01 口止め料、定期便
最近、口止め料が「その場しのぎ」じゃなくなってきた。
当直明けの自販機。病院の裏口。白い光。
そこで一ノ瀬さんが缶を落とす音が、俺の生活の一部になりつつある。
「先生」
「はい」
「今日の口止め料です」
差し出されたのは、缶ココアだった。
この人は、俺を黙らせるのに毎回ちゃんと通貨を用意してくる。真面目すぎる。
「……定期便になってません?」
「定期便です」
即答された。否定する気がない。
「週一で渡してる気がするんですけど」
「週一です」
「それ、口止め料じゃなくて……」
「手順です」
一ノ瀬さんは、缶ココアのプルタブを開けながら淡々と言った。
手順。便利な言葉だ。病院のほとんどは手順でできている。人間関係まで手順にするのは反則だと思う。
俺も缶コーヒーを開けて、苦い液体を飲み込んだ。
夜勤のあとに飲むコーヒーは、眠気を追い払うというより「まだ終わってない」を延長する味がする。
「今日は、面倒少なかったですか」
一ノ瀬さんが聞いてくる。
相場の査定だ。口止め料はインフレもデフレもするらしい。
「少なかった……はずなんですけど」
「はず」
「なんか、こう……病棟って、平和でも疲れるんですよね」
「それは平和じゃないです」
「ですよね」
一ノ瀬さんは小さく頷いて、缶の温度で手を温めるみたいに持った。
看護師って、忙しさを愚痴るより先に手を動かす生き物だと思ってたけど、この人は忙しさを愚痴る代わりに“仕組み化”する。口止め料もその一種なんだろう。
「先生」
「はい」
「今週、何か増えました?」
「……増えたって?」
「先生の面倒です」
さらっと言う。刺さる。
俺の面倒は、たいてい増えている。勝手に増える。誰かが増やす。
「増えました。救急の入院が多い」
「先生、ここの病院、救急って言いながら半分は“生活の限界”ですよね」
言い方が的確すぎる。
「そう。肺炎と尿路感染と、転倒と……」
「先生が消化器内科医だったことが忘れられそうですね」
その言葉が、妙に痛かった。
忘れられそう、というより、忘れたふりをしていたのかもしれない。
俺が返事に迷っていると、一ノ瀬さんが缶を軽く揺らした。
「……でも、今日はこの相場です」
そう言って、ココアをもう一本、俺に押しつける。
「え」
「先生、さっき、目が一瞬だけ死にました」
「……死んでないです」
「死にました。なので増額です」
増額が雑だ。
でも、こういう雑さがあるから続いているんだと思う。続いてしまっている。
俺は二本目の缶を受け取って、ため息をついた。
「ありがとうございます。口止め料で生活が潤ってる」
「潤ってないです。栄養です」
「ココアは栄養」
「夜勤明けの通貨は栄養です」
その言い方が、もう定番になってきた。
自販機の横で、五分くらいの会話をして、それぞれ帰る。
それが続くうちに、俺は気づき始めていた。
この五分は、秘密のためじゃない。
多分、明日も病棟に立つための、呼吸だ。
◇
翌日、病棟はいつも通りに白かった。
蛍光灯の白、シーツの白、紙の白。
白の中を看護師たちが滑るように動いていく。俺はその後ろを遅れて歩く。医者は、いつも遅れる。
ナースステーションの端で、少し騒ぎが起きていた。
「え、また出ない」
「電池?」
覗くと、若い看護師が電子体温計を握って困っていた。
その前に立っているのが、一ノ瀬さんだった。
「一ノ瀬さん、すみません、体温測れなくて……」
若い看護師は本気で焦っている。焦るのも分かる。バイタルが取れないと、仕事が止まる。
一ノ瀬さんは、焦っていなかった。焦る代わりに、体温計を受け取って、淡々と操作している。
「電源は入ってます。エラーです」
「え、なんで……」
若い看護師の声が上ずる。
俺は、少し迷ってから声をかけた。
「どうしました」
若い看護師が救われた顔で振り向く。
「先生、体温計が……一ノ瀬さんだけ測れないんです」
一ノ瀬さんがこちらを見た。
