03 輪切りの安心
翌朝
朝食のトレーが並んで、検温のカートが動いて、PHSの着信音があちこちで鳴る。
同じように見える朝の中で、患者の一日はそれぞれ違う速度で始まる。
笹川文代さんの病室に入ると、彼女は起きていた。
枕を少し高くして、窓の方を向いている。テレビはついていない。
「おはようございます、笹川さん」
「おはよう。先生、今日だっけ」
「CTですね。負担の少ないやつで。ガーってやるやつ」
俺が言うと、笹川さんは小さく笑った。
そこへ、一ノ瀬さんが入ってきた。いつもの完璧な動きで点滴のルートを確認して、滴下を見て、目盛りを整える。
「おはようございます。笹川さん、気分どうですか」
「昨日よりは楽。点滴って、不思議ね。入ってるだけで安心する」
一ノ瀬さんが頷いた。
「安心、大事です」
数字より先に、安心。
看護師の言い方は、結局そこに戻る。
俺は簡単に確認していく。
「吐き気はない?」
「ない」
「息苦しさは?」
「歩くとちょっと」
「痛みは?」
「ない」
痛みがないのに、食べられない。
だからこそ、周りが焦る。焦って余計が増える。
「CTのあと、採血の結果と合わせてもう一回話しましょう」
笹川さんは頷いた。
「うん。先生、変に期待させないって言ってたね」
「言いました」
「それ、好きよ」
好きよ、と言われて、俺は返事に困った。
医者の言葉が“好き”と言われるとき、それは医者が賢いからじゃない。相手が自分の現実に沿う言葉を探しているからだ。
「……面倒を増やしたくないだけです」
笹川さんが、ふっと笑った。
「面倒な先生」
「面倒です」
◇
CT室へ移動する時間は、病棟にとっては“ただの移動”だ。
でも患者にとっては、短い遠足みたいなものになる。
車椅子に移るとき、笹川さんは思ったよりも自分の足で立った。
「まだ立てるのよ、これでも」
「立てるのは偉いです」
俺が言うと、笹川さんが少しだけ胸を張る。
「紗夜ちゃんにね、昔よく言われたの。“無理しないで”って」
一ノ瀬さんが、車椅子のブレーキを確認しながら淡々と言った。
「それは今も言います」
「言い方が変わったのよ」
笹川さんは楽しそうに言う。
「昔はね、“転んだら困るからやめなさい”って。困るから、って」
一ノ瀬さんの手が一瞬止まった。
「……困ります」
言い方が真面目すぎて、笹川さんが声を出して笑った。
俺はその笑いに少しだけ救われた。笑えるうちは、まだ会話ができる。
廊下を進む。
エレベーターの鏡みたいな壁に、車椅子の笹川さんと、一ノ瀬さんと、白衣の俺が並んで映る。
病院の中でだけ成立する並びだ。
「先生」
笹川さんが突然、俺の方を見て言った。
「私、身内がいないのよ」
昨日も言っていた。でも今日は言い方が違う。確認というより、釘だ。
「はい。聞いてます」
「だからね、決めるのは自分で決めたいの」
俺は頷いた。
「笹川さんが決める。そのために情報を出します」
笹川さんは満足そうに頷いた。
その横で、一ノ瀬さんが視線を動かさずに、車椅子を押す力を少しだけ強くした。何かを飲み込んだ動きに見えた。
◇
CT室は、病棟よりさらに白い。
待合の椅子も白い。壁も白い。機械のボディも白い。
人を輪切りにする場所は、いつも清潔だ。
技師さんが笹川さんに声をかける。
「笹川さん、こちらへどうぞ。仰向けになれますか」
「仰向けはできる。寝返りは遅いけどね」
「ゆっくりで大丈夫です」
検査台へ移る。腕の位置を整える。息止めの説明。
手順は淡々としていて、だから安心が生まれる。
ガー、という音がして、笹川さんの体が機械の中に吸い込まれていく。
俺は廊下で待ちながら、ふと一ノ瀬さんを見る。
一ノ瀬さんは、病棟の顔のままだった。
何も揺れていないように見える。
見えるけど、分かる。
この人はたぶん、揺れるときほど揺れを隠す。
それが“看護師としての手順”になってしまっている。
