02 夜間の備品確認
一ノ瀬紗夜の歩く速さは、忙しい人のそれじゃなかった。早足ではない。迷いがないだけで、結果的に速い。
ナースステーションの横を抜けて、裏の通路に入る。夜の病棟は、音が少ないぶん気配が濃い。遠くで点滴のポンプが鳴って、誰かが「はい」と短く返事をして、また静かになる。
「どの備品ですか」
俺が聞くと、一ノ瀬さんは振り返らずに答えた。
「クラッシュカートと、夜間救急セット。あと酸素ボンベの残量。…本当は私一人でもいいんですけど」
「じゃあ、なんで俺を」
「暇そうだったので」
淡々。刺さる。反論する気力が湧かないのが、さらに刺さる。
裏の倉庫前で一ノ瀬さんが立ち止まり、鍵を開けた。扉が開くと、金属とプラスチックと紙の匂いが押し寄せてくる。さっきの場所だ。赤いパックの光景が一瞬よぎる。
一ノ瀬さんは俺にクリップボードとペンを渡した。チェックリストが挟んである。字がきれいで、項目が多い。夜勤の仕事って、こういう“見えないところ”が重い。
「先生、読み上げてもらえます? 私、手を動かすので」
俺は一つ深呼吸して、淡々と読み上げる側に回った。
「封印、未破損。期限、今月末。バッグバルブマスク……小児用もある」
「あります」
「喉頭鏡、点灯確認」
一ノ瀬さんが慣れた手つきでライトを点け、消して、電池の残量を確認する。動作が速いのに、雑じゃない。夜の倉庫の冷たい光の下でも、その丁寧さは崩れなかった。仕事場の彼女は、やっぱり完璧だった。
「吸引器」
「動きます」
「アドレナリン、期限……」
「大丈夫です」
返事が短い。会話は業務しか通さない、と決めているみたいに。
俺は読み上げながら、頭の片隅で別のことを数えていた。さっきの赤いパックが、どこから来たのか。何なのか。彼女がそれを飲む理由。いや、“飲む”という言葉自体が、俺の脳に引っかかっている。
「先生」
一ノ瀬さんが唐突に言った。
「はい」
「先生、今、変な顔してます」
「……してません」
「してます」
断定が強い。医師のプライドに地味にくる。
「今は仕事の顔に戻してください。チェック間違えると面倒なので」
面倒なので、が俺のさっきの言い方と同じだった。わざとか。偶然か。どちらでも嫌に効く。
「分かりました」
俺はチェックリストに集中するふりをした。ふりをする必要がある時点で、集中できていない。
確認が一通り終わると、一ノ瀬さんは次の棚に移った。夜間救急セット。点滴ルート、注射針、シリンジ、アルコール綿、固定テープ。細い針の箱が整然と並んでいる。
一ノ瀬さんの視線が、針に一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。でも、夜の倉庫でそれは目立つ。
「……針、好きなんですか」
言ってから後悔した。雑談は彼女の結界を壊す。壊せば壊したで、俺も無傷ではいられない。
一ノ瀬さんは箱の位置を直しながら、さらっと返した。
「好きじゃないです。得意なだけです」
「看護師っぽい答えですね」
「看護師なので」
会話が、短いのに妙に噛み合う。面白い、という感覚が頭を出しかけて、俺は押し戻した。面白がっていい状況じゃない。
チェックが終盤に差しかかったころ、一ノ瀬さんが段ボールを動かした拍子に、指先を紙で切った。
ほんの小さな傷。赤い線が一つ。
看護師なら日常の出来事だ。俺も臨床をやっていれば、それくらいで大騒ぎしない。
でも一ノ瀬さんは、動きを止めた。
止めたのは一拍だけ。なのに、その一拍に“違うもの”が詰まっていた。瞬きが少なくなって、呼吸が浅くなる。傷から滲む赤に視線が吸い寄せられ――それを、無理やり引き剥がすみたいに目を逸らした。
次の動きは異様に速かった。アルコールで拭く。絆創膏。手袋。完全に封じる。
