08 退院の日は軽い
退院の日の病棟は、少しだけ軽い。
ベッドが空く。点滴台が戻る。
ナースステーションの空気が一段だけゆるむ。忙しさが消えるわけじゃない。ただ、息が一回分増える。
401の76歳は、朝から妙に元気だった。
荷物をまとめる手が早い。服を畳む音が、生活の音だ。
「先生、今日帰れるのよね」
「帰れます。ふらつきも落ち着いてるし、便も安定してます」
「便の話、退院日にするの、なんか変ね」
「変ですか。でも一番大事です」
彼女は笑って、ベッド柵を軽く叩いた。
「トイレが怖かったのよ、あの夜から」
「怖いのは普通です」
俺はできるだけ、余計なことを言わないようにした。
不安を“消す”ことはできない。できるのは、手順に落とすことだけ。
「もし黒いのが続く、赤いのが出る、立ちくらみが強い、息切れが急に悪化する。そういう時は、迷わず来てください」
「迷わずね」
「迷うと、面倒が増えます」
つい言ってしまって、患者は目を細めた。
「先生、それ、口癖?」
「……最近です」
「最近、何があったの」
「いろいろありました」
いろいろ、は便利だ。病棟では特に。
そこへ、一ノ瀬さんが退院指導の書類を持って入ってきた。
いつもの完璧な顔。いつもの完璧な声。
「お薬の確認をしますね。鉄のお薬は、便が黒くなることがあります。これは副作用の範囲です。出血の黒さとは違うこともあるので、気になる時は遠慮なく相談してください」
患者は、一ノ瀬さんの声を聞いて、安心したみたいに息を吐いた。
「あなた、声が落ち着いてるわね」
「看護師なので」
「先生より落ち着いてる」
「それは多分、先生が面倒だからです」
一ノ瀬さんがさらっと言って、俺は一瞬だけ固まった。
患者が楽しそうに笑う。
「面倒な先生は信用できるって、私もう学習したのよ」
学習。
患者に学習される医者って、何なんだろう。
◇
退院の時間が近づくと、患者は急に真面目な顔になった。
「先生」
「はい」
「助かったわ。ほんとに」
こういう「助かった」は、医者にとって刃物みたいに鋭い。
嬉しいのに、軽く受け取れない。
「こちらこそ。間に合ってよかったです」
彼女はバッグをごそごそして、小さな紙袋を取り出した。
「これね」
「……何ですか」
嫌な予感がした。病棟の“お礼”は、扱いが面倒だ。
「飴。のど飴。家にいっぱいあったの。先生、面倒そうな顔してるから、糖分あげる」
理屈が雑だ。だが、優しい雑さだ。
「いや、これは……」
「受け取りなさい。先生、そういうの断ると余計面倒になるでしょ」
痛いところを突かれた。
俺が言葉に詰まっていると、一ノ瀬さんが間に入った。
「患者さん。お気持ちは嬉しいです。でも、先生個人に渡すと面倒が増えます」
患者が目を丸くした。
「え、なんで」
「病院のルールです。なので」
一ノ瀬さんは淡々と続ける。
「病棟の皆さんへの差し入れ、という形にしましょう。師長に確認します」
患者は一拍考えて、すぐに頷いた。
「そうね。みんなに。あの夜、走ってくれたもの」
一ノ瀬さんが軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。先生も助かります」
俺は思わず言った。
「……助かります」
患者がにやっと笑う。
「先生、こういう時だけ素直ね」
「面倒なので」
「ほら、面倒」
笑われると、少しだけ救われる。
救われるのは、患者の方かもしれない。医者の方かもしれない。多分、両方だ。
◇
患者は車椅子でエレベーターに向かった。
廊下の角で一度だけ振り返って、軽く手を上げた。
「先生、もう来ないからね!」
「来ないのが一番です」
「来ない!」
それが言える顔だった。
退院の顔は、たいてい未来の顔だ。
病棟に戻ると、師長が紙袋を見て笑った。
「飴? ありがたいね。先生、患者さんに好かれた?」
「……面倒だったので」
師長が笑う。
「それ、褒め言葉として定着してるわよ」
◇
夕方、救急外来からPHSが鳴った。
「高槻です」
「救外です。先生、下血っぽい相談が来たら、まず先生に電話するようにしました」
一瞬、言葉が出なかった。
この病院で「まず先生」って言葉を、俺はしばらく聞いていない。
「……了解です。状況によりますけど、遠慮なく呼んでください」
「助かります。ほんと」
通話が切れて、机の上がやけに明るく見えた。
俺の居場所が、少しだけ輪郭を持ち始めている。
◇
終業後。職員通用口の外。自販機の白い光。
一ノ瀬さんが先にいた。今日は缶を落とす前に言った。
「先生、401、いい顔で帰りました」
「よかった」
「先生も、いい顔です」
「……それは多分、勘違いです」
一ノ瀬さんはボタンを押して、缶を一つ落とした。
カタン。
ココアだった。
でも今日は、昨日までの“相場”と匂いが違う。
「今日は口止め料ですか」
俺が言うと、一ノ瀬さんは淡々と返した。
「今日は送別会費です」
送別会費。言い方が病院すぎる。
「誰の」
「401の」
「なるほど」
俺は缶を受け取って、プルタブを開けた。甘い匂いが、さっきの紙袋の飴を思い出させる。
「先生」
一ノ瀬さんが、少しだけ声を落とす。
「今日の面倒は、いい面倒でした」
いい面倒。
そんな分類があるのか。
「……確かに」
「だから相場は据え置きです」
「据え置き」
「はい。続けるために」
続けるために。
その言葉が、今日だけは冗談に聞こえなかった。
俺はココアを一口飲んで、静かに頷いた。
退院の日は軽い。
軽いまま終われた日は、次の夜勤の面倒を少しだけ減らしてくれる気がした。




