17 口止め料
ファミレスの照明は、病院よりやさしい。
病院の白い光は「見落とすな」と言うけれど、ここは「大丈夫」を先にくれる。大丈夫でいい場所に座った瞬間、肩が勝手に落ちる。
二人席の奥、壁際。店員が水を置いて去っていく。
メニューを開いたら、にんにくが目に入った。ガーリックチキン、ペペロンチーノ、にんにくの丸焼きみたいなやつ。
俺が一ノ瀬さんを見ると、一ノ瀬さんは先に言った。
「にんにく自体は大丈夫です」
「じゃあ食べられる」
「食べます」
「え」
「でも」
一ノ瀬さんは淡々と続けた。
「食べたあとに息を吹きかけてくる人がダメです」
「それは吸血鬼じゃなくてもダメでは」
「先生、分かってますね」
その言い方が少しだけ得意げで、妙に腹が立つ。
注文は普通だった。一ノ瀬さんは生姜焼き、俺はハンバーグ。血は出てこない。平和。
料理が来るまでの間、一ノ瀬さんが水を一口飲んで言った。
「先生。今日は吸血鬼の話をしてもいいですか」
許可を取るのが、この人らしい。線を引く人間の言い方だ。
「病院の外だし、いいと思います」
一ノ瀬さんは小さく頷いて、いきなり投げてきた。
「吸血鬼って、十字架がダメだと思ってます?」
「そういう話は多いですね」
「十字架そのものがダメというより」
一拍置いて、
「人に向かって十字架を向けてくる人が怖いです」
俺は笑ってしまった。声は出さないようにしたけど肩が揺れた。
「怖いですね」
「怖いですよ。先生、知らない人に急に金属の十字架を突きつけられたことあります?」
「ないです」
「ですよね。震えた手で、目を見開いて、一心不乱に向けてくるんですよ。平気な人、いないです」
具体的すぎて、たぶん経験者だ。
俺は軽く返した。
「確かに、一般的に怖い人ですね」
一ノ瀬さんは満足そうに頷いた。
「そう。吸血鬼だからっていうより、相手が怖い」
店員が料理を置いていった。湯気。いい匂い。現代の普通。
一ノ瀬さんは箸を持って、普通に食べ始めた。食べ方も丁寧。こういう普通が、彼女の望んでいるものなんだろう。
俺は冗談の形で聞いた。
「吸血鬼って、血を吸って生きるのが売りなのに、現代だと大変そうですね」
一ノ瀬さんは噛むのをやめずに頷いた。
「大変です。無理です」
即答が強い。
「先生、採血って簡単ですか」
「簡単じゃないです」
「ですよね」
急に看護師の顔で説明が始まる。
「歯って針じゃないんですよ。細くない。角度調整できない。固定できない。吸ったあとは圧迫が必要です」
「圧迫」
「止血。先生だって採血のあと押さえますよね」
「押さえます」
「首なら太い血管あるじゃないですかって言われるんですけど」
「言われそう」
「首、動脈です。切ったら出ます。いっぱい。先生が一番嫌いなやつ」
吐血の夜勤の記憶が頭をよぎる。
「確かに」
一ノ瀬さんは続けた。
「1回で400ccくらい吸えると嬉しいんですが、献血と同じ量なんですよ。
一気に吸ったら死んじゃうし、ゆっくり吸わないといけないです。」
「首とか太い静脈ならゆっくり吸えるかもしれないですけど、こっちも気まずいです」
「気まずい」
「めちゃくちゃ気まずいです。先生、知らない人の首に十五分顔つけるの平気ですか」
「平気じゃないです」
「ですよね」
ここまでくると、吸血鬼の話というより現代のマナー講座だった。
一ノ瀬さんはぽつりと言った。
「だから、もう吸血鬼は古いって思ってます」
「古い?」
「この時代に血を吸う鬼として生きるのは無理です。せめて吸血人を目指す」
吸血人。言葉が妙に現代的だ。
俺が笑うと、一ノ瀬さんは真顔で言った。
「笑えないと、やってられないので」
それは冗談じゃない温度だった。
俺は少しだけ話題をずらした。
「十字架とにんにく以外は?」
一ノ瀬さんは淡々と言う。
「杭」
「心臓に杭」
「先生。心臓に杭打ったら全人類死にます」
「……そうですね」
「吸血鬼だけ弱点みたいに言うのおかしくないですか。こっちの問題じゃなくて、そっちの暴力性の問題です」
正論すぎる。
俺が「銀は?」と聞くと、一ノ瀬さんは少しだけ口角を上げた。
「銀は、饅頭が怖い的な怖さです」
「どういう」
「昔は収入源がなかったので」
「金銭的な」
「はい。貴族は毒殺予防で銀食器持ってたし、当時は銀=金持ちの象徴だったので。貧乏吸血鬼には怖い」
「貧乏吸血鬼って言い方」
「先生、現実ってだいたいそうじゃないですか」
刺さる。俺にも。
食事が進んだ頃、一ノ瀬さんが少し視線を落とした。
「今日、採血が止まったの、助かりました」
「機械が壊れただけです」
「それでも」
一ノ瀬さんは少しだけ息を吐く。
「個別に免除とか先送りって、目立つんです。全体トラブルに紛れるのが一番」
「分かります」
俺がそう言うと、一ノ瀬さんは小さく頷いた。
「先生、今日は口止め料です」
「口止め料?」
「先生、口が堅いので」
「俺は別に」
「堅い人には報酬が必要です。制度です」
結城さんみたいなことを言う。
俺は笑ってしまった。
「じゃあ、これが制度ってことで」
一ノ瀬さんが小さく笑う。
「はい。制度です」
◇
店を出ると、夜の空気が冷たかった。
病院の蛍光灯の白さはない。その代わり、暗さがある。暗いと、余計なものが見えない。見えないと、人は少しだけ楽になる。
「先生」
歩きながら一ノ瀬さんが言った。
「今日は、ありがとうございました」
「だから、俺は」
「面倒だから、でいいです」
先回りされると負けた気がする。
「……面倒だからです」
「便利ですね」
「便利です」
一ノ瀬さんは少し笑って、急に真顔になった。
「先生、私、病院では完璧にしてないとダメなんです」
「ダメではないと思います」
「ダメです」
言い切る強さが、怖かった。
「完璧じゃないと、余計な視線が増える。余計な視線が増えると、居場所が壊れます」
結城さんの言葉と同じなのに、一ノ瀬さんの口から出ると重い。
俺は余計な励ましをしないことにした。励ましは優しさで、優しさは時々毒になる。
代わりに、現場の言葉を返す。
「じゃあ、完璧が崩れそうな時は休みましょう。面倒だから」
一ノ瀬さんが、小さく息を吐いた。
「……はい」
その「はい」は、少しだけ柔らかかった。
病院の職員通用口が見えてきたところで、一ノ瀬さんが立ち止まった。
「先生」
「はい」
「今日みたいに、外で話すの、たまにでいいので」
「……SNS打ち合わせ?」
「口止め料です」
またそれだ。
俺は笑って頷いた。
「了解です」
一ノ瀬さんは会釈して、病院とは逆方向へ歩いていった。背中が小さくなる。
その背中が、さっきまでより少しだけ軽く見えたのは、照明のせいかもしれない。
でもたぶん、照明だけじゃない。
病棟の日常は続く。
吸血鬼の看護師の生活も続く。
俺の灰色の毎日も続く。
ただ、今日からは「口止め料」という名の五分とか十五分が、たまに挟まる。
その挟まり方が、悪くないと思った。




