表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/34

02 夜間の備品確認


 一ノ瀬紗夜の歩く速さは、忙しい人のそれじゃなかった。早足ではない。迷いがないだけで、結果的に速い。


 ナースステーションの横を抜けて、裏の通路に入る。夜の病棟は、音が少ないぶん気配が濃い。遠くで点滴のポンプが鳴って、誰かが「はい」と短く返事をして、また静かになる。


「どの備品ですか」


 俺が聞くと、一ノ瀬さんは振り返らずに答えた。


「クラッシュカートと、夜間救急セット。あと酸素ボンベの残量。…本当は私一人でもいいんですけど」


「じゃあ、なんで俺を」


「暇そうだったので」


 淡々。刺さる。反論する気力が湧かないのが、さらに刺さる。


 裏の倉庫前で一ノ瀬さんが立ち止まり、鍵を開けた。扉が開くと、金属とプラスチックと紙の匂いが押し寄せてくる。さっきの場所だ。赤いパックの光景が一瞬よぎる。


 一ノ瀬さんは俺にクリップボードとペンを渡した。チェックリストが挟んである。字がきれいで、項目が多い。夜勤の仕事って、こういう“見えないところ”が重い。


「先生、読み上げてもらえます? 私、手を動かすので」


 俺は一つ深呼吸して、淡々と読み上げる側に回った。


「封印、未破損。期限、今月末。バッグバルブマスク……小児用もある」


「あります」


「喉頭鏡、点灯確認」


 一ノ瀬さんが慣れた手つきでライトを点け、消して、電池の残量を確認する。動作が速いのに、雑じゃない。夜の倉庫の冷たい光の下でも、その丁寧さは崩れなかった。仕事場の彼女は、やっぱり完璧だった。


「吸引器」


「動きます」


「アドレナリン、期限……」


「大丈夫です」


 返事が短い。会話は業務しか通さない、と決めているみたいに。


 俺は読み上げながら、頭の片隅で別のことを数えていた。さっきの赤いパックが、どこから来たのか。何なのか。彼女がそれを飲む理由。いや、“飲む”という言葉自体が、俺の脳に引っかかっている。


「先生」


 一ノ瀬さんが唐突に言った。


「はい」


「先生、今、変な顔してます」


「……してません」


「してます」


 断定が強い。医師のプライドに地味にくる。


「今は仕事の顔に戻してください。チェック間違えると面倒なので」


 面倒なので、が俺のさっきの言い方と同じだった。わざとか。偶然か。どちらでも嫌に効く。


「分かりました」


 俺はチェックリストに集中するふりをした。ふりをする必要がある時点で、集中できていない。


 確認が一通り終わると、一ノ瀬さんは次の棚に移った。夜間救急セット。点滴ルート、注射針、シリンジ、アルコール綿、固定テープ。細い針の箱が整然と並んでいる。


 一ノ瀬さんの視線が、針に一瞬だけ止まった。


 本当に一瞬だった。でも、夜の倉庫でそれは目立つ。


「……針、好きなんですか」


 言ってから後悔した。雑談は彼女の結界を壊す。壊せば壊したで、俺も無傷ではいられない。


 一ノ瀬さんは箱の位置を直しながら、さらっと返した。


「好きじゃないです。得意なだけです」


「看護師っぽい答えですね」


「看護師なので」


 会話が、短いのに妙に噛み合う。面白い、という感覚が頭を出しかけて、俺は押し戻した。面白がっていい状況じゃない。


 チェックが終盤に差しかかったころ、一ノ瀬さんが段ボールを動かした拍子に、指先を紙で切った。


 ほんの小さな傷。赤い線が一つ。


 看護師なら日常の出来事だ。俺も臨床をやっていれば、それくらいで大騒ぎしない。


 でも一ノ瀬さんは、動きを止めた。


 止めたのは一拍だけ。なのに、その一拍に“違うもの”が詰まっていた。瞬きが少なくなって、呼吸が浅くなる。傷から滲む赤に視線が吸い寄せられ――それを、無理やり引き剥がすみたいに目を逸らした。


