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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
口止め料の相場

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05 沈黙の意味

 

 あの夜、内視鏡室で「止まった」と口に出した瞬間から、俺の中の時間は少しだけ巻き戻っていた。


 緊急内視鏡のあとの静けさ。

 終わったはずなのに、体の奥がまだ働いている感じ。

 そして、遅れてやってくる反省。


 翌朝、病棟はいつも通りの白さだった。

 でも俺の目だけが、妙に冴えていた。


 401の患者さんの病室に入ると、彼女は少し上体を起こしていた。昨日より顔色がいい。脈も落ち着いている。


「先生、おはよう」


「おはようございます。具合、どうですか」


「うん。昨日よりずっといい。血、止まったの?」


 血。本人が言うと急に直球になる。


「止まりました。原因は大腸の憩室からの出血です」


「憩室?」


「腸に小さい袋みたいなのができて、そこから出血することがあります。年齢と一緒に増えます」


 患者さんは、ふうん、と頷いてから言った。


「年齢のせいなら、仕方ないわねえ」


 あっさりしている。

 こういう強さは、医者を少しだけ救う。


 そこへ、一ノ瀬さんが点滴のチェックに入ってきた。いつもの完璧な顔。だけど今日は、目の奥が少し柔らかい。


「先生、輸血の反応は問題なかったです」


「ありがとう。助かった」


 患者さんが一ノ瀬さんを見て言った。


「あなた、昨日いたわよね。すごく落ち着いてた」


 一ノ瀬さんは職場の笑顔で返した。


「看護師なので」


 患者さんは少し笑った。


「看護師さんって、みんなそう言うのね。先生は何て言うの?」


 俺は反射で言った。


「面倒だったので」


 一ノ瀬さんの視線が、ちらっと俺に刺さる。

 病室でそれ言うのは雑、という目。


 患者さんは笑った。


「面倒でもやってくれるなら、いい先生よ」


 その言葉が、胸の奥にすっと落ちた。

 褒められて嬉しいというより、「現場が回った」という実感に近い。


 ◇


 診察を終えて廊下に出たところで、師長が俺に声をかけた。


「先生、昨日はありがとう。久しぶりに病棟が“救急”になったわ」


「こちらこそ、動いてもらって助かりました」


 師長は一ノ瀬さんの方を見て、続けた。


「一ノ瀬さんの判断も早かった。あの子が真剣な顔の時は、だいたい当たるのよね」


 当たる。

 その言い方が軽いのに、怖い。


 一ノ瀬さんは表情を崩さずに言った。


「たまたまです」


「たまたまが積み重なるのが実力よ」


 師長はそう言って去っていった。


 俺は一ノ瀬さんと並んで歩きながら、小声で言った。


「……匂いの話、誰にも言ってないですよね」


「言ってません」


「よかった」


「先生」


 一ノ瀬さんが俺を見ずに言う。


「昨日の判断は、匂いだけじゃないです。先生が採血して、CT撮って、段取りを早く回した」


 少し間を置いて、


「だから止まりました」


 それは、庇い方として完璧だった。

 彼女は自分の“違和感”を、医療の手順に着地させる。


 俺は少し笑ってしまった。


「……看護師ってすごいですね」


「先生、今さらですか」


「今さらです」


「今さらでもいいです」


 一ノ瀬さんの声は淡々としているのに、なぜか救われる。


 ◇


 その日の夕方、俺は久しぶりに医局の端で、ぼーっとしていた。


 カルテを書く手は動いているのに、頭の一部だけが別の場所にいる。

 内視鏡室のモニター。クリップの音。止まった瞬間。


 そして、その奥にある記憶。


 俺は昔も、こういう夜を知っている。

 ただしその夜の俺は、手じゃなくて言葉で間違えた。


 PHSが鳴ってもいないのに、自分から病棟を出て、職員通用口の外に向かった。

 自販機の白い光が欲しかった。なんだそれは、と思う。でも現実だ。


 一ノ瀬さんが、先にいた。


 今日は缶ココアじゃなくて、温かい缶のお茶を持っていた。

 相場が変わったのかと思った。


「先生」


「……今日の口止め料、通貨変更ですか」


 一ノ瀬さんが小さく息を吐いて、少し笑う。


「今日は、糖分じゃない方がいい顔してます」


 見抜かれている。

 悔しいけど、その通りだった。


 俺は自販機にもたれて言った。


「昨日の夜、昔のこと思い出しました」


 一ノ瀬さんは「はい」とだけ言った。続きを促すでもなく止めるでもない。

 聞く姿勢だけがある。ああいうのが一番しゃべりやすい。


「俺が大学にいた頃」


 自分で言って、喉が少し固くなる。


「上司の外来主治医だった患者さんを、入院主治医で受け持ったことがあったんです。胆管の癌で、転移も多くて。黄疸も強くて、腹水も出てきて、食事もほとんどできない」


 一ノ瀬さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。医療者の目だ。


「上司は化学療法をやろうとしてた。俺は……できる状態じゃないだろって思った」


 その頃の俺は、“正しいこと”が武器だと信じていた。

