18 面倒の感染
翌朝、病棟はいつも通りに白かった。
蛍光灯の白。消毒の白。書類の白。
人の顔色だけが、その白に負けたり勝ったりしながら動いている。
俺は回診のメモを片手にナースステーションを横切って、ふと足を止めた。
掲示板に貼られた紙が一枚増えている。
「職員健診・採血 追加日程のお知らせ」
来週の午前。会議室。時間厳守。
あの“採血ブース”の続きが、ちゃんと再開するらしい。現実は律儀だ。
視線を落とすと、すぐ横で一ノ瀬さんが記録を打っていた。
完璧な姿勢。完璧な指の動き。完璧な仕事の顔。
だが掲示板の紙を見ない。
見ないふりが、上手すぎる。
「一ノ瀬さん」
俺が声をかけると、一ノ瀬さんは顔だけこちらに向けた。
「はい、高槻先生」
「来週、追加日程…」
言いかけて、俺は止めた。ここは病棟。言葉が増える場所じゃない。
一ノ瀬さんは、こちらの迷いを見抜いたみたいに小さく言う。
「先生、それは仕事の話ですか」
線引きが正確すぎる。
俺は短く答えた。
「仕事に影響するなら、仕事です」
一ノ瀬さんは一拍だけ黙って、頷いた。
「終業後、五分ください」
「病院の外で?」
「はい。病院の外で」
会話が閉じた。
彼女の完璧さは、こういうところでも完璧だ。
◇
午前中の病棟は、面倒の詰め合わせだった。
肺炎の酸素設定、尿路感染の抗菌薬、転倒の説明、家族の不安、退院調整の電話。
どれも正しい。全部必要。だから面倒。面倒なのに放っておけない。
そんな中、事務長が医局に顔を出した。
「高槻先生、SNSの件、ちょっといい?」
こういう時の事務長は、だいたい“ちょっと”じゃない。
「はい」
「投稿、見ました。硬いね」
硬い、二回目。
もう俺の文章は硬いという病名が付いた気がする。
「病院としてはもっと“親しみ”が欲しいんだよ。先生、顔出しは無理?」
「無理です」
即答した。親しみ以前に、俺が写ると気まずい。俺が気まずい。
事務長は、諦めずに次を投げてくる。
「じゃあ看護師さんの顔は?」
「それも無理です」
今度は一ノ瀬さんの事情がある。理由は言わない。言ったら余計が増える。
事務長は肩をすくめて笑った。
「じゃあ、ネタで勝負だね。ネタ。先生、バズって」
病院広報で「バズって」と言う人は、だいたい現場に来ない。
そもそも病院のSNSでバズって何を目指すというのかーー
「分かりました」
と言ってしまう自分がいちばん問題だ。
◇
終業後、職員通用口の外。
自販機の白い光の下に、一ノ瀬さんが立っていた。今日も「待っています感」を消す立ち方。あれは才能だと思う。
「先生」
「どうしました」
一ノ瀬さんは掲示板の紙を見た、見てない、の顔を一ミリも動かさずに言った。
「来週の採血、どうしましょう」
「どうしましょうって…受けない選択肢、あります?」
一ノ瀬さんは小さく首を横に振る。
「ないです。だから“どうしましょう”です」
論理が強い。
「結城さんは?」
「間に合わせるって言ってました」
「なら、間に合うんじゃないですか」
一ノ瀬さんは淡々と返す。
「先生、世の中、間に合わない方が多いんですよ」
その言い方が妙にリアルで笑えなかった。笑えないからこそ、笑いに変える必要がある。
俺は盾を出した。
「面倒だから、間に合ってほしいですね」
一ノ瀬さんの口角が、ほんの少しだけ上がる。
「先生、その一言、病棟で使ってましたよね」
「え」
「今日、師長に言ってました。『面倒だから酸素の指示は統一しましょう』って」
覚えてない。言った気もする。言ってそうだ。
「…言いました?」
「言いました」
断言された。
一ノ瀬さんは続ける。
「さっき、私も言いました」
「え」
「新人さんに。『面倒だから、ダブルチェックしましょう』って」
俺は思わず笑った。
「感染してる」
「感染してます」
「それ医療者として危険な言い方ですね」
「でも便利です」
便利は感染する。病棟の真理だ。
一ノ瀬さんは、少しだけ視線を泳がせてから言った。
「先生。今日、五分の用件は終わりました」
「終わりましたね」
「でも」
そこで一ノ瀬さんは、いつもの仕事の顔から一段だけ外の顔になる。外の声になる。
「SNSの打ち合わせ、今日します?」
来た。口止め料の分割払い。
俺はため息を吐くふりをして、頷いた。
「…十五分だけ」
「はい。十五分だけ」
五分が十五分に増えた。
◇
病院の裏手にある小さなコンビニのイートイン。
人が少ない。少ないけどゼロじゃない。ゼロだと逆に目立つ、という一ノ瀬さん理論に沿う場所。
一ノ瀬さんはホットココアを買った。俺は缶コーヒー。
彼女がココアを持つと、吸血鬼というより「夜勤明けの人」だ。
席に着くなり、一ノ瀬さんがスマホを出して言った。
「先生。投稿、硬いです」
「分かってます」
「硬さを減らしましょう」
「どうやって」
一ノ瀬さんは画面を見せてきた。俺が書いた原稿の下書き。相変わらず真面目で、読む人の心拍が下がりそうな文章。
