03 匂いの警報
「採血、お願いします」
俺が言うと、一ノ瀬さんは一拍も置かずに頷いた。
「はい」
その「はい」が、やけに頼もしいのに、同時に怖かった。
彼女が真剣なときは、だいたい当たる。
病室に入ると、患者さんはベッドの上で上体を少し起こしていた。顔色は昨日と変わらないように見える。でも、目が少し疲れている。
「先生、またお騒がせ?」
「騒がせたくはないんですけどね」
笑って返しながら、俺は腹を決める。
さっきまでの「鉄剤でしょう」は、棚に上げる。これは一回、ゼロから見直す。
「気分悪くないですか。ふらつき、息切れ」
「ふらつきは……ちょっと。息は、前から」
「お腹は痛い?」
「痛くない。出る時も、痛くない」
痛くない出血。
憩室出血が、頭の中で音を立てた。
一ノ瀬さんが採血の準備を整える。手袋、駆血帯、アルコール綿。
動きに無駄がない。仕事の時の彼女は本当に“完璧な看護師”だ。
「すみません、ちくっとします」
「はいはい、どうぞ」
患者さんは慣れた顔で腕を差し出す。
針が入る。血が引ける。採血管が満たされる。
俺はその様子を見ながら、ふと考えた。
一ノ瀬さんは、血を“吸う側”じゃなくて、血を“取る側”としてここにいる。
その事実が、今日やけに重い。
採血が終わると、一ノ瀬さんが小さな声で言った。
「先生」
「はい」
「……便、見ました?」
「まだ。見せて」
言った瞬間に自分で思う。医者の会話としては最悪だ。
でも、こういう時に“見ない”はもっと最悪だ。
処理済みの便器の中に残った色だけを確認する。
黒い。だけど、昨日の鉄剤の黒さとは違う。真っ黒というより、黒に赤が混じったような、濁った暗さ。
そして、確かに匂いが違う。
俺は無言で頷いて、患者さんに言った。
「今日から絶食にします。点滴で補います。採血の結果が出たら、追加の検査もします」
「絶食はつらいねえ」
「つらいのは全人類つらいです」
昨日に引き続き、全人類を巻き込んだ。
患者さんが少し笑ったので、よしとする。
病室を出て、ナースステーションでカルテを開いた。
記録に「匂いが違う」をどう書くかで、指が止まる。
便臭。性状変化。鉄剤便とは異なる。
医学的には書ける。書けるけど、書きすぎると余計が増える。
俺は最小限にした。
「黒色水様便、性状変化あり。貧血進行の有無評価」
それで十分だ。
◇
結果が出たのは、思ったより早かった。
病棟の検査室は、小回りだけは利く。
PHSが鳴る。
「高槻です」
「先生、401の採血結果出ました」
師長の声は落ち着いている。落ち着いているのに、数字だけが刺す。
「Hb、落ちてます。前回より……1以上」
一ノ瀬さんの「におい」が、数字になった。
俺は深呼吸を一回だけして言った。
「ありがとうございます。すぐ行きます。あと、輸血のオーダー入れます。血液型確認と交差」
「了解。準備します」
電話を切って、俺は自分に腹が立った。
鉄剤の一件で、油断した。
油断の代償は、いつも患者が払う。
病室に戻ると、患者さんは少し眠そうに目を閉じていた。
声をかける。
「採血の結果、貧血が進んでます。出血している可能性が高いです」
患者さんは目を開けて、案外冷静に言った。
「やっぱり、出てるのね」
「出てます。多分」
“多分”と言った瞬間、一ノ瀬さんの目が一瞬だけ動いた。
言い切れ、という目じゃない。
手順にしろ、という目だ。
俺は続けた。
「原因を探します。入院の時、CTを撮ってないですよね」
患者さんが首を傾げる。
「撮ってないと思う。ガーってやるやつ?」
「そうです。今から造影CTを撮りましょう」
病棟を出て、放射線科に電話を入れる。
この病院で造影CTを“今から”と言うと、だいたい人が一人動員される。
「先生、今からですか」
電話口の技師さんが笑い混じりに言う。
「今からです。面倒を減らしたいので」
「先生、最近その言い方、病院に感染してますよ」
「感染してほしいです。お願いします」
「了解です。準備します」
電話を切って、俺は一ノ瀬さんを見る。
「輸血の準備、お願いできますか」
一ノ瀬さんは頷いた。
「はい。どのくらい」
「まず2単位。状況次第で追加。患者さんのバイタル見ながら」
「了解です」
師長も周囲に指示を飛ばし始める。
病棟の空気が一段だけ引き締まる。この緊張感は久しぶりだった。
俺はCT室へ患者さんを送り、画面をのぞき込んだ。
造影が回る。
腹部全体の輪郭が浮き上がってくる。
大腸憩室が多い。
特に右側。深いところ。
腸管内に液体の貯留が目立つ。
「……憩室出血」
口に出した瞬間、胸の奥で何かがカチッと音を立てた。
これは俺の領域だ。
久しく触れていなかったのに、体が勝手に知っている。
病棟へ戻りながら、段取りを頭の中で並べる。
モニター。ルート。輸血。内視鏡室。止血具。
そして、最悪、止まらなければIVR(血管塞栓)や転院。
この病院では、どこまでできる。
できることを、最短でやる。余計を増やさずに。
◇
病棟に戻った瞬間、PHSが鳴った。
嫌な鳴り方だった。
短く、切羽詰まった音。
「高槻です」
「先生、401の方!」
若い看護師の声が上ずっている。
「今度は……鮮血便です。けっこう量が……」
あぁ、と心の中で悪態が出る。
鉄剤じゃない。
やっぱり本物だった。
病室へ走ると、一ノ瀬さんが既にそこにいた。
患者さんの顔色が、さっきより白い。脈が速い。
一ノ瀬さんが、こちらを見て小さく頷く。
言葉はない。
でも、はっきり伝わる。
今、やるべきだ。
俺は短く言った。
「緊急で大腸内視鏡、準備しましょう。輸血つないで、内視鏡室へ」
師長が即座に返す。
「了解。内視鏡室、開ける。物品も集める」
一ノ瀬さんはもう動き始めていた。
「輸血、すぐつなぎます。ルート、太いの取ります」
「お願いします」
看護師たちが一斉に動く。
病棟が“救急”になる瞬間の速さ。こういう時だけ、人間は迷わない。
患者さんが、弱い声で言った。
「先生、私、大丈夫?」
俺は、できるだけ落ち着いた声を作った。
「大丈夫にします。今、止めに行きます」
言い切った瞬間、俺は思った。
ここが久しぶりに、俺の居場所だ。
消化器内科医としての俺が、眠った手を起こす場所だ。
内視鏡室のドアが開く音がした。
静かな部屋が、戦場の準備を始める音。
俺は手袋を取って、袖をまくった。