完璧な職場の顔のまま、目だけで言う。
余計なことは言わないでください。
分かってる。病棟では、余計な言葉は噂になる。噂は面倒になる。
俺は体温計を手に取って、画面を見る。たしかにエラー表示。
「機械の相性、あります」
俺は医者っぽい嘘をついた。嘘というより、言い方の選択だ。
相性と言っておけば、原因を掘られにくい。
「……相性?」
若い看護師が首を傾げる。
「末梢循環がいい人と悪い人でも違うし、皮膚温でもズレる。別の体温計で測りましょう」
一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ目を細めた。
“うまいこと言った”の表情ではない。
“余計を増やさないで済んだ”の表情だ。
別の体温計で測ると、普通に測れた。
若い看護師が、あからさまにホッとして言った。
「よかった……」
「よかったですね」
俺はそれだけ言って、カルテに視線を戻した。
若い看護師が去ったあと、一ノ瀬さんが小さな声で言った。
「先生」
「はい」
「……相性って便利ですね」
「便利です。病棟では便利な言葉しか勝ちません」
一ノ瀬さんが、少しだけ口角を上げた。
「先生のそういうところ、面倒だけど助かります」
「褒めてます?」
「評価です」
評価。口止め料と同じ匂いがする。
俺は白衣のポケットを探って、つい昨日もらった缶ココアの一本を思い出した。
病棟でココアを渡すわけにはいかない。これは病棟の外の通貨だ。
「……体温、低いんですか」
口に出してから、危ない質問だと気づく。
余計なことを言ったかもしれない。
一ノ瀬さんは、驚くほどあっさり答えた。
「低めです」
それだけ。説明はしない。
けれど否定もしない。
「低めだと、測定に引っかかることもありますね」
「あります」
短い会話。短い方が安全だ。
一ノ瀬さんは、いつもの完璧な声に戻った。
「先生、401、採血の指示確認お願いします」
現場は現場に戻る。
それができる人が、この病棟を回している。
◇
午前の回診が終わりかけた頃、PHSが鳴った。
番号は救急外来。
「高槻です」
「救外です。76歳女性、息切れと動悸で受診です。採血でHbが低くて、貧血ですね。入院で精査したいんですけど……消化器で受けてもらえますか」
消化器。
その言葉が、胸の奥のどこかを叩いた。
俺は反射で「また面倒が増えた」と思いかけて、止めた。
これは、面倒の種類が違う。
「分かりました。入院で受けます。バイタルは安定してます?」
「今は安定してます。心電図は大きな異常なし。便潜血はまだです」
「了解です。こちらで確認します」
通話を切った瞬間、俺の頭が勝手に回り始めた。
消化管出血? 鉄欠乏? 慢性貧血? 大腸癌?
久しく使っていなかった引き出しが、音を立てて開く。
医局の本流から外れて、肺炎と尿路感染の毎日に埋もれて。
それでも、俺の体はまだ消化器の手順を覚えているらしい。
ナースステーションへ戻ると、一ノ瀬さんがこちらを見た。
「先生、救外ですか」
「はい。貧血の精査で入院が来る」
一ノ瀬さんは小さく頷いた。
「面倒、増えますね」
「増えます」
言いながら、俺は気づく。
今の“増える”は、嫌じゃない。
一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、今日の口止め料、相場が上がりそうですね」
「まだ早いです」
「先生、さっき目が少し生きました」
「……観察が鋭いですね」
「看護師なので」
それだけ言って、一ノ瀬さんはいつもの完璧な足取りで病棟の奥へ消えていった。
俺はカルテを開きながら、救外から来る76歳の女性の名前を確認する。
出会いは、だいたい面倒から始まる。
でも面倒の中には、ときどき“戻ってくるもの”が混じっている。
消化器内科医としての俺が、どこまで戻れるのか。
その答えが、病棟の白い廊下の先に転がっている気がした。