「……大丈夫ですか」
俺が言うと、一ノ瀬さんは手を止めずに答えた。
「大丈夫です」
即答。さっきも聞いた。
それでも俺は、言ってしまった。
「大丈夫そうに見えない」
一ノ瀬さんの手が、ほんのわずか止まった。
倉庫の中で、夜の病棟で、誰にも聞かれない距離で、彼女は小さく息を吐いた。
「先生」
「はい」
「……やさしいこと言うと、変なことになりますよ」
脅しじゃない。忠告だ。境界線の提示。
「やさしいつもりじゃないです。倒れられると、困るだけです」
俺は自分の言い訳を口にしながら、同時に思った。医者が患者に言う言葉みたいだ、と。
一ノ瀬さんは、少しだけ口角を上げた。笑いの形だけ作った顔。
「そういうことにしておきます」
最後の棚を確認し終え、一ノ瀬さんがチェックリストを受け取った。ペンでサインを入れる。字は乱れない。夜に強い人の字だ。
倉庫を出ようとしたとき、一ノ瀬さんがふと立ち止まった。
扉を閉める前に、俺のほうを見る。
「先生」
「はい」
「さっきの、見なかったことにするって言いましたよね」
心臓が少しだけ跳ねた。怒られるのかと思った。あるいは、口止めか。
「言いました」
「じゃあ、ひとつだけ確認します」
一ノ瀬さんの声の温度が、仕事の声から少しだけ外れた。ほんの少し。だけど、その“少し”が怖い。
「先生、ああいうの見ても、すぐ誰かに言ったりしないタイプですか」
俺は答える前に考えた。これは試験だ。人間としての試験じゃない。職場で生き残れるかの試験。
「……言いません。言うメリットがないので」
正直な答えだった。格好いい答えじゃない。けど、嘘でもない。
一ノ瀬さんは、短く頷いた。
「ありがとうございます」
礼を言われると、余計に嫌な予感がする。
扉が閉まる直前、彼女はさらっと言った。
「さっきの赤いの、病院の血じゃないです」
「……知ってます」
「政府の支給です。個人用」
個人用。そんな言葉がこの病院の裏通路で出てくること自体が、現実感を壊すのに十分だった。
俺は喉が乾いた。
「それ、何なんですか。栄養剤?」
一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「補給です」
「何の」
彼女は、困った顔をしなかった。迷った顔もしなかった。決めていた言葉を、そのまま出したみたいに言った。
「……私、吸血鬼なので」
一瞬、俺の脳が現実逃避を試みた。冗談。コスプレ。比喩。何でもいいから、今聞いた言葉の意味を薄めたがった。
でも一ノ瀬紗夜は、冗談を言う顔をしていなかった。
職場の麗人の顔でもない。倉庫で赤いパックに口をつけようとした人の顔だった。
「先生」
彼女が続ける。
「何を言っているんだと思うかもしれませんけど。……私もそう思ってます」
そう言って、一ノ瀬さんは扉の前で会釈した。
「じゃあ、私は戻ります。呼び出しあったらお願いしますね」
まるで、夜間備品の話の続きみたいに。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、ようやく言葉を絞り出した。
「……一ノ瀬さん」
彼女が振り返る。
「はい」
俺は、何を聞けばいいか分からなかった。医学的な質問は山ほどある。倫理も、制度も、感染症も、全部ある。でも一番先に出たのは、どうでもいいみたいで、どうでもよくない言葉だった。
「……それ、いつから?」
一ノ瀬さんは少しだけ考えて、あっさり答えた。
「生まれたときからです」
そして、本当に何もなかったみたいに、病棟の白い廊下へ戻っていった。
取り残されたのは、俺だけだった。
午前四時。眠れるはずがない夜が、さらに眠れない夜になった。




