04 外出の手順
「……一回だけでいいの。うちのアパート、見に行きたいのよ」
笹川文代さんがそう言ったあと、病室の空気は一度、静かに落ちた。
心電図モニターのない部屋は、静けさがよく聞こえる。
点滴の滴下音と、遠くのナースコールだけが、病棟の現実として残る。
俺は「考えましょう」と言って病室を出た。
言った瞬間から頭の中には、手順が並び始めていた。
外出許可。付き添い。転倒リスク。トイレ。急変時の導線。
身内がいない。連絡先がない。責任の所在。
面倒、の文字が行列を作る。
それでも、あの目だった。
「もう十分」と言う人が、最後に「一回だけ」と言う目。
病棟の外に出るだけで、体力を削るかもしれない。
でも、病棟の中に閉じ込めておけば、気持ちの方が先に削れる。
俺は足を止めて、ナースステーションへ向かった。
◇
師長は、申し送りの途中だった。
俺の顔を見ると、目だけで「あとで」と言う。
病棟の“あとで”は、だいたい三分後だ。
申し送りが切れたタイミングで、師長が俺を呼んだ。
「先生、笹川さんの件?」
「はい。外出の希望があって」
師長は小さく息を吐いた。
驚きじゃない。やっぱり来たか、の息だ。
「身内いないって言ってたでしょう。普通は難しいよ」
「ですよね」
「事故ったらどうするの。転んだら? 急変したら?」
質問が矢継ぎ早い。
責めてるんじゃない。守ってる。病棟の人を、患者を、そして医者も。
俺は一拍置いて言った。
「だから、手順を作ります」
師長が眉を上げる。
「先生が言うの、それ」
「最近、感染してるんで」
師長が少しだけ笑った。
「で、どうするつもり」
俺は、頭の中に並べた“面倒の行列”から、まず減らせるものを拾った。
「時間は短く。病院の近く。車椅子で、無理に歩かせない。食事は絡めない。トイレは病院で済ませてから出て、帰ってきてすぐ確認する。点滴は外すか、最小限で」
師長が頷く。
「付き添いは」
「俺と……」
そこで一瞬迷う。
病棟の人手はギリギリだ。師長はそれを見ている。
「……一ノ瀬さんが行くって言うなら、お願いしたい」
師長が、視線だけでナースステーションの端を見る。
端に、一ノ瀬さんがいた。記録を打ちながら、会話は聞いていないふりをしている。聞いているのは分かる。
師長が言った。
「一ノ瀬さん、どうする?」
一ノ瀬さんはキーボードを止めて、こちらを向いた。
表情は完璧なまま。声も落ち着いている。
「行きます」
即答だった。
師長が短く言う。
「病棟回せる?」
「回します。外出は午前中がいいです。午後は処置が増えます」
現場の言い方だ。
感情じゃなく、段取りで選ぶ。
師長は一度だけ俺を見る。
「先生、責任は分かってるね」
「分かってます」
俺が答えると、師長は頷いた。
「院長の耳にも一回入れるよ。形式だけ。身内いないからね」
形式だけ、という言い方が優しい。
形式は面倒だ。でも形式があるから守れることもある。
「お願いします」
師長はメモを取りながら言った。
「先生、笹川さん、体力ギリギリだよ。やるなら早め。伸ばすとできなくなる」
早め。
その言葉が、静かに刺さった。
◇
病室に戻る前に、俺は一ノ瀬さんと廊下で並んだ。
しばらく、どちらも何も言わない。
言わないのに、決まっていくことがある。
「……一ノ瀬さん」
「はい」
「無理してないですか」
聞いてから気づく。
この質問は、たぶん“病棟の質問”じゃない。
一ノ瀬さんは答える前に、ほんの少しだけ目を細めた。
「無理ではないです」
「理由、聞いていいですか」
一ノ瀬さんは少しだけ間を置いた。
「笹川さんは、私が看護師になれた頃を知ってる人です」
“知ってる人”。
たったそれだけなのに、重い。
「……病棟の中で、笹川さんにあの顔をさせたまま終わるのは、面倒です」
面倒、という言葉に逃げてるのは分かる。
でも、その逃げ方の奥に本音があるのも分かる。
「わかりました。じゃあ一緒にやりましょう」
一ノ瀬さんが頷く。
「はい。手順で」
◇
病室に入ると、笹川さんはさっきと同じ姿勢で窓を見ていた。
でも、こちらに気づく目ははっきりしている。待っている目だ。
俺は椅子に腰掛けて、できるだけ落ち着いた声で言った。
「笹川さん。外出の件、すぐに“いいですよ”とは言えないって言いましたけど」
笹川さんが頷く。
「うん。面倒なんでしょう」
「面倒です。でも、やる方向で手順を作ります」
笹川さんの目が、ほんの少しだけ開いた。
嬉しいというより、「通るかもしれない」という現実の光が入った目。
「ただし条件があります」
「条件、好きよ。分かりやすい」
この人は、こういう時に強い。
俺は一つずつ言葉にした。
「体調が安定していること。歩かないこと。車椅子で行くこと。時間は短く。途中でしんどくなったらすぐ戻る。付き添いは俺と一ノ瀬さん」
一ノ瀬さんが横で小さく頷く。
笹川さんは、しばらく黙ってから言った。
「十分よ」
十分、の言い方が今日も出た。
でも今日の十分は、“諦め”じゃなく“受け入れ”の十分だった。
「先生」
笹川さんが俺を見る。
「私ね、別に中に入りたいわけじゃないの。見るだけでいいの。外からでいい」
見るだけ。
それなら、面倒の行列が少し短くなる。
「わかりました。それならなおさら現実的です」
笹川さんは小さく笑った。
「先生、やっぱり“面倒”でできてるのね」
「はい。面倒で病院は回ってます」
「面倒な先生」
「面倒です」
笹川さんが、点滴のチューブを見てぽつりと言った。
「紗夜ちゃん、昔ね、私のところでよくお茶を飲んでたの。学生の頃」
一ノ瀬さんの視線が一瞬だけ動く。
でも口は挟まない。
笹川さんは続ける。
「静かに飲むのよ。喋らない。喋らないのに、ちゃんとそこにいる。そういう子だった」
俺はその言葉を、反射で“看護師の一ノ瀬さん”に重ねてしまう。
今も同じだ。喋らないのに、ちゃんとそこにいる。
「……変わってないですね」
俺が言うと、一ノ瀬さんが小さく言った。
「変わってます」
笹川さんが、嬉しそうに笑った。
「そう、変わったのよ。言い方が少し柔らかくなった」
一ノ瀬さんは困ったように一度だけ瞬きをして、それ以上は言わなかった。
◇
病室を出るとき、笹川さんが背中に言った。
「先生」
「はい」
「明日でも明後日でもいい。行けるうちに、お願いね」
“行けるうちに”。
病棟では、そういう言葉が現実になる速度が速い。
俺は振り向いて、短く頷いた。
「はい。できるだけ早く」
笹川さんは満足そうに目を閉じた。
その顔が、少しだけ穏やかに見えた。
廊下に出ると、一ノ瀬さんが小さく息を吐いた。
「……先生」
「はい」
「天気、晴れてほしいですね」
「晴れますよ。面倒だから」
一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ口角を上げた。
「それ、科学的根拠あります?」
「ありません」
「じゃあ、手順で晴れにしましょう」
病棟の白い廊下を歩きながら、俺は思った。
外出の手順を作るのは、危険をゼロにするためじゃない。
危険と一緒に、“その人の人生”を運ぶための手順だ。
そして多分、それは――
俺が昔、言葉で間違えたところを、やり直すための手順でもある。




