04 止まった
内視鏡室のドアが開いた瞬間、空気が変わった。
普段は静かすぎる部屋だ。
定期の検査をほとんどやらないから、いつも「使われてない器械の匂い」がする。消毒の匂いの奥に、眠っている感じがある。
今日は違う。
モニターが点き、吸引の音がして、物品の包装を剥がす乾いた音がする。
静かな部屋が、やっと仕事を思い出したみたいに動き出している。
「高槻先生、準備できました」
師長の声が、いつもより低い。
そして続けて、当たり前みたいに言った。
「今日の内視鏡、一ノ瀬さんにつけるから。安心して」
俺は一瞬だけ顔を上げた。
一ノ瀬さんは既に手袋をはめて、止血具のトレーを確認していた。
視線はモニターじゃなく、器具。段取りの目。
「……お願いします」
「はい」
返事は短い。
短いほど、現場は回る。
患者さんはストレッチャーで運ばれてきた。顔色はさっきより白い。脈は速い。輸血は既に繋がっている。ルートも太い。
「先生、私…」
弱い声が漏れる。
俺は患者さんの目を見て、できるだけ普通の声で言った。
「今から出血を止めます。苦しくならないように薬も使います」
患者さんは小さく頷いた。
鎮静。モニター。酸素。
一ノ瀬さんが淡々と確認する。
「血圧、今は保ててます。SpO2もいいです。鎮静、入れます」
「お願いします」
薬が入って、患者さんのまぶたがゆっくり重くなる。
その瞬間、俺はスコープを握った。
指が、勝手に形を作る。
右手の支点。左手のダイヤル。送気の感覚。
久しぶりに触るのに、忘れていない。
――思い出すんじゃない。体が覚えてる。
「いきます」
緊急の大腸カメラをするのは、正直、条件が悪い。
前処置は不十分。腸管内には液体が多い。
何より、血で視野が奪われる。暗い赤と黒が画面の中で揺れる。
それでも進める。
まずは奥まで行く。
どこで出ているのかを探すより、まずは最短で盲腸まで。引き返しながら見つける。
俺は送気を最小限にして、スコープを滑らせた。
「先生、血の量…結構です」
一ノ瀬さんの声が落ちる。
「うん。右だな」
根拠は、画面の汚れ方。
左側の便の感じじゃない。右側に血が溜まっている、あの感じ。
曲がる。ループする。腸が抵抗する。
条件が悪いと、腸は素直じゃない。
でも――手が、勝手に逃がす。
腹壁越しの感覚が戻ってくる。
“いまここで押すと痛い”
“ここは一回引いて、角度を変える”
頭で考える前に、体が動く。
「先生、これ…久しぶりなのに」
一ノ瀬さんの声が、ほんの少しだけ驚いている。
「久しぶりだからだよ」
口から出た言葉が自分でもよく分からない。
でも、久しぶりだからこそ、手が醒めることがある。
ようやく盲腸近くまで来た。
画面の端に、憩室がいくつも並んでいる。穴、穴、穴。
この病院で、よく見るタイプの大腸だ。年齢と一緒に増える。
「ここから戻しながら探す」
「はい。洗浄、増やします」
一ノ瀬さんが、洗浄のポンプを調整した。
その動きが、早い。迷いがない。俺が言う前に準備が整っている。
――息が合うって、こういうことか。
戻りながら、血の溜まり方が変わっていく。
あるポイントから急に、血が“新しい”感じになる。
暗い赤じゃない。
明るい赤が、じわっと滲む。
「…ここだ」
俺が小さく言うと、一ノ瀬さんがもうトレーに手を伸ばしていた。
「クリップ、いけます」
「お願いします」
クリップのカテーテルが渡される。
先端が画面に映る。視野が悪い。血が流れてくる。
「先生、吸引、強めます」
「助かる」
吸引で血を引き、洗浄で視野を作る。
視野が一秒だけ開く。憩室の口。そこからじわっと赤が出る。
「そこ」
視野が“止まる”。
俺は迷わずクリップを憩室の縁を噛ませた。
カチッ。
金属の音が、やけに気持ちいい。
うまくいったのが感覚的にわかる。
でも、まだ滲む。
「もう一本」
「はい、次」
一ノ瀬さんが次のクリップをすぐに準備する。
