20 済の押印
追加日程の朝は、普通に来た。
「来週の午前」と掲示板に貼られていた紙の通りに、病棟はいつも通りに回り、健診会場の会議室もいつも通りに設営される。人間社会は、締切と予定で動く。吸血鬼が混ざっても、予定表の方が強い。
俺は回診メモを片手に、ナースステーションの横を通りかかった。
一ノ瀬さんがいた。
完璧な姿勢。完璧な表情。完璧な声で新人に言っている。
「手指消毒、指先まで。面倒だから」
……面倒、感染が広がっている。もう病棟の空気に混じってる。
新人が真面目に頷いて、「はい」と言う。言葉だけ聞くと優しくないのに、守っている方向にしか使われていない。便利な感染だ。
一ノ瀬さんの視線が一瞬だけ俺に来た。
何も言わない。
でも目が言っている。
今日は来る、って。
◇
健診会場へ行く前に、医局の席でPHSを確認した。
不在着信。外線。番号は見覚えがある。
結城千景。
俺は廊下の角に寄って、折り返した。
「高槻です」
「結城です」
困っていない声。朝でも同じ。
「書類、整いました。先生に渡します」
「今から?」
「今から。職員通用口の外、自販機のところ」
自販機。もう待ち合わせ場所として固定されてしまった。病院のロマンスは、だいたい自販機の光で始まる。格好良くはない。
「了解です」
◇
職員通用口の外、自販機の白い光の下に、結城がいた。
いつも通りの黒っぽいコート。いつも通り困っていない顔。いつも通り無駄のない動き。
「おはようございます、高槻先生」
「おはようございます」
結城は封筒を一つ差し出した。厚い。紙が多い。嫌な予感しかしない。
「これが代替手続きです。本人の健診は“受診済”で処理されます。採血は不要」
「そんなに簡単に?」
「簡単にするのが私の仕事です」
結城は淡々と言った。
「産業医ルートで通しています。会場の担当者には、先生から“これで”と言って渡してください。説明はいりません」
「説明を求められたら?」
結城は即答した。
「個人情報なので、で終わります」
強い。便利。病院で最強の呪文だ。
俺は封筒を受け取った。紙の角が硬い。硬さは、制度の硬さだ。
「一ノ瀬さんには?」
「本人には“今日は採血なし”とだけ伝えてあります」
結城が視線を少し落とす。
「ただし、本人はたぶん会場に行こうとします」
「行きますね。あの人」
「ええ。真面目なので」
結城の「真面目」は、褒め言葉じゃない。仕様の説明だ。
「先生、止めてください」
「どうやって」
結城は一拍置いて言った。
「先生の得意な言い方で」
面倒だから、というやつだ。
結城は最後に付け足す。
「それと、手洗い動画、拝見しました」
「見たんですか」
「回ってきます。人間社会は回ります」
回る、という言い方が嫌に現実的だった。
「先生の手は、炎上しにくい」
「そこ?」
「そこです」
結城は踵を返した。
「では。余計を増やさず、済ませてください」
済ませてください。
今日のテーマが、もう言葉で来た。
◇
会議室の前は、いつも通りの列だった。
追加日程だから人は少ないはずなのに、少ない分だけ“空白を埋めたい圧”が濃い。健診担当者の顔に「今日で終わらせたい」が書いてある。
俺は会場の端にいる担当者を見つけて、近づいた。
「すみません。健診の件で」
担当者は俺の顔を見るなり、反射で姿勢を正した。
「高槻先生、ありがとうございます。採血、今日こそ…」
「その前に」
俺は封筒を差し出した。
「これで」
担当者が封筒を受け取って、目を泳がせる。
「え……これは……」
封筒の表に、やたら長いタイトルが印字されている。
「健康診断代替実施証明書(機密扱い)」
括弧の中の“機密扱い”が強い。強すぎる。
担当者が、半分だけ怯えた声で言う。
「機密……? え、どなたの……?」
俺は一切迷わず言った。
「個人情報なので」
病院の呪文。これでだいたい閉じる。
担当者は、閉じた。開ける気配が消えた。
「……分かりました」
そして、なぜか小声で付け足す。
「こういうの、ありますよね…」
あるんだ。病院はだいたい、いろんな“こういうの”がある。
担当者は封筒の中身を確認した。紙を数枚だけめくる。読むというより、必要なハンコの位置を探している動き。
「……はい。ええと、受診済で処理します。採血、なし」
「お願いします」
担当者は、受診状況表の該当欄に、迷いなくスタンプを押した。
済。
ハンコの音が、やけに大きく聞こえた。
◇
その瞬間、会議室の入口から一ノ瀬さんが入ってきた。
来た。やっぱり来た。真面目だから。
制服の上にカーディガン。髪は整っている。表情も整っている。完璧なまま、列の横を通ってこちらへ向かってくる。
目だけが、少しだけ硬い。
「高槻先生」
「一ノ瀬さん」
ここで余計な会話はできない。会議室は耳が多い。
俺は声を落とした。
「採血、なしです」
一ノ瀬さんが一拍止まった。
「……え」
「受診済で処理されました。終わり」
終わり、と言い切ると、現場の空気は案外動く。
一ノ瀬さんは周囲を見た。列。スタッフ。書類。ハンコ。空気の圧。
