03 眠れない夜が増える
当直室に戻っても、椅子に座っても、コーヒーの苦さが舌に残っても、頭の中の映像だけは薄まらなかった。
倉庫。赤いパック。口元。
そして「私、吸血鬼なので」という、妙に事務的な言い方。
冗談にするには目が真剣すぎたし、告白にするには声の温度が低すぎた。
俺は当直室のベッドに腰を下ろして、靴を脱ぎかけてやめた。眠れるわけがない。眠ろうとした瞬間に脳が勝手に“問題点”を箇条書きにし始めるのが見える。
そもそも、吸血鬼って何だ。
病院で働いていいのか。
いや、働いている。俺が見た。
あのパックは何だ。
感染症は。
本人の健康管理は。
制度って言ったか? 政府の支給?
「……めんどくさ」
口から出た言葉が、今日一番正直だった。
携帯を見た。圏外ではない。ニュースもSNSも、開けば何かしら流れてくる。でも今、一般論を吸う気分じゃない。俺が知りたいのは“一ノ瀬紗夜の現実”だけだ。
胸ポケットのPHS-院内用の携帯電話-が、短く震えた。
すっきりとしない頭で電話にでる。
「402号室の患者さん、SpO2低下してます。」
さっき入れた誤嚥性肺炎の人だ。
俺は立ち上がって白衣を羽織り、病棟へ向かった。動くと、考えが少しだけまとまる。医者は結局、手を動かしている間がいちばん楽だ。
402号室の前で、一人の夜勤ナースがモニターを見ながら困った顔をしていた。若い。声が少し上ずっている。
「先生、すみません。酸素上げても上がらなくて」
俺は患者の顔を見た。口呼吸。痰が多い。呼吸が浅い。誤嚥性肺炎の、いつものやつ。いつものやつは、いつも面倒だ。
「吸引できてる?」
「痰が…すごくて」
「じゃあ一回、しっかり吸引して、体位変えて。酸素は一段階上げて、ネブライザーもいこう。採血も。あと、胸部レントゲン」
淡々と指示を出す。いつもの手順。いつもの現実。
そのとき、足音が近づいた。
「状況どうですか」
声がブレない。
一ノ瀬紗夜が、部屋の入り口に立っていた。顔は職場の麗人のまま。さっきの倉庫の話は、ここには一ミリも持ち込まれていない。
若いナースが少し安心したように言う。
「一ノ瀬さん、痰が多くて、SpO2が…」
「分かった。吸引、私やります」
彼女は手袋をはめる速度が速いのに、乱れない。吸引チューブ、カフ圧、患者の反応、酸素の流量、全部を目で追いながら、必要なものを必要な順番で触っていく。
俺はその手際を見ながら、どうしても別のことを考えてしまう。
この人は、赤いものを見て、どう感じるんだろう。
吸引ボトルの中に溜まる痰は赤くない。でも時々、血が混じる。血液ではない血液の匂いがすることがある。患者の口の中は、食べかすと唾液と薬の味が混ざって、きれいではない。
一ノ瀬さんは、眉一つ動かさなかった。淡々と吸引して、患者を少し横向きにして、胸郭が動きやすい位置に枕を入れる。
その間に、モニターのSpO2が少しずつ戻っていく。
「…落ち着いてきました」
若いナースが言うと、一ノ瀬さんは短く頷いた。
「痰が詰まってただけ。夜はこういうの多いから」
“夜はこういうの多い”。
それはただの臨床の話のはずなのに、俺の頭の中では別の意味も帯びてしまう。
夜は、彼女の時間でもあるのか。
患者が落ち着き、レントゲンと採血の段取りがついた。俺は若いナースに追加の指示をして、廊下へ出る。
一ノ瀬さんも一緒に出た。扉が閉まる音が、病棟の静けさに吸い込まれる。
廊下の蛍光灯が白い。夜の白さだ。
俺は、言うべきか迷った。今ここで倉庫の話を出したら、彼女の“職場の顔”を壊す。彼女が嫌がるだろうことは分かる。分かる、というのがもう変だ。俺は彼女のことを何も知らないのに。
それでも、口が先に動きかけた。
「さっきの――」
一ノ瀬さんが、先に目線だけで止めた。声は出していないのに、“今じゃない”が伝わる。
その目線が、怖かった。脅しではない。境界の提示だ。
俺は言葉を飲み込んで、代わりに別のことを言った。