俺は位置を微調整して、今度はもう少し憩室を巻き込むように噛ませる。
カチッ。
画面が静かになる。
赤い滲みが、止まる。
動いていたものが止まった時の静けさが、内視鏡室にはある。
俺は一拍、息を止めていたのに気づいた。
「……止まった」
声に出してしまった。
誰に言ったのか分からない。自分に言ったのかもしれない。
一ノ瀬さんが、小さく頷いた。
「止まりました」
言い切る声が、やけに落ち着いている。
この人は、止まる瞬間を何度も見てきたんだろう。看護師として。
俺は少しだけ観察を続けた。
再出血がない。視野が保たれる。
よし。
「終わります。」
「はい」
スコープを抜きながら、俺の手はまだ熱かった。
汗が手袋の中でじわっと広がる。指先が、久しぶりに仕事をした感じがする。
患者さんの顔を見る。
眠っている。呼吸は保たれている。
「いけた」
師長が小さく言った。
俺は頷く。
「輸血は続けます。バイタル、注意」
「了解。病棟に戻します」
段取りが一気に日常へ戻っていく。
それが病院の強さだ。
◇
病棟へ戻る廊下で、一ノ瀬さんが俺の横を歩いた。
歩幅が一定。姿勢も崩れない。
でも、今日は少しだけ早い。終わった後の、あの“気が急いてる”早さだ。
「先生」
「はい」
「……さっきの、きれいでした」
突然の褒め言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
「きれい、って」
「手が、迷ってない」
看護師の褒め方だ。手順への評価。
俺は、照れ隠しみたいに言った。
「面倒だったので」
一ノ瀬さんの口角が、ほんの少しだけ上がった。
「それ、そんな万能な言葉じゃないです」
「意外と万能なんです。」
「でも、助かりました」
“助かりました”の言い方が、病棟の声じゃなかった。
ほんの少しだけ、外の声だった。
患者さんはその後、急激に落ち着いた。鮮血便は止まり、脈もゆっくりになる。
輸血を続けながら、モニターの数字が現実的になっていく。
俺はようやく、背中の力を抜いた。
◇
その夜。
職員通用口の外の自販機の白い光の下に、一ノ瀬さんがいた。
今日に限って「待っています感」が消しきれていない。少しだけ、落ち着かない立ち方。
「先生」
「お疲れさまでした」
一ノ瀬さんは缶を二本、無言で取り出した。
ココア。いつもの通貨。
「今日は」
一ノ瀬さんが言う。
「今日の面倒は、大きかったですね」
「大きかった」
俺が頷くと、一ノ瀬さんは淡々と続けた。
「逆に、口止め料、もらわないといけませんね」
俺は思わず笑った。
「相場、どこまで上がるんですか」
「上限はあります」
「上限あるんだ」
「先生が破産すると、面倒が増えるので」
理屈が妙に正しい。
俺は缶を受け取って、プルタブを開けた。
甘い匂いが、今日だけやけに救いに見える。
「……助かりました」
俺が言うと、一ノ瀬さんは一拍置いて答えた。
「看護師なので」
それだけ。
でも、たぶんそれだけじゃない。
「匂い、って言ってましたよね」
言った瞬間、俺は少し後悔した。
根拠にできない領域に触れるのは危ない。
一ノ瀬さんは、視線を外して、缶を一口飲んでから言った。
「先生、記録には書かないでください」
「書かない」
「じゃあ、これで終わりです」
終わり。線引き。
それがこの人の“続け方”なんだろう。
俺は頷いた。
「採血とCTがあったから、止血できた。手順で詰めた。今日はそれでいい」
一ノ瀬さんが、小さく頷いた。
「はい」
その「はい」が、いつもの完璧な「はい」より少しだけ柔らかい。
俺はココアをもう一口飲んで、ふと考えた。
今日みたいな夜を、俺は昔も知っている。
緊急内視鏡のあとの、あの静けさ。
でも、昔の俺はこういう夜に――
手じゃなくて、言葉で間違えたことがある。
その記憶が、ココアの甘さの奥で、嫌に鮮明になり始めていた。




