19 清めの儀式
翌日、事務長からの内線は昼前に来た。
「高槻先生、SNS、今週もう一本ね。週二は欲しいんだよ」
欲しいんだよ、が軽い。こっちの労力は重い。
「了解です」
と口が勝手に返事をしてしまうのが、俺の人生の面倒なところだった。
「今度はさ、もっと親しみ。硬い文章じゃなくて、病院の“中の人感”ね」
「中の人感」
「うん、ほら、現場で働いてる感じ。先生と一ノ瀬さんでなんかこう、わちゃっと」
わちゃっと、という言葉を医療者が業務で使っているのを初めて聞いた。人体に悪そうだ。
通話を切って、俺は机に額をつけた。
SNSは、病院の外へ向けたもののはずなのに、なぜか病院の内側の人間が一番振り回される。
◇
夕方、病棟が一瞬だけ落ち着いたタイミングで、一ノ瀬さんが記録を打ちながら言った。
「先生」
「はい」
「事務長から、また無茶振り来ました?」
なぜ分かる。監視カメラでも付いているのか。
「来ました。『わちゃっと』らしいです」
一ノ瀬さんの指が一瞬止まって、すぐに動いた。
「……それ、病院のSNSで必要ですか」
「必要らしいです」
「必要って言えば、必要になるのが人間社会です」
結城さんみたいなことを、平然と言う。
俺は回診メモを閉じて言った。
「一ノ瀬さん、何かネタあります?」
「あります」
即答。珍しい。
「手指衛生」
「硬くない?」
「硬いです。でも」
一ノ瀬さんは淡々と続けた。
「硬いのに“全員に関係ある”ので、バズらなくても炎上しにくいです」
炎上しにくい、が基準になっているあたり、病院のSNSは病院らしい。
「じゃあ、それで」
俺が言うと、一ノ瀬さんはスマホを取り出して、画面を俺に見せた。
「手洗いの手順を、手元だけで撮ります。顔は出しません」
「手元だけ」
「先生も出ます」
「俺の手元?」
「先生の手は、医師っぽいので」
医師っぽい手って何だ。人体の部位で職種判定するのやめてほしい。
「……分かりました」
一ノ瀬さんは小さく頷いた。
「じゃあ、今日終業後。処置室の流し場で撮ります。人が少ない時間」
「了解です」
ここまで段取りが早いと、逆に怖い。看護師の段取り力は人を殺さないが、SNS担当医師の心を削る。
◇
終業後、処置室の流し場。
手洗いのポスターが貼ってある。手指消毒剤のディスペンサーが並んでいる。病院の「清潔」が凝縮された一角だ。
一ノ瀬さんがスマホを三脚に固定して、カメラを起動した。
「先生、まずはアルコール手指消毒から」
「はい」
俺はディスペンサーに手をかざした。
出ない。
もう一回。出ない。
「……空です」
俺が言うと、一ノ瀬さんは即座に言った。
「先生、そこは今日一番の撮れ高です」
「撮れ高って」
「現場感です」
現場感が空っぽのディスペンサーなの、悲しすぎる。
一ノ瀬さんは引き出しを開けて、補充用のボトルを取り出した。手つきが早い。流れるように交換する。
「先生、こういうのが“中の人感”です」
「SNSでディスペンサー補充動画がバズるんですか」
「バズりません。でも炎上もしません」
結局そこだ。
「じゃあ撮ります。先生、手」
俺は手を差し出す。
一ノ瀬さんは真顔で言った。
「先生、量、多いです」
「え」
「医師って、消毒の量が多い人と少ない人に極端に分かれます。先生は多い側です」
「多い方がいいだろ」
「多すぎると乾くまでに面倒が増えます」
面倒。ここでも面倒。
俺は量を減らした。看護師に手指衛生を指導される医師。病院の日常。
「はい。いいです。じゃあ“清めの儀式”、いきます」
「言い方」
「先生、手指消毒って実質、清めです」
「吸血鬼的には聖水?」
一ノ瀬さんは一拍置いて、淡々と言った。
「聖水じゃないです。でも」
少し間を置いて、
「目に入ると地獄です」
「全人類そう」
「全人類そうです」
この人、たまに真顔で正論パンチを打つ。
撮影が始まった。
俺がアルコールを擦り込み、一ノ瀬さんが横から小声で手順を指示する。
「親指…そう、親指。指先…そう、指先。先生、指先は大事です」
「なんで急に熱量上がる」
「爪の周囲が残りやすいからです」
