01 笹川 文代
新章お願いします。
病棟の夕方は、音が少しだけ丸くなる。
点滴の滴下音、廊下の車椅子の軋み、ナースステーションのキーボード。
昼の慌ただしさが薄まって、代わりに「今日を終わらせたい」気配が漂う。
PHSが鳴った。電話として鳴る。
「高槻です」
「病棟です。新規入院、お願いします。食べられないって。86歳の女性です」
食べられない。
それだけで、診断名が二つ三つ浮かぶ。胃腸だけじゃない。心不全、感染、脱水、薬剤、うつ、加齢の連鎖。
「分かりました。今行きます」
通話を切って廊下を曲がると、ナースステーションの端から一ノ瀬さんが出てきた。
「先生」
「一ノ瀬さん、どうしました」
「入院受け、私もつきます」
「病棟の仕事は」
一ノ瀬さんは師長に視線だけで合図した。師長が目だけで頷く。
声を使わずに手順が通る。こういう瞬間、病棟は強い。
「今、大丈夫です」
この人の言う“大丈夫”は、だいたい現場が回る方向のやつだ。
「了解です」
俺が答えると、一ノ瀬さんは半歩後ろについた。近すぎず遠すぎず。病棟の距離。
◇
病室の扉をノックして入る。
ベッドの上に小柄な女性がいた。顔色は悪くない。
でも目だけが少し遠い。遠くを見る目を、俺は何度も見てきた。
最初に目に入ったのはネームバンドだった。
笹川 文代 86歳。
「笹川さん。担当医の高槻です。よろしくお願いします」
笹川さんは俺を見た。
そのまま、視線が俺の横に滑っていく。
一ノ瀬さん。
笹川さんの表情が、ほんの少しだけ変わった。驚いたというより、確かめるみたいに。
「……紗夜ちゃん?」
病室の空気が一瞬だけ止まる。
一ノ瀬さんの肩が、ほんの少しだけ固くなる。
誰にも気づかれない程度。けれど、俺は見てしまった。
「……ご無沙汰しております、笹川さん」
一ノ瀬さんの声は丁寧だった。職場の声。
なのに笹川さんは、昔の玄関先みたいな目をしていた。
「久しぶりねえ。私、さらにおばあちゃんになっちゃったけど……紗夜ちゃんは全然変わらないのね」
全然変わらない。
その言葉が、白い病室の中でやけに色を持って落ちた。
一ノ瀬さんは笑おうとして、うまく笑いきれない。
俺は線を戻すことにした。
ここで突っ込むと余計が増える。余計は病棟で増えると止まらない。
「笹川さん。今日は食事が入らない、ってことで入院になりました。いつ頃からどんな感じですか」
笹川さんはゆっくり息を吐いて、淡々と答えた。
「少しずつよ。食べると疲れるの。飲み込むのが苦しいとか、そういうのじゃないんだけどね」
「吐き気は」
「ないわ」
「お腹の痛みは」
「ない」
痛みなし、吐き気なし、入らない。
胃腸の病気だけで片づかない匂いがする。
「息切れは」
「ある。歩くとすぐ。足もね、去年折ったでしょう」
笹川さんは布団の上で自分の膝あたりを軽く叩いた。
「大腿骨頸部骨折。手術して、半年くらい施設にいたの。戻ってきてからは何とかしてたけど……このところ、動かなくなったら余計に食べられなくなったわね」
説明が整理されている。
この人は、自分のことを自分で観察できる人だ。
横で一ノ瀬さんが、血圧計と体温計を手際よく準備した。
動きに無駄がない。仕事の時の彼女は、本当に“完璧な看護師”に見える。
「血圧、測りますね」
笹川さんが腕を出す。
そのとき笹川さんが、一ノ瀬さんをじっと見て言った。
「紗夜ちゃん、あんた、もう三十くらい?」
一ノ瀬さんの手元が一瞬止まった。
止まったけど、すぐ動き出す。止めない。否定もしない。
「……はい」
返事は短い。
笹川さんは満足そうに頷いた。
「やっぱりね。大学入った時にうちに来たでしょう。十八の顔だった。卒業して看護師さんになってからも、二年くらい住んでた」
一ノ瀬さんは血圧計の表示を確認しながら、小さく言った。
「……よく覚えてますね」
「覚えてるわよ。大家だもの」
笹川さんが笑う。
その笑いに、誇りが混じっている。
「血圧は大丈夫そうです。熱も今はないですね」
一ノ瀬さんが事実だけを置く。病棟の声に戻す。
俺も続ける。
「まず採血をしましょう。脱水、感染、貧血、栄養状態を見ます。必要ならCTも考えます。苦しくならないように点滴で支えながら」
笹川さんは頷いた。
「うん。調べるのはお願いする」
それから一ノ瀬さんの方を見て、ぽつりと言う。
「紗夜ちゃん、あんた昔、よく顔が固かったわねえ」
一ノ瀬さんが即答する。
「固くないです」
「固かった」
「固くないです」
短い応酬。妙に息が合っている。
笹川さんが勝っている。年季の勝ち方だ。
笹川さんは悪びれず続けた。
「それに、泣いてた」
「泣いてません」
「泣いてた」
俺は咳払いを一つして、話を戻す。
「今日は無理に食べなくていいです。入る分だけで。しんどさを減らすのを優先します」
笹川さんは少しだけ目を細めた。
「先生、分かってる人ね」
「……面倒を減らしたいだけです」
言ってから、病室で使う言葉として雑だったかもしれないと思った。
でも笹川さんが小さく笑ったので、結果的には悪くなかった。
「面倒ねえ」
「面倒です」
「それでいいのよ」
その「いいの」が、許可みたいに聞こえた。
◇
病室を出て廊下に出ると、一ノ瀬さんが小さく息を吐いた。
「……すみません」
「何がですか」
「笹川さんに、昔のことを言われるの」
「患者さんって、そういう生き物です」
一ノ瀬さんは歩幅を崩さずに言った。
「笹川さんは、昔の大家さんです。……私が学生の頃から」
学生の頃。
さっきの「十八の顔だった」という言葉が、頭の奥でまだ残っている。
十八から今まで。10年くらいだろうか。人間には十分長い。長いのに、笹川さんは“変わらない”と言った。
俺はその言葉を胸の中で転がしてから、表に出すのはやめた。
今聞いたら余計が増える。余計はまだ要らない。
「採血が出たら、また話しましょう。笹川さん、何か“希望”があるかもしれない」
一ノ瀬さんが頷く。
「はい」
いつもの完璧な「はい」。
でも、その中にほんの少しだけ、人間の温度が混ざっていた。




