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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
吸血人の日常

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02 点滴の速度

 

 笹川文代さんのベッドサイドを離れると、病棟の音が戻ってきた。


 看護師が走る音。ワゴンのキャスター。誰かの咳。

 さっきの病室だけ、時間が少し違う速度で流れていた気がする。


「先生、採血と点滴、先にやりますね」


 一ノ瀬さんがそう言って、さっきと同じ顔で物品を取りに行く。

 同じ顔、同じ声。だけど病室で「紗夜ちゃん」と呼ばれた瞬間の肩の固さだけは、俺の視界から消えない。


 “全然変わらない”。


 あれは、笹川さんの懐かしさの言葉だったはずだ。

 なのに、医者の頭は余計な意味を探してしまう。


 俺はカルテに目を落として、余計を追い払った。


 食べられない。活動量低下。息切れ。便秘。既往に大腿骨頸部骨折。

 まずは脱水、感染、貧血、電解質、腎機能、肝機能、炎症反応、栄養状態。必要なら画像。


 手順。今は手順だけでいい。


 ◇


 しばらくして、笹川さんの病室に一ノ瀬さんが戻ってきた。


「笹川さん、点滴しますね。採血も一緒に取ります」


 笹川さんは布団の上で手を出しながら、一ノ瀬さんをまじまじと見た。


「紗夜ちゃん、昔から手が冷たかったわよね」


 一ノ瀬さんの手元が一瞬だけ止まる。

 でもすぐにアルコール綿を当てて、淡々と言った。


「今も冷たいです」


 笹川さんが笑った。


「変わらないのねえ」


 一ノ瀬さんは返さない。返さないのに、手つきだけは優しい。

 駆血帯を締める強さがちょうどいい。針を入れる角度が迷いない。血が引ける。


「ちくっとします」


「はいはい。どうぞ」


 笹川さんの返事が慣れているのは、たぶん年齢のせいじゃない。

 この人は、誰かに体を預ける手順を知っている。


 採血管が満たされ、点滴ルートが確保される。

 一ノ瀬さんがテープで留めて、滴下を確認した。


「気持ち悪くなったり、痛くなったりしたら言ってくださいね」


「うん」


 笹川さんが、点滴のチューブを見ながら言った。


「先生、これで元気になるの?」


 俺は言葉を急がないようにした。


「点滴は、足りない分を少し補うだけです。元気の全部は戻りません。でも、しんどさが少し減ることはあります」


 笹川さんはそれで納得したみたいに頷いた。


「そういう言い方、好きよ。変に期待させない」


 褒め言葉なのか、釘なのか、判断に困る。

 でも、たぶん両方だ。


 ◇


 病室を出て少し歩いたところで、一ノ瀬さんが小さく言った。


「先生、点滴、速くしない方がいいです」


「脱水が強いようには見えないですもんね」


「はい。あと、速いとトイレが増えます。笹川さん、足が悪いので」


 それは看護師の目だ。

 医者の「補正したい」という雑な欲を、現場の現実が止める。


「わかりました。ゆっくりで」


「ゆっくりが、面倒を減らします」


 この人は、面倒を体感で知っている。

 そして、その体感を手順に落とすのがうまい。


 ◇


 夕方、検査結果が上がってきた。


 Hbは低め。アルブミンも低い。電解質も少し揺れている。腎機能は年齢なりに落ちている。炎症反応は強くない。

 劇的な異常ではない。だからこそ、説明が難しい。


「原因は一つじゃない」系の結果は、患者に一番嫌われる。


 俺はカルテの画面を見ながら、笹川さんの言葉を思い出した。


 “自分が弱っていくのが日に日にわかる”。


 データが言うより先に、本人が知っている。

 医者ができるのは、その“知っている”を否定しないことだ。


 病室に行くと、笹川さんは起きていた。テレビもついていない。窓の外を見ている。


「笹川さん、採血の結果が出ました」


「うん」


「貧血が少しあります。栄養の数字も少し低い。脱水も少し」


 笹川さんは、あっさり言った。


「つまり、弱ってるってことね」


「……そういうことです」


 言い切ったあとで、妙に肩の力が抜けた。