 次の動きは異様に速かった。アルコールで拭く。絆創膏。手袋。完全に封じる。


「……大丈夫ですか」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは手を止めずに答えた。


「大丈夫です」


 即答。さっきも聞いた。


 それでも俺は、言ってしまった。


「大丈夫そうに見えない」


 一ノ瀬さんの手が、ほんのわずか止まった。


 倉庫の中で、夜の病棟で、誰にも聞かれない距離で、彼女は小さく息を吐いた。


「先生」


「はい」


「……やさしいこと言うと、変なことになりますよ」


 脅しじゃない。忠告だ。境界線の提示。


「やさしいつもりじゃないです。倒れられると、困るだけです」


 俺は自分の言い訳を口にしながら、同時に思った。医者が患者に言う言葉みたいだ、と。


 一ノ瀬さんは、少しだけ口角を上げた。笑いの形だけ作った顔。


「そういうことにしておきます」


 最後の棚を確認し終え、一ノ瀬さんがチェックリストを受け取った。ペンでサインを入れる。字は乱れない。夜に強い人の字だ。


 倉庫を出ようとしたとき、一ノ瀬さんがふと立ち止まった。


 扉を閉める前に、俺のほうを見る。


「先生」


「はい」


「さっきの、見なかったことにするって言いましたよね」


 心臓が少しだけ跳ねた。怒られるのかと思った。あるいは、口止めか。


「言いました」


「じゃあ、ひとつだけ確認します」


 一ノ瀬さんの声の温度が、仕事の声から少しだけ外れた。ほんの少し。だけど、その“少し”が怖い。


「先生、ああいうの見ても、すぐ誰かに言ったりしないタイプですか」


 俺は答える前に考えた。これは試験だ。人間としての試験じゃない。職場で生き残れるかの試験。


「……言いません。言うメリットがないので」


 正直な答えだった。格好いい答えじゃない。けど、嘘でもない。


 一ノ瀬さんは、短く頷いた。


「ありがとうございます」


 礼を言われると、余計に嫌な予感がする。


 扉が閉まる直前、彼女はさらっと言った。


「さっきの赤いの、病院の血じゃないです」


「……知ってます」


「政府の支給です。個人用」


 個人用。そんな言葉がこの病院の裏通路で出てくること自体が、現実感を壊すのに十分だった。


 俺は喉が乾いた。


「それ、何なんですか。栄養剤?」


 一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ肩をすくめた。


「補給です」


「何の」


 彼女は、困った顔をしなかった。迷った顔もしなかった。決めていた言葉を、そのまま出したみたいに言った。


「……私、吸血鬼なので」


 一瞬、俺の脳が現実逃避を試みた。冗談。コスプレ。比喩。何でもいいから、今聞いた言葉の意味を薄めたがった。


 でも一ノ瀬紗夜は、冗談を言う顔をしていなかった。


 職場の麗人の顔でもない。倉庫で赤いパックに口をつけようとした人の顔だった。


「先生」


 彼女が続ける。


「何を言っているんだと思うかもしれませんけど。……私もそう思ってます」


 そう言って、一ノ瀬さんは扉の前で会釈した。


「じゃあ、私は戻ります。呼び出しあったらお願いしますね」


 まるで、夜間備品の話の続きみたいに。


 俺は、その場に立ち尽くしたまま、ようやく言葉を絞り出した。


「……一ノ瀬さん」


 彼女が振り返る。


「はい」


 俺は、何を聞けばいいか分からなかった。医学的な質問は山ほどある。倫理も、制度も、感染症も、全部ある。でも一番先に出たのは、どうでもいいみたいで、どうでもよくない言葉だった。


「……それ、いつから?」


 一ノ瀬さんは少しだけ考えて、あっさり答えた。


「生まれたときからです」


 そして、本当に何もなかったみたいに、病棟の白い廊下へ戻っていった。


 取り残されたのは、俺だけだった。


 午前四時。眠れるはずがない夜が、さらに眠れない夜になった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