09 エピローグ
401が退院して、病棟はすぐに元の速度に戻った。
ベッドが一つ空いた分だけ、息が一回増える――なんて都合のいい話はなくて、空いたところには別の面倒が、きっちり入ってくる。病院はそういうふうにできている。
ただ、変わったことが一つあった。
救外からの電話の出だしが、少しだけ違う。
「高槻先生、消化管出血っぽいんですけど……」
その一言を聞いた瞬間、頭の中の引き出しが勝手に開く。
薬剤、便の性状、バイタル、輸血、内視鏡室、止血具。
体が思い出す。手が先に動こうとする。
久しぶりに「戻ってきた」という感覚が、日常の中に混ざり始めていた。
それが嬉しいのかどうかは、まだ分からない。
分からないけど、少なくとも「空っぽ」ではない。
◇
口止め料も、少しずつ変わってきた。
最近は、受け取る側の俺が先に自販機の前にいることがある。
待っている、というより、そこが一番“余計が増えない場所”だからだ。
一ノ瀬さんは相変わらず、完璧な顔で缶を落とす。
カタン。
今日はココアではなく、温かいお茶だった。
「先生」
「はい」
「最近、糖分で黙らせるの、雑だと思って」
雑、という言い方の中に、変な優しさがある。
「黙らせるためじゃないでしょ」
「……では、落ち着かせるためです」
言い直すところが、この人らしい。
俺は缶を受け取って、少しだけ笑った。
「そういえば、一ノ瀬さん」
「はい」
言いかけて、やめる。
踏み込みすぎると、面倒が増える。
増えた面倒を減らすのに、また時間がかかる。
一ノ瀬さんは俺の沈黙に気づいて、何も聞かずに言った。
「先生、今日は顔が仕事の顔です」
「……さっき救外から電話が来た」
「そうですか」
一ノ瀬さんはそれ以上掘らない。
掘らないことで、会話が続くこともある。
俺が缶を一口飲むと、温度が喉の奥に落ちていった。
「こういうの、続いていきますかね」
自分でも意外なくらい、素直な言葉が出た。
一ノ瀬さんは少しだけ考えてから、淡々と答えた。
「続けるために、手順を増やすんです」
手順。
いつもその言葉に戻る。
「じゃあ、口止め料も手順?」
「はい」
言い切ってから、一ノ瀬さんは小さく付け足した。
「でも、最近は口止め料って呼ぶ方が雑なので……」
「じゃあ何て呼ぶんですか」
「打ち合わせ費です」
病院の外でも、結局会計みたいな言い方をする。
俺が笑うと、一ノ瀬さんもほんの少しだけ口角を上げた。
その瞬間、俺のPHSが鳴った。
電話として鳴る、あの嫌に現実的な音。
「高槻です」
「病棟です。先生、消化器で新規入院、お願いします」
新規入院。
それだけで、日常は次のコマに進む。
「内容は」
「食べられない、って。86歳の女性です。整形の既往があって、最近活動量が落ちてきたみたいです」
食べられない。
年齢。
活動量低下。
重い言葉を軽く言うのが病棟で、軽く言われた言葉が重くなるのが医者の頭だ。
「分かりました。今行きます」
電話を切ると、一ノ瀬さんがこちらを見ていた。
「先生、行きます?」
「行きます」
「私も、つきます」
「病棟の仕事は」
「今、私の手順に入ってます」
手順に入ってます。
この人の言う手順は、たぶん“守るための段取り”だ。
◇
病室の扉をノックして入る。
ベッドの上に、小柄なおばあちゃんがいた。
顔色は悪くないのに、目だけが少し遠い。そういう目を、俺は知っている。
「高槻です。食事が入らないって聞きました」
おばあちゃんは、ゆっくりこちらを見る――より先に、一ノ瀬さんの方を見た。
そして、まるで時間を巻き戻すみたいに、当たり前の声で言った。
「……紗夜ちゃん?」
一ノ瀬さんの肩が、ほんの少しだけ固くなる。
誰にも気づかれない程度。けれど、俺には分かった。
病室の白い空気の中で、その呼び名だけが妙に色を持って落ちた。
俺は、まだ何も聞いていない。
でも、これだけは確信した。
この入院は、ただの「食べられない」じゃ終わらない。