看護師の指導は容赦がない。科学に忠実で、容赦がない。
次に流し場で手洗い。
石鹸を取って泡立てる。手のひら、手の甲、指の間、親指、指先。
一ノ瀬さんが言った。
「先生、吸血鬼って手洗いできないと思ってます?」
「なんで急に」
「十字架とかにんにくとかばっかり聞くから」
俺は笑いながら言った。
「吸血鬼も手洗いするの?」
「します」
即答。
「しないと、患者さんが肺炎になります」
それはそうだ。
一ノ瀬さんはカメラに映らない位置で小声のまま続ける。
「吸血鬼の弱点は、十字架じゃなくて感染対策のチェックリストです」
「怖いな」
「怖いです。清潔不良は死亡です」
死亡の使い方が妙に硬い。そこは吸血鬼の冗談じゃなくて看護師の現実だ。
撮影が終わって、スマホの画面を確認する。
手元だけ。音声は最低限。いい感じに“それっぽい”。
一ノ瀬さんが頷いた。
「これでいけます」
「文章は」
一ノ瀬さんはスマホでサッと下書きを作る。
「『手指衛生は、ご自身と周りの方を守る基本です。来院時の手指消毒にご協力ください』」
硬い。だが息はできる。
俺が言った。
「これ、硬さがちょうどいい」
一ノ瀬さんは少しだけ口角を上げた。
「先生の文章よりは、血が通ってます」
「血が通ってるって言い方、吸血鬼が言うと強い」
一ノ瀬さんは真顔で返す。
「先生、私は比喩です」
「比喩にしては鋭い」
「現実は鋭いです」
正論で殴られているのに、痛くないのが不思議だった。たぶん、彼女の言葉は余計が少ない。
◇
そのとき、処置室のドアがノックされた。
「すみません、ここ使っていいですか」
夜勤入りの看護師だった。俺たちは反射でスマホを隠した。別に隠す必要はないが、癖で隠してしまう。
一ノ瀬さんが、完璧な職場の声で言う。
「どうぞ。終わりました」
夜勤看護師が流し場に来て、ディスペンサーを押す。
出ない。
「……あれ? さっき交換したのに」
一ノ瀬さんが無言で近づき、ボトルを確認する。
キャップが半分だけ締まっていない。さっきの交換のときに、俺が何か触ったらしい。
一ノ瀬さんが、俺を見た。
目が笑っていない。目だけで言っている。
先生、面倒を増やしましたね?
俺は先回りして言った。
「……面倒ですね」
一ノ瀬さんは淡々とキャップを締め直す。
「面倒です」
夜勤看護師が不思議そうに言う。
「何が面倒なんですか?」
一ノ瀬さんが即答した。
「人生です」
夜勤看護師が笑って流し場に向き直った。
俺は小声で言った。
「今の、刺さる」
一ノ瀬さんは真顔で返す。
「刺さるのが現実です」
◇
帰り道、職員通用口の外で一ノ瀬さんが立ち止まった。
「先生」
「はい」
「今日の撮影、ありがとうございました」
「俺はディスペンサー壊しただけです」
「壊してません。キャップを緩めただけです」
「それを世間では壊したと言う」
一ノ瀬さんが小さく笑った。
「先生、言葉がずるい」
「面倒をごまかすための技術です」
一ノ瀬さんは頷いた。
「便利ですね、それも」
しばらく歩いてから、一ノ瀬さんが急に言った。
「先生、吸血鬼って写真に写るかどうか、まだ疑ってます?」
「少し」
「じゃあ、今日撮った動画、見ます?」
「見ると何か起きる?」
一ノ瀬さんは真顔で言った。
「起きません。起きたら、私がSNS担当を続けられません」
それは確かにそうだ。
俺は少し笑って言った。
「じゃあ安心だ」
一ノ瀬さんは、短く頷いた。
「安心は大事です。安心がないと、面倒が増えます」
面倒が増えます。
その言い方が、もう二人の共通語になりつつあるのが変だった。
最後に一ノ瀬さんがぽつりと言った。
「先生。来週の採血の追加日程」
「はい」
「……怖いです」
病院の外でしか出ない、本音の声だった。
俺は余計な励ましをしない代わりに、いつもの盾を、少しだけ柔らかくして返した。
「面倒を減らしましょう」
一ノ瀬さんは小さく息を吐いた。
「はい」
病院の蛍光灯は今日も白い。
でもその白さの中に、アルコールの匂いと、ココアの温度と、少しだけ笑える会話が混ざっている。
それだけで、明日も病棟に立てる気がした。