一ノ瀬さんは淡々と添削する。
「この『徹底しています』、多いです」
「徹底してるから」
「徹底してるのは分かります。でもSNSは、“息ができる文章”にしたいです」
息ができる文章。看護師の比喩としては正しい。悔しい。
「じゃあ、どうすれば」
一ノ瀬さんは一拍考えてから言った。
「先生、例え話できます?」
「できません」
即答すると、一ノ瀬さんが小さく笑った。
「ですよね」
「じゃあ一ノ瀬さんが」
「私も苦手です」
同類だった。救い。
一ノ瀬さんは原稿の一文を短く書き換えた。
「夜間もスタッフが院内を巡回しています」
「困ったときは遠慮なく声をかけてください」
文章が少しだけ柔らかい。病棟の人間の温度が入っている。
俺は頷いた。
「いいですね」
一ノ瀬さんは少しだけ得意げに言う。
「先生の文章は、骨格がきれいです。骨格だけで歩いてる感じです」
骨格だけで歩いてる感じ。ひどい。的確すぎてひどい。
「そこに肉を付けるのが一ノ瀬さんの仕事?」
「はい。口止め料の範囲です」
「範囲」
「範囲が大事です。吸血鬼も」
急に吸血鬼が出てきた。今日のユーモア枠はここからだ。
俺は乗っかった。
「吸血鬼の範囲って何ですか」
一ノ瀬さんは真顔で言った。
「先生、まず確認します。吸血鬼は鏡に映らないと思ってます?」
「有名ですね」
「映ります」
即答。
「映らなかったら、毎朝どうやって前髪整えるんですか」
それは確かにそうだ。
吸血鬼の伝承の穴が、前髪で塞がれた。
俺が言う。
「じゃあ、鏡の前で『私は吸血鬼…』ってやれるんですか」
一ノ瀬さんはココアを一口飲んで、淡々と返す。
「先生、それやると大体、黒歴史ってやつです」
「現実的なやつ」
「現実的なやつです」
一ノ瀬さんはスマホを閉じて、次のネタを出してくる。
「あと、招待されないと家に入れない、ってやつ」
「ありますね」
「先生」
一ノ瀬さんが俺を見る。
「それ、病室に適用したら私、ずっと廊下です」
俺は笑ってしまった。
「確かに。病室、招待制」
「先生も、招待されてます?」
「俺は…一応…」
「一応」
「一応です」
一ノ瀬さんは頷いて言った。
「吸血鬼ルールじゃなくて、組織ルールが一番怖いです」
正論すぎる。さっきから正論の刃がやさしく刺さる。
俺は仕返しに、もう一つ聞いた。
「コウモリに変身は」
一ノ瀬さんは真顔で言った。
「夜勤明けにコウモリに変身したら、通勤交通費が出ません」
「そこか」
「そこです」
「飛べるなら交通費ゼロでしょって言われる?」
「言われます」
言われる前提がリアルすぎる。
一ノ瀬さんは続けた。
「それに、服も脱げてしまいます。職場について全裸だと通報されます。人間社会への適応を舐めないでください」
「適応、難しいな」
「難しいです。だから“吸血鬼は古い”です」
やっぱりそこへ戻る。
俺はコーヒーを一口飲んで、ふと思ったことを口にした。
「病院って、赤十字のマークとかありますよね」
一ノ瀬さんの目が一瞬だけ細くなる。
「ありますね」
「十字架、怖いって言ってたじゃないですか」
一ノ瀬さんは淡々と返す。
「十字架そのものは平気です。先生、赤十字に怯えてたら仕事できません」
「たしかに」
「問題は、人がそれを武器として向けることです。赤十字は武器じゃないです」
真面目な話をしているのに、結論がきれいで笑いそうになる。
俺が言う。
「じゃあ、アルコール手指消毒は聖水ですか」
一ノ瀬さんは少し考えてから言った。
「聖水ではないです。でも」
一拍置いて、
「たまに、目に入ると地獄です」
それは吸血鬼じゃなくても地獄だ。
◇
十五分は、とっくに過ぎていた。
でも帰り際に切り上げるのが惜しい、という空気がある。そういう空気は久しぶりだった。
一ノ瀬さんが立ち上がって、最後に言った。
「先生」
「はい」
「来週の採血、結城さんが間に合わせなかったら」
「面倒が増えますね」
「増えます」
「そのときは」
俺は少しだけ考えてから言った。
「口止め料、増額で」
一ノ瀬さんが小さく笑う。
「先生、どこまで面倒を金で解決するんですか」
「金じゃないです。ココアです」
「ココアは通貨」
「通貨」
「夜勤明けの通貨です」
その言い方が、妙に正しい。
◇
病院へ戻る道で、一ノ瀬さんがぽつりと呟いた。
「先生」
「はい」
「今日みたいに笑えると、楽です」
俺は、それに対して余計な励ましをしないことにした。
代わりに、いつもの盾を、少しだけ柔らかくして返す。
「面倒が減りますからね」
一ノ瀬さんは、短く頷いた。
「はい」
病院の蛍光灯が見えてきた。
いつも通りの白。いつも通りの現実。
でも今日は、その白の中に「面倒だから」という言葉が、少しだけ温かく混ざっている気がした。
感染は、悪いものだけじゃない。
便利な言葉の感染は、たぶん、二人にとって悪い感染ではないと思う。