 武器はいつだって、よく切れるほど扱いが難しいのに。


「上司が言ったんです。減量してでもやる、って。減量するくらいなら、やらない方がいい。そもそも適応なのか、って」


 一ノ瀬さんは何も言わない。


「それで俺、医局のカンファで教授たちの前で方針を確認した」


 口に出すと、今でも胸が痛い。

 正しいことを言ったはずなのに、痛い。


「結局、カンファの結論は緩和。化学療法はしない」


 一ノ瀬さんが小さく頷いた。


「その時、上司は何も言わなかったんです。表情も変えなかった。俺は、勝ったと思った」


 一ノ瀬さんが缶のお茶を両手で持ち直した。温度を確かめるみたいに。


「でもカンファが終わった後、上司が普通の声で言ったんです。患者さんと家族に説明してこいって。自分も同席するって」


 俺は当時の自分の言葉を思い出して、苦く笑った。


「面倒だなって思いました」


 一ノ瀬さんの口角がほんの少しだけ動く。笑いかけて、やめた顔。


「説明は俺がしました。治療で体力を削るより、今の時間を大事にした方がいいって。家族も納得してた」


 そこまでは、うまくいったんだ。

 “医学的に正しい説明”としては。


「で、最後に患者さんが上司に聞いたんですよ」


 喉が乾く。


「先生も、そう思いますかって」


 一ノ瀬さんが、ほんの少し息を止めたのが分かった。


「上司はすぐ答えなかった。沈黙が長かった。俺は、方針が変わったから言いにくいんだと思った」


 俺はしばらく黙って、続けた。


「でも上司は、少ししてから言ったんです。自分もそう思う、って」


 患者さんは、それで納得した。

 上司が言うなら、そうなんだろう、と。


「患者さんは数ヶ月で亡くなりました」


 そこまでは、よくある話だ。

 問題は、その次だった。


「亡くなった後に、娘さんが言ったんです。両親とも、この病院でお世話になったって。父親は上司に見送ってもらったって」


 俺の胸の奥が、じわっと冷える。


「詳しく聞いたら、上司はその人の旦那さんの主治医だった。旦那さんも癌で、本人は治療したくないって言ってた。でも家族はやってほしい。上司は何度も説明して、説得して……最後に奥さんが『自分が癌になったら自分も必ず治療する。あなただけに苦しい思いはさせない』って、約束みたいなことまで言ったらしい」


 一ノ瀬さんの視線が、自販機の光の方へ逸れた。

 その方が聞きやすいのかもしれない。真っ直ぐ見られると、言葉が崩れる。


「で、旦那さんは亡くなって。数年後、今度は奥さんが癌になった。治療できない状態だって上司が説明した時、奥さんが……喜んだって」


 俺は、そこで一回息を吐いた。


「『旦那したあの時の約束が果たせる』って。先生、お願いしますって」


 自販機のモーター音だけが、間を埋める。


「娘さんは、無理に抗がん剤をしなくてよかったって感謝してた。俺にじゃない。上司に」


 俺は笑えないのに、笑ってしまいそうになる。

 あまりにも、人間が人間すぎて。


「俺は医学的に正しい判断をした。間違ってない。でも……正解だったのか、分からなくなった」


 一ノ瀬さんが、ようやく小さく言った。


「先生」


「はい」


「それは、先生が悪いって話ではないと思います」


 否定はしてくれる。でも肯定もしない。

 そのバランスが、彼女らしい。


「でも俺は、上司の“約束の形”を壊したのかもしれないと思った。患者さんが最後に上司に聞いた意味も、上司の沈黙の意味も……その時は分からなかった」


 俺は缶のお茶を一口飲んだ。温かいのに、喉が冷たい。


「それから上司と俺の折り合いが悪くなった。上司は吹聴するタイプじゃない。でも周りは見る。出世レースに乗ってる人と合わないやつは使いにくい」


 言っていて、情けなくなる。

 結局、組織はそうやって人を動かす。


「気づいたら俺は本流から外れて、上司が教授になった頃に……ここに飛ばされた」


 言い切ると、少しだけ楽になった。

 言葉にすると、過去は少しだけ小さくなる。


 一ノ瀬さんは、しばらく黙っていた。

 そして、淡々と言った。


「先生」


「はい」


「昨日、先生が止血してる時、迷いがなかったです」


 俺は思わず言った。


「迷い、ありましたよ」


「手には出てませんでした」


 一ノ瀬さんは缶のお茶を持ち上げる。


「だから、先生はこっちでいいと思います。手順で、人を助ける方」


 “こっちでいい”。

 それは、大学か病院かの話じゃない。生き方の話だ。


 俺は、小さく頷いた。


「……昨日の患者さんは、俺が油断した分も含めて、戻ってきたんだと思う」


 一ノ瀬さんが頷く。


「戻ってきましたね」


「で、止めた」


「止めました」


 俺は、いつもの盾を出す。


「面倒だったので」


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ笑った。


「今日は、口止め料いりません」


「え」


「先生が自分で言ったので」


 それは、口止め料の趣旨と逆だ。

 でも、その逆が、妙に嬉しかった。


 自販機の白い光の下で、俺は初めて気づいた。


 俺はこの病院で、消化器内科医として戻り始めている。

 そして多分――言葉の使い方も、少しずつやり直している。


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