 患者は五十代後半。顔面蒼白。汗。息が浅い。口元に乾いた血の跡。


「さっきから何回も吐いてます。黒っぽいのと、赤いのと」


 救外の医師が手短に言う。


 俺は脈を触って、血圧を見た。落ちている。脈は速い。


「ルート二本、太いので。採血、血算・生化・凝固。型判定と交差も。輸血部に連絡して、赤血球、まず何単位か確保」


 言いながら、患者の腹を触る。硬くはないが、膨れている気がする。黄疸は強くない。蜘蛛状血管腫は…この光では分かりにくい。酒の匂いがする。


「肝硬変あります?」


 患者は目を半分開けて、うなずくような、うなずかないような。


 家族が震え声で言った。


「肝臓が悪いって…前に、言われて…」


 吐血。肝硬変。食道静脈瘤。頭の中で候補が勝手に並ぶ。


「酸素。意識はあるけど、吐き続けるなら誤嚥する。吸引準備。必要なら気管挿管も視野」


 救外の看護師が「はい」と短く返した。現場が回り始める。こういうときだけ、俺の中の古いエンジンがかかる。


「内視鏡、やります」


 自分の口から出た言葉に、少し驚いた。この病院で、夜中に緊急内視鏡を回すことは多くない。それでも、今やらない理由はなかった。


「介助できる人、いますか」


 救外の看護師が一瞬だけ目を泳がせた。人手が薄い。夜はいつも薄い。


「病棟に、呼んでみます」


 俺はPHSを取り出し、ナースステーションへかけた。普通に電話をする手つきで。


 数コールで繋がる。


「高槻です。救外、吐血で緊急内視鏡やりたい。介助できる人、いますか」


 返ってきた声は、案の定、ブレなかった。


「一ノ瀬です。行きます」


 返事が短い。理由も説明もない。ただ、行く。


 電話が切れてから、俺は一瞬だけ立ち止まった。


 血の夜に、あの人を呼ぶ。最悪な偶然か、最悪じゃない必然か。判断する時間はない。


 ◇


 内視鏡の準備が進む。鎮静薬、モニター、吸引、処置具。救外の空気は独特だ。時間が縮む。言葉も縮む。


 そこへ、一ノ瀬紗夜が現れた。


 髪はまとめて、手袋をはめる前の手は乾いている。走ってきた感じがない。倉庫で見た“隙”は、ここにはない。


「状況は?」


「肝硬変っぽい。吐血量多い。静脈瘤疑い」


「了解」


 彼女はそれだけ言って、機材を確認し始めた。内視鏡の準備は、できる人が触ると本当に早い。雑にならないまま早い。


 救外の看護師が小声で俺に言う。


「一ノ瀬さん、こういうの強いんですよ」


 そうだろうな、としか言えなかった。


 患者がまた咳き込んで、口の端から赤いものが溢れた。吸引。体位。酸素。モニターの数字が揺れる。


 一ノ瀬さんは眉を動かさず、必要なタイミングで吸引管を差し替え、ガーゼを渡し、処置具を揃える。


 俺は内視鏡を挿入した。咽頭を越えて、食道へ。画面の中が赤い。視界が悪い。血が溜まっている。


「吸引、強め」


「はい」


 画面が少しずつ晴れていく。


 食道の下部、静脈瘤。裂けている。そこから滲むように、でも確実に出ている。


「…やっぱり」


 頭の中で手順が並ぶ。輪ゴムで縛る。止める。止まらなければ次。


 一ノ瀬さんが、当たり前みたいに言った。


「バンド、いけます」


「お願い」


 器具が渡される。俺の手が、久しぶりに迷わない。大学でバリバリやっていた頃の感覚が、一瞬だけ戻る。あの頃、俺は確かに消化器内科医だった。


 バンドをかける。勢いが落ちる。もう一箇所。さらにもう一箇所。


 画面の赤が、黒に、そして粘膜の色に戻っていく。


 患者の血圧が少し上がり、脈が落ち着く。救外の空気が一段だけ軽くなる。


「止まった」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは短く頷いた。


「よかったです」


 よかった。簡単な言葉なのに、夜中の救外では重い。


 ◇


 片付けに入ると、現実が戻ってくる。手袋の内側が蒸れて、肩がだるくなって、口の中が乾く。


「ICUは無理でも、HCU相当のところ。モニター、絶食、PPI、あと感染予防も」


 救外の医師に伝えながら、俺は手を洗った。水が冷たい。血の匂いが落ちるまで、何回も洗う。


 一ノ瀬さんは処置具の数を確認し、廃棄物をまとめ、汚れ物を分ける。完璧な人は、片付けまで完璧だ。そこが一番怖い。


 救外のスタッフに軽く礼を言って、俺と一ノ瀬さんは廊下に出た。


 病棟に戻るだけの短い通路。人はいない。夜の蛍光灯が白い。


 俺は、言うべきじゃない言葉が喉まで来ているのを感じた。倉庫の話。赤いパック。吸血鬼。今この場で言えば、全部壊れる気がする。


 だから俺は、別の話に見せかけて、結局同じところに触れた。


「…血、平気なんですね」


 一ノ瀬さんは歩きながら答えた。声はいつも通りの温度。


「仕事なので」


「今の、結構出てた」


「出てましたね」


「嫌じゃないんですか」


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ俺を見た。


「先生は、嫌じゃないんですか」


「嫌ですよ」


 即答した。嘘じゃない。


「でも、やります」


「同じです」


 また同じだ、と言われた気がした。


 倉庫の前を通り過ぎる。あの扉。あの匂い。あの赤。


 俺は足を止めないまま、声を落とした。


「…さっきの補給。あれ、足りてますか」


 医者として、という盾を用意する暇もなかった。言ってしまった。


 一ノ瀬さんは一拍だけ間を置いて、それから淡々と返した。


「患者さんの血は飲みません」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってます」


 廊下の角を曲がる。ナースステーションの光が見える。会話が切れる場所が近づく。


 一ノ瀬さんは、そこでようやく少しだけ声を落とした。


「足りるかどうかは、私が決めます」


 強い言い方。でも、怒ってはいない。線を引いているだけだ。


 俺は頷いた。たぶん、頷くしか正解がない。


「ただ」


 一ノ瀬さんが続けた。


「倒れたら、先生が面倒ですよね」


 俺の言葉を、綺麗に返してくる。嫌味じゃないのが、余計に効く。


「面倒です」


「じゃあ…倒れる前に言います」


 それは約束みたいで、業務連絡みたいだった。


 一ノ瀬さんはナースステーションに入っていく前に、振り返らずに言った。


「詳しく、知りたいなら。結城さんに聞いてください」


 結城千景。


 名前を聞いただけで、さっきのメモが頭に浮かぶ。怪談じゃない、という感覚がまた強くなる。制度。担当者。書類。期限。規則。


 俺は当直室へ戻りかけて、結局、立ち止まった。


 今夜、俺は久しぶりに“医者の顔”をした。

 そして、医者の顔ではどうにもならないものにも触れてしまった。


 PHSが鳴った。


 今度は救外からではない。表示は代表番号。外線だ。


「当直、高槻です」


「高槻先生でしょうか」


 声が、低くて落ち着いていた。困ったときに困ってる顔をしない声、というのはたぶんこういう声だ。


「結城 千景と申します。…一ノ瀬紗夜さんの件で、ご挨拶を」


 夜勤は、終わらない。

 ただ、種類が増えるだけだ。


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