「手際、助かりました」
一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「仕事なので」
そして、ほんの一瞬だけ俺の顔を見て、低い声で付け足した。
「先生も、ちゃんと医者の顔してました」
褒め言葉なのに、どこか皮肉っぽい。けど、嫌じゃない。俺が医者の顔をしていた時間は、たしかに久しぶりだった。
「…ありがとう」
俺がそう返すと、一ノ瀬さんは会釈だけしてナースステーションへ戻っていった。
◇
当直室に戻って、今度こそ椅子に座った。時計を見る。午前四時過ぎ。
眠れない時間が、きちんと積み上がっていく。
しばらくして、内線が鳴った。
「当直、高槻です」
「高槻先生、一ノ瀬です」
声がブレない。眠気の中でも認識できる。
「さっきはすみません。402、落ち着きました」
「ありがとう。助かりました」
一拍、間が空いた。
たぶん彼女のほうが、言うか言わないかを選んでいる。
「先生」
「はい」
「倉庫の話、今はしない方がいいです」
その言い方は“お願い”に聞こえたし、“命令”にも聞こえた。
「分かりました」
俺が即答すると、彼女は少しだけ息を吐いた。
「…ありがとうございます」
礼を言われるのは、やっぱり落ち着かない。俺のほうが何かを背負わされた気になる。
「ただ」
俺は続けた。
「倒れるなら、倒れる前に言ってください。医者として困ります」
医者として、という言い訳。便利な盾だ。盾の裏に、本音が隠れる。
一ノ瀬さんは、少し笑った気配がした。音はしない。でも、呼気が柔らかくなる。
「先生、真面目ですね」
「真面目じゃないです。面倒が嫌いなだけです」
「…同じです」
その一言だけで、なぜか距離が一センチ縮んだ気がした。縮んだというより、角が取れた。
「それ、何なんですか」
俺は、結局聞いた。遠回りに。
「政府の支給って言ってましたよね。そういう…制度がある?」
電話の向こうで、一ノ瀬さんが少し考える気配。
「あります。詳しいことは、担当に聞いた方が早いです」
担当。やっぱりそういう言い方をする。
「担当?」
「結城さん。…結城千景さん」
名前が出た瞬間、世界が一段現実に寄った。怪談じゃない。ファンタジーでもない。担当者がいる。名前がある。おそらく書類がある。期限と規則がある。
「結城さんは、どういう人ですか」
一ノ瀬さんの返事は簡潔だった。
「困ったときに困ってる顔をしない人です。…助かります」
それは褒め言葉にも、怖さの説明にもなる。
「そっか」
俺はそれ以上踏み込まなかった。今夜はまだ、踏み込みすぎると危ない気がする。
「先生」
一ノ瀬さんが言う。
「私、ここでは看護師なので」
「分かってます」
「…吸血鬼の話は、必要なときだけでいいです。余計なの、疲れるので」
余計なの。
余計な同情。余計な好奇心。余計な正義感。余計な噂。
俺は、去年“余計なこと”をして飛ばされた人間だ。だからその言葉が、痛いくらい分かる。
「了解です」
短く答えると、一ノ瀬さんも短く返した。
「ありがとうございます。…じゃあ、失礼します」
通話が切れた。
当直室の静けさが戻る。モニターの電子音も、廊下の足音も遠い。夜が、また重くなる。
でもさっきまでの夜とは違う。
“知らないもの”に怯える夜じゃなく、“知ってしまったもの”をどう扱うかの夜になった。
俺は紙コップのコーヒーを飲み干した。冷めて、苦さだけが残っている。
それでも、妙に目は冴えていた。
机の上のメモ用紙に、無意識に書いてしまう。
結城 千景。
政府支給。
一ノ瀬 紗夜=看護師。
吸血鬼(?)
そして最後に、俺は自分の字で一行だけ足した。
「余計なことはしない。倒れる前には言わせる」
医者としての言い訳で固めた誓いは、案外長持ちする。
そのとき、またPHSが震えた。
「救急外来に吐血の患者さんが搬送されます!」
夜が、終わらない。