検査が終わって笹川さんが戻ってくる。
車椅子に座ると、彼女は少しだけ疲れた顔になっていた。
「疲れました?」
「疲れた。ガーってやつは、魂も輪切りにされる気がする」
「魂は無事です」
俺が言うと、笹川さんは笑った。
「先生、そういうとこよ」
◇
病棟へ戻って、笹川さんをベッドに移す。
点滴をつないで、呼吸を整えて、水を一口だけ含んでもらう。
「苦しくないですか」
「大丈夫。ありがと」
笹川さんの“ありがと”は、短い。短いのに重い。
俺は一旦医局に戻って、CT画像を確認した。
派手な所見はない。
明らかな腫瘍で「これです」と言えるものは見当たらない。腹水も大量ではない。閉塞もない。感染の影も薄い。
でも、きれいではない。
筋肉量は落ちている。脂肪も少ない。臓器の輪郭は年齢の輪郭になっている。
“病名”として一つにできない弱り方が、そこにある。
こういう画像は、医者の言葉を鈍らせる。
説明が難しいからじゃない。説明しようとすると、医者の方が誤魔化したくなるからだ。
病室に戻ると、笹川さんは起きていた。
一ノ瀬さんが記録を取りながら、さりげなく距離を取っている。聞く準備の距離。
俺は椅子に座って、言った。
「笹川さん。CTでは、はっきりした“これです”は見つかりませんでした」
笹川さんは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、何なの」
「いくつか重なってます。栄養が落ちて、筋肉も落ちて、動く量が減って、余計に食べられない。悪循環です」
笹川さんは静かに頷いた。
「つまり、弱ってるってことね」
「……そうです」
言い切ると、むしろ会話が短くなる。
笹川さんは誤魔化しを望んでいない。
「点滴で支えることはできます。しんどさを減らす薬も使えます。食べられるものを探すこともできます」
俺は一拍置いて続けた。
「ただ、無理に戻す、というよりは、“楽に過ごす”の方に比重が寄ります」
笹川さんは、その言い方を聞いて、ふっと息を吐いた。
「先生、分かってる人ね」
「面倒を増やしたくないので」
「面倒、面倒って」
笹川さんが少し笑う。
「でもね、先生。私も面倒は増やしたくないのよ。だから」
笹川さんは一ノ瀬さんを見た。
一ノ瀬さんは視線を落とさず、でも口も挟まない。聞く顔だった。
笹川さんが、ゆっくり言った。
「昨日、お願いがあるって言ったでしょう」
俺は頷いた。
「はい」
笹川さんは一度だけ瞬きをして、言葉を選ぶみたいに口を開いた。
「……一回だけでいいの。うちのアパート、見に行きたいのよ」
一ノ瀬さんの手元が、ほんの一瞬止まった。
止まったけど、すぐ記録に戻る。その“戻り方”が、いちばん揺れているように見えた。
俺はすぐに「無理です」と言わなかった。
言うのは簡単だ。病院の外出は手順が面倒で、リスクがあって、責任があって、身内がいなくて。
面倒が、山ほどある。
でも笹川さんは言ったのだ。
一回だけでいい。
面倒を増やしたくない人が、面倒を増やすお願いをしている。
「笹川さん」
俺はゆっくり言った。
「すぐに“いいですよ”とは言えません。安全の確認と、手順が必要です」
笹川さんは頷いた。最初から分かっている顔。
「うん。面倒なんでしょう」
「面倒です。でも」
俺はそこまで言って、一ノ瀬さんの方を見た。
一ノ瀬さんは俺を見返して、ほんの小さく頷いた。
“今は否定しないでいい”という頷きに見えた。
俺は続けた。
「考えましょう。どうしたらできるか。できないなら、代わりに何ができるか」
笹川さんは、少しだけ笑った。
「それでいいのよ。先生」
その言い方は、許可というより、信頼だった。
病室の白い空気の中で、お願いは静かに置かれた。
手順に落とせば叶うのか、手順に落としても叶わないのか。
その境目に、俺たちは立った。




