02 黒い便騒動
救急外来から上がってきた76歳の女性は、思っていたより元気そうだった。
ストレッチャーの上で、手提げ袋をしっかり抱えている。
「入院」と言われているのに、帰る気満々の雰囲気だ。
「高槻です。息切れと動悸で来られたって聞きました」
「はい、先生。最近、階段がねえ……胸がどきどきして」
しゃべれている。意識も清明。血圧も保たれている。
でも採血の紙を見ると、Hbが低い。数字は嘘をつかない。
「貧血ですね。原因を調べましょう。まずは今日、入院で」
「あら、入院……。お隣さんに洗濯物頼まないと」
こういう人は、案外強い。
強いけど、強い人ほど突然倒れる。
俺は淡々とオーダーを入れた。採血、心電図、便潜血。必要なら輸血の準備も頭の隅に置く。
久しぶりに「消化器の引き出し」が開く感覚があった。
病棟へ搬送される途中、PHSが鳴った。
「高槻です」
「先生、401の入院受け、こちらで入れますか?」
師長の声。段取りの声。
「入れます。あと、便の性状は注意して見てください。黒い便とか、赤い便とか」
言ってから、自分が“それっぽい医者”の声を出していることに気づく。
最近、肺炎と尿路感染ばかりだったのに。口が勝手に専門っぽくなる。
「了解。看護師には共有しておく」
「お願いします」
電話を切って、俺はふと思った。
こういう電話、嫌いじゃない。
◇
入院初日と二日目は、静かだった。
貧血の数値は急に落ちない。バイタルも安定。
本人は「入院って暇ねえ」と言いながら、病院食を半分くらい食べて、テレビを見ている。
俺も「じゃあ、外来の薬の確認しましょうね」と言いながら、薬歴をさらっと聞いた。
聞いた、つもりだった。
三日目の朝、病棟からPHSが鳴った。
「高槻です」
少し間があって、若い看護師の声が上ずって聞こえた。
「先生、401の方、便が黒いです。真っ黒で……」
黒い便。
その言葉だけで、頭の中の手順が勝手に並び始める。
上部消化管出血。胃潰瘍。十二指腸潰瘍。
「念のため」の胃カメラ。
輸血はまだ要らないか、でもHbは……。
俺は声を落ち着かせて言った。
「バイタルどうですか。血圧、脈、意識」
「血圧は保ててます。脈は少し速いです。意識はしっかりしています」
「了解。絶食にして、採血をもう一回。あと、便の写真は要りません。性状だけで」
「はい」
便の写真は要らない。
要らないけど、なぜか撮ってくる人がいる。病院はそういう場所だ。
俺は病室に行って、患者さんに説明した。
「便が黒いので、胃や十二指腸から出血している可能性があります。念のため、胃カメラをしましょう」
患者さんは眉をひそめた。
「カメラって、あの管?」
「そうです。苦しいのが嫌なら、鎮静も使えます」
「先生、苦しいのは嫌」
「苦しいのは、全人類嫌です」
思わず出た自分の言い方に、患者さんが笑った。
こういう笑いは、案外大事だ。
◇
内視鏡室。
この病院の内視鏡室は、やけに静かだ。
「定期の検査」をやっていない分、部屋がいつも空いている。
静かすぎて、こちらの気持ちだけが勝手に騒がしくなる。
スコープを持つと、手が勝手に位置を思い出す。
アングル、力加減、送気の量。
道具が「まだ覚えてる」と言ってくる。
俺は画面を見ながら、淡々と進めた。
食道。胃。十二指腸。
潰瘍なし。出血点なし。明らかな血液貯留なし。
……きれいだ。
きれいなのは良いことのはずなのに、なぜか肩透かしを食らった気分になる。
自分の頭の中だけ、勝手に戦闘態勢になっていたからだ。
内視鏡を抜いて、俺は息を吐いた。
「出血源は、ありませんでした」
看護師が「よかったですね」と言う。
よかった、はずだ。
病室に戻り、患者さんが覚醒するのを待って、説明をした。
「胃からの出血はなさそうです。貧血の原因は、別のところかもしれません。大腸の検査も視野に入れます」
患者さんは眠そうに頷いた。
「先生、じゃあ私、うんちは黒くないの?」
「黒い便は……」
そこで俺は止まった。
“黒い便”の原因は出血だけじゃない。薬剤でも黒くなる。
「飲んでる薬、もう一回確認します。鉄剤とか、飲んでません?」
患者さんが首を傾げた。
「鉄?」
横にいた若い看護師が、手提げ袋の中を探って言った。
「あ、これ……近くの病院でもらってたみたいです。フェロ…なんとか」
鉄剤。
俺は一瞬、無言になった。
こういうとき、医者は無言になる。
「……鉄剤だと、便は黒くなります」
若い看護師が目を丸くした。
「え。じゃあ、出血じゃなくて」
「出血じゃない可能性が高いです」
患者さんが、布団の中で勝ち誇ったように言った。
「先生、私、胃はきれいだったのね」
「きれいでした」
きれいで良かった。
でも俺の頭の中には、別の言葉が浮かんでいた。
面倒。
胃カメラをしたこと自体は無駄じゃない。
でも、先に薬を聞いていたら……という種類の面倒が、胸の奥でじわっと増える。
◇
二日後。
退院が見えてきた。
外来での精査の段取り。貧血の原因が完全に分かったわけじゃないけれど、急性の出血は否定的。患者さんも元気だ。
俺はカルテを閉じて、病棟の廊下を歩いていた。
そのとき、病棟からPHSが鳴った。
「高槻です」
今度は、少し落ち着いた声。
でも内容は落ち着いていない。
「先生、401の方、黒色の下痢が出ています。さっきより、においも強くて……」
……また?
俺は反射で言いそうになった。
鉄剤ですよ。大丈夫ですよ。
言いかけて、飲み込んだ。
理由は単純だった。
病室の前に着くと、そこに一ノ瀬さんがいたからだ。
いつもの完璧な顔。
でも今日は、完璧の上に“真剣”が乗っている。
その真剣さを見た瞬間、俺は自分の安易な結論が、喉のところで固まった。
「先生」
一ノ瀬さんが小さな声で言った。
「……多分、前と違います」
俺は、軽口で逃げるのをやめた。
「何が違う」
一ノ瀬さんは、便の処理を終えた手袋のまま、視線だけこちらに向ける。
「においです」
その一言が、病室の空気を変えた。
吸血鬼からの情報は、信頼性が高すぎる。
でもそれを根拠に医療はできない。
――だからこそ。
俺は、検査と手順で確かめるしかない。
「採血、お願いします」
俺がそう言うと、一ノ瀬さんは一拍も置かずに頷いた。
「はい」
その頷き方が、妙にまっすぐで。
俺はなぜか、胃カメラの時より緊張していた。




