06 相場改定
翌々日、401の病室は少しだけ“日常”に戻っていた。
酸素のチューブもない。モニターも外れた。輸血は終わった。
患者は、病院食のトレーを見下ろして眉をひそめていた。
「先生、これ……味が薄い」
「薄いですね」
「ねえ。これが減塩なの?」
「多分、そうです」
焼き魚を箸でつついて、彼女はため息をついた。
「でもまあ、生きてる味はするわね」
その言い方が妙にうまくて、俺は返事に困った。
生きてる味。医者が言うと重くなる言葉を、患者はさらっと言ってしまう。
「顔色、だいぶ戻ってます。脈も落ち着いてる」
「止めてくれたんでしょ」
「止めました」
言い切ったあとで、自分の声が少しだけ上向いたのに気づく。得意げになるのは危ない。医者の悪癖だ。
彼女がふと思い出したように言った。
「先生、あの、金具……中に入ってるのよね?」
「クリップですね。腸の出血してるところを挟んで止めるやつです」
「これから空港でピーピー鳴ったりしない?」
「鳴らないと思います」
「思います、じゃ不安よ」
「鳴っても、腸で止血しただけです。飛行機は落ちません」
彼女が笑って、むせた。
「もう、先生の言い方って……面倒くさいけど、安心するわ」
面倒くさいけど安心。
その評価が妙にしっくりきて、何も言い返せなかった。
◇
病室を出ると、師長が廊下の角で待っていた。こういう待ち方をする時の師長は、たいてい用件が短い。
「先生、401、落ち着いたね。よかった」
「再出血がなければ数日で退院いけます」
師長は頷いてから、声を少し落とした。
「先生、昨日の内視鏡。指示が短かったから病棟が動きやすかった」
“指示が短い”。
褒め言葉として扱っていいのか迷うやつだ。でも現場では、それが一番効く。
「動いてもらって助かりました」
師長は続けた。
「一ノ瀬さんも良かった。先生が言う前に物品が揃ってたでしょ」
「……揃ってました」
「揃ってるときって、現場の面倒が半分になるのよ」
それは真理だと思う。
そして、その“半分”はだいたい看護師が背負っている。
師長は軽く手を上げて、そのまま仕事に戻っていった。
廊下はまた、白い日常に戻る。
◇
昼過ぎ、401の患者さんがリハビリへ行く途中、こちらを見て言った。
「先生」
「はい」
「昨日の看護師さん、きれいだったわね。落ち着いてた」
俺は一瞬、どう返すか迷ってから頷いた。
「一ノ瀬さんですね。落ち着いてます」
患者さんが、にやっと笑う。
「落ち着きすぎて、逆に怖いくらい」
「怖いのは、わかります」
「先生も、ちょっと怖かったわよ。夜中に急に顔が“仕事の顔”になって」
仕事の顔。
久しぶりに言われて、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「面倒だったので」
つい盾が出る。
患者さんは笑った。
「それ、照れ隠しでしょ」
「違います」
「違うのね」
「違います」
「面倒な先生ね」
面倒が、完全に褒め言葉側へ越境している。まずい。
◇
夕方、医局でカルテを打ちながら、昨日の自販機の光を思い出した。
上司の沈黙の話をした。
自分が正しさだけで突っ走ってしまった話をした。
一ノ瀬さんは、慰めるでも説教するでもなく、「手順で助ける方」と言った。
あれは、軽い言葉じゃない。
でも重くしない言葉でもあった。
俺はそれを、今日一日ポケットに入れて持ち歩いていた気がする。
◇
終業後、職員通用口の外。
自販機の白い光の下に、一ノ瀬さんがいた。
今日は「待っています感」を消しきっている。完璧な立ち方。昨日のことなど何もなかったみたいに。
「先生」
「お疲れさまでした」
一ノ瀬さんは自販機のボタンを押し、缶を二本落とした。
カタン。
カタン。
差し出されたのは、温かい缶のお茶だった。
「……今日は珍しいですね」
俺が言うと、一ノ瀬さんは淡々と答えた。
「昨日の話のあとにココアは雑なので」
雑。
この人の“雑”は、けっこう優しい。
俺は缶を受け取って、指先に伝わる温度に少しだけ安心した。自分の顔が緩むのが分かって、悔しい。
「昨日、口止め料いらないって言ってましたよね」
「はい」
「じゃあこれは」
一ノ瀬さんはプルタブを開けながら言った。
「相場改定です」
「……何の相場」
「口止め料の相場です」
「口止め料じゃないって言ったのに」
一ノ瀬さんは真顔で訂正する。
「口止め料じゃありません。慰労費です。別枠」
別枠。病院の会計みたいな言い方をする。
俺が笑うと、一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ口角を上げた。
「先生が自分で言ったので、秘密じゃなくなりました」
「そうですね」
「でも、先生が自分で言ったのは、面倒を減らすための手順だったと思うので」
一ノ瀬さんは、言葉を選ぶように一拍置いて、
「……私は、それでいいと思います」
その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなった。
俺は缶のお茶を一口飲んだ。甘くない。でもちゃんと温かい。
「401、落ち着きました」
「よかったです」
「一ノ瀬さんが早かった」
「看護師なので」
いつもの逃げ方。でも今日は、その逃げ方が少しだけ柔らかい。
俺は余計なことを聞きそうになって、飲み込んだ。プライベートに踏み込みすぎるのは、面倒が増える。
代わりに、現場の話を置く。
「次に同じことが起きたら、最初から造影CTを撮ります」
一ノ瀬さんが頷いた。
「面倒が減りますね」
「減らします」
「先生、そういうところ、助かります」
助かります。
それが病棟の声じゃなく、外の声に聞こえたのは――自販機の光のせいかもしれない。
俺たちは缶を飲み干して、いつものようにそれぞれの方向へ歩き出した。
口止め料は、もう口止め料じゃない。
でもこの五分は、たぶん続く。
続けていける形は、こういう小さな“別枠”の積み重ねでできていくのかもしれない。