それから、こちらを見て小さく言う。
「本当に?」
俺は盾を出した。
「面倒だから、もう終わりです」
一ノ瀬さんの口角が、ほんの少しだけ上がった。
「……面倒、万能ですね」
「万能です」
「吸血鬼の弱点、十字架じゃなくて“面倒”かもしれません」
「それは全人類の弱点です」
一ノ瀬さんが、笑いそうになって堪えた顔をした。会議室だから。今は笑うと目立つ。
「じゃあ、戻ります」
「病棟をお願いします」
「はい」
一ノ瀬さんは踵を返して会議室を出た。歩幅は崩れない。完璧に帰っていった。
でも、背中がほんの少しだけ軽い。
◇
病棟に戻ると、日常が待っていた。
PHSが鳴る。抗菌薬の確認。家族説明。転院の連絡。いつもの詰め合わせ。
ただ、今日は一つだけ違った。
一ノ瀬さんが、ナースステーションの端でココアを飲んでいる。
職場で飲むココアは珍しい。
俺が通りかかると、一ノ瀬さんが小声で言った。
「先生」
「はい」
「済、でした」
「済です」
「……済、って、すごいですね」
急に何を言うのかと思った。
「何が」
一ノ瀬さんは真顔で言う。
「済って書かれた瞬間、世界が私を放してくれる」
それは冗談みたいで、冗談じゃない。
俺は余計な励ましはしない。その代わり、同じ言葉で返した。
「面倒が減るからです」
一ノ瀬さんが頷く。
「面倒が減りました」
それを言えたのが、今日の成果だと思った。完璧な人が「減った」と言えるのは大きい。
◇
昼休憩、医局に戻ると机の上にメモが置かれていた。
事務長の字だ。
「手洗い動画、好評。先生の手、きれい。次は“食事の工夫”で」
好評。
手がきれい。
食事の工夫。
現場の感染対策を上げたいのか、料理番組を始めたいのか分からない。
俺はメモを裏返して、深呼吸した。
この病院のSNS担当は、現場を救う代わりに医師の精神を削る。
◇
終業後。
職員通用口の外、自販機の光。
今日三回目。俺の人生は自販機に支配されつつある。
一ノ瀬さんが先に立っていた。今日は「待っています感」を消しきれていない。少しだけ落ち着かない立ち方。
「先生」
「どうしました」
一ノ瀬さんは少し迷ってから言った。
「今日は…口止め料、増額でいいですか」
「何の」
「済の分です」
済の分。言い方が、妙におかしくて笑いそうになる。
俺はあえて真顔で言った。
「通貨はココアでしたっけ」
「はい。夜勤明けの通貨です」
「じゃあ、ココアで」
一ノ瀬さんが小さく笑った。
「先生、安いですね」
「面倒が減ったから安いです」
「面倒が減ると、割引」
「割引です」
二人で自販機の前に立って、結局、缶ココアと缶コーヒーを買った。
病院の外で飲むそれは、ファミレスよりさらに質素だ。質素なのに、今日の気分にはちょうどいい。
一ノ瀬さんがココアを一口飲んで、ぽつりと言った。
「先生」
「はい」
「今日の“済”、どうやったんですか」
ここは病院の外。五分なら話せる。
俺は、結城の名前を出すか迷って、最小限だけ出した。
「結城さんが、書類を通しました」
一ノ瀬さんが頷く。
「やっぱり」
「でも」
俺は続けた。
「一ノ瀬さんが会場に行ったのが一番危なかったです」
一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……行かないと、もっと目立つ気がして」
「真面目」
俺が言うと、一ノ瀬さんは真顔で返す。
「先生に言われたくないです。先生も真面目です」
「俺は面倒が嫌いなだけです」
「面倒が嫌いな人が真面目なんですよ」
逆に、と思った。逆にが大事な世界。
一ノ瀬さんはココアをもう一口飲んで、急に言った。
「先生、吸血鬼って健康診断の問診票、何て書くと思います?」
「何て」
一ノ瀬さんは淡々と答えた。
「『既往歴:中世』」
俺は噴きそうになって、危うくコーヒーを喉に引っかけた。
「中世は既往歴じゃない」
「でも体質、だいたい中世です」
「睡眠は十分ですか、の欄は」
一ノ瀬さんが真顔で言う。
「『日光の都合で昼は無理』」
「それは働き方改革案件」
「日光ハラスメントです」
日光ハラスメント。くだらないのに妙に腹落ちする。
俺が言った。
「飲酒は」
「『血:週3』」
「それ絶対突っ込まれる」
一ノ瀬さんは頷いた。
「突っ込まれます。だから人間社会は面倒です」
結論がいつも面倒に戻る。戻ってくるのに、今日は不思議と重くない。
一ノ瀬さんが、少しだけ真面目な声になった。
「先生、今日は…ありがとうございました」
「面倒だったので」
俺はいつもの盾を出した。
一ノ瀬さんは、少し笑って頷いた。
「面倒、好きです」
「好きじゃないです」
「好きじゃないけど、頼りになります」
その言い方が、ちょうどいい距離だった。近すぎない。遠すぎない。病棟の外で、ギリギリ言える言葉。
俺たちは缶を飲み干して、それぞれの方向へ歩き出した。
病棟の日常は続く。
吸血鬼の看護師の生活も続く。
俺の灰色の毎日も続く。
ただ今日からは、「済」という二文字が、少しだけ優しい意味を持ち始めた気がした。




