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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
口止め料の相場

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07 クリップは二本

 医療って、止めたら終わりじゃない。


 止めたあとに残るものがある。

 カルテ、同意書、輸血の記録、薬の量、使った物品、そして請求。


 翌朝の医局で、俺は退院サマリーの下書きを打ちながら、つくづく思っていた。


「止まった」って言った瞬間が一番気持ちいいのに、

 その後の「数字を揃える時間」が一番長い。


 画面の中の文字列は冷静で、夜中の血の赤は一切残っていない。


「下部消化管出血(憩室出血)…緊急下部内視鏡…止血クリップ…」


 止血クリップ。


 ここで指が止まる。


 何本だっけ。


 夜中のモニターの中では、確かに金属の音が二回鳴った。

 カチッ、カチッ。

 でも、記録に残すべき“二回”って、意外と曖昧になる。


 そこへ、机の上の固定電話が鳴った。

 PHSじゃない。こういう時の固定電話は、だいたい面倒だ。


「高槻です」


「医事課です。昨日の401の内視鏡止血、クリップ何本使用ですか?」


 来た。


「ええと……」


 返事が情けない。止血はできたのに、本数が曖昧。


「確か……二本、だったと――」


「“確か”だと困ります」


 ごもっとも。現場の“確か”は役に立つこともあるが、請求の“確か”は役に立たない。


「すみません。確認します」


 電話を切った瞬間、俺は机に額をつけた。


 面倒が、違う方向から殴ってくる。


 ◇


 病棟に上がると、ナースステーションの端に一ノ瀬さんがいた。いつも通り端正に立って、記録を打っている。世界の角度が乱れない人。


「一ノ瀬さん」


「はい、高槻先生」


 俺は声を落とした。


「昨日のクリップ、何本でしたっけ」


 一ノ瀬さんは一拍も迷わず答えた。


「二本です」


 即答。音より正確。


「……覚えてるんですね」


「看護師なので」


 またそれだ。便利すぎる免罪符。


「看護師って、何でも覚えてるんですか」


 一ノ瀬さんは端末から目を離さず言った。


「覚えてません。数えただけです」


「数えた」


「はい。クリップ二本。輸血四単位。鎮静2 mgの量。ルート18 G。夜勤は数字が増えます」


 言い方が淡々としているのに、妙に現実的で笑えない。


 俺は素直に頷いて、医事課に折り返した。


「クリップ二本です。確定で」


「了解です。ありがとうございます」


 今度は声が少し柔らかい。

 “確定で”は、面倒を減らす。


 ◇


 401の病室に顔を出すと、患者はベッドの上で雑誌をめくっていた。顔色は戻っている。目の力も戻っている。


「先生、おはよう」


「おはようございます。気分どうですか」


「だいぶいい。ふらつきも減った」


「便はどうですか。赤いのは出てない?」


 患者さんは少し考えてから頷いた。


「赤いのは出てない。……でもね」


 そこで彼女が、少しだけ眉をひそめる。


「黒いのって、また出てもいいの?」


 この問いが、今回の肝だった。

 黒い便は、出血のサインにもなるし、薬により影響でもでる。


 俺は言葉を丁寧に選ぶ。


「黒い便にも種類があります。薬で黒くなることもあるし、出血で黒くなることもある。だから“色だけで決めない”のが大事です」


 患者さんが、ふうん、と頷く。


「じゃあ私は、どうしたらいいの」


「気になる時は、遠慮せず呼んでください。便の回数と、形と、どのくらい黒いか。腹痛やふらつきがあるか。そういう情報が大事です」


「情報ねえ」


「情報です。面倒ですけど」


 患者さんが笑った。


「先生、やっぱり面倒ね」


「面倒です」


 笑えるくらいに戻ってきた。

 それだけで、医者は少し救われる。


 ◇


 昼過ぎ、病棟の小さな申し送りの輪に呼ばれた。


 師長が簡単にまとめる。


「401、憩室出血、止血済。輸血反応なし。退院調整へ。鉄剤の黒便と出血の黒便が紛らわしかったね」


 責める口調ではない。確認の口調だ。


 師長は続けた。


「だから手順を一個だけ変える。入院時の内服確認は早めに。便の性状は言葉で共有。」


 若い看護師が少し赤くなって言った。


「すみません、私、最初に薬を聞ききれてなくて……」


「いいよ。次からやろう」


 師長の切り替えが早い。現場を守る人の早さだ。


 俺は余計なことを言わない代わりに、余計じゃない一言だけ置いた。


「面倒だから、最初に薬は確認しましょう。黒い便は、出血と薬で紛れます」


 誰かが小さく笑った。

 “面倒”が、もう病棟語になっている。


 輪の端で、一ノ瀬さんが静かに頷いていた。

 あの頷きは、昨日の内視鏡よりもずっと“続く形”に見えた。


 ◇


 終業後。


 職員通用口の外、自販機の白い光の下。


 一ノ瀬さんが先にいた。今日はいつも通り、待っている感じを消している。


「先生」


「お疲れさまでした」


 一ノ瀬さんはボタンを押して、缶を一つ落とした。


 カタン。


 温かいココアだった。


「今日はココアなんですね」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは淡々と返した。


「今日は二本の日なので」


「……二本?」


 一ノ瀬さんはもう一本、何も言わずに落とす。


 カタン。


「二本です」


「二本、確定で?」


「確定で」


 俺は二本目を受け取って、苦笑した。


「どういう日なんですか、それ」


 一ノ瀬さんは、ココアを持ったまま指折りもせずに言う。


「クリップ二本。先生、今日も二回『確認します』って言いました」


「言いましたね」


「だから二本です」


 ロジックがきれいすぎる。反論の余地がない。


 俺はプルタブを開けて、甘い匂いを吸い込んだ。


「ありがとう。助かった」


「看護師なので」


 いつもの逃げ方。でも今日は少し違って聞こえた。

 “当たり前”として差し出してくれている感じがする。


 俺はココアを一口飲んで、言った。


「今日、病棟の手順が一個だけ変わったの、良かったですね」


 一ノ瀬さんが頷く。


「面倒が減ります」


「減らしたい」


「先生、そういうの、向いてます」


 淡々としているのに、効く褒め言葉だった。


 俺は、二本目の缶を見下ろして最後に言った。


「じゃあ次から、俺も“確か”を減らします。思い出せないものは、ちゃんと確認する」


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ口角を上げた。


「それが一番、相場が上がります」


「上がるんだ」


「はい。確定で」


 確定で。

 その言葉が今日は、ただの事務処理じゃなくて、少しだけ救いに聞こえた。

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