 誤魔化さない方が、会話が短くて済む。


「原因を探すために、CTを撮ってもいいです。胃腸の問題や、隠れた病気がないかを見る」


 笹川さんは少しだけ目を細めた。


「先生、それは“見つけたい”の?」


「見つけることで、楽になることがあるかもしれないからです」


 俺は付け足す。


「ただ、CTを撮ったからって、全部が変わるわけじゃないです。

 何も変わらないかもしれません。そこは最初に言っておきます」


 笹川さんは、ふっと笑った。


「先生、やっぱり変に期待させない」


「面倒を増やしたくないので」


 笹川さんが小さく頷く。


「じゃあ撮って。撮って、それで納得するなら納得する」


 “納得”という言葉が出るとき、人はもう治すことだけを望んでいない。

 納得して終える準備の方へ、少しだけ傾いている。


 俺は短く答えた。


「わかりました。明日、造影じゃなくて普通のCTでまず見ます。負担が少ない方で」


 ◇


 その夜、病棟はゆっくり暗くなっていった。


 笹川さんの食事は、ほとんど残っていた。

 それでも、誰も無理に口へ運ばない。運ぶと、余計が増える。


 一ノ瀬さんが病室に入って、トレーを下げる。

 笹川さんがそれを見て言った。


「ごめんね。食べられなくて」


 一ノ瀬さんは、いつもの調子で返した。


「謝らなくていいです。食べられない日はあります」


「紗夜ちゃん、昔は“食べなさい”って言ってた」


 一ノ瀬さんの動きが一瞬だけ止まる。

 それから、少しだけ声を柔らかくした。


「昔は、言い方が下手でした」


 笹川さんが嬉しそうに笑った。


「そういうところよ。変わったの」


 変わった、という言葉に、俺は少しだけ安心してしまった。

 全然変わらない、より救われる。


 一ノ瀬さんが部屋を出てきて、廊下で俺を見つけた。


「先生」


「はい」


「笹川さん、今日は無理に食べさせないでください」


「無理に食べさせると面倒が増える」


「はい」


 一ノ瀬さんは頷いて、少し迷ってから付け足した。


「……笹川さん、身内がいないって言ってました」


「言ってましたね」


「だから、たぶん、言葉を選びます」


 言葉を選ぶ。

 医療者同士がそれを確認するのは、たぶん良い兆候だ。


「俺も選びます」


 一ノ瀬さんはそれ以上言わず、ナースステーションへ戻っていった。

 病棟の中では、彼女はちゃんと“看護師の一ノ瀬さん”に戻れる。


 戻れるのに、戻りきれないところがある。



 ◇


 消灯前、笹川さんの病室にもう一度顔を出した。


 笹川さんは横になっていた。目は開いている。眠れていない目だ。


「眠れないですか」


「眠れないってほどじゃないけど……ぼーっとしてるの」


「痛みは」


「ない」


「苦しさは」


「ない。だから逆にね、変に考えちゃう」


 逆にね。

 この人は、状況を自分の言葉で整理できる。


 俺は椅子に腰掛けて、短く言った。


「明日、CTを撮ります。結果を見て、できることと、やらないことを一緒に決めましょう」


 笹川さんは、目だけで頷いた。


「ねえ、先生」


「はい」


 笹川さんは少し間を置いてから、ぽつりと言った。


「ひとつだけ、お願いしてもいい?」


 その言い方は、さっきの検査の話とは別の場所から出ていた。

 病気のお願いじゃない。人生のお願いの入口。


 俺は急がないように答えた。


「何でしょう」


 笹川さんは言いかけて、やめた。

 笑ってごまかすみたいに口角だけ動かす。


「……明日でいいわ。先生も疲れてるでしょう」


「疲れてません」


 嘘だった。疲れている。

 でもこういう時、疲れてると言うと面倒が増える。


 笹川さんが小さく笑った。


「面倒な先生」


「面倒です」


「それでいいのよ」


 またその言葉だ。許可みたいな言葉。


 病室を出るとき、俺は一瞬だけ立ち止まった。


 笹川文代。

 この人の“お願い”は、たぶん病院の手順だけでは片づかない。


 それでも、手順に落とさないと叶わない。

 その矛盾を、俺はもう一度抱えることになる。


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