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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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16 採血ブース

 

 健診の日は、病棟の空気が少しだけ違う。


 いつもの朝と同じようにPHSは鳴るし、点滴も回るし、誰かは転びそうになる。けれどその裏で全員が「自分の番」を数えている。身長体重、血圧、採血、胸写、心電図。あの流れ作業の列。


 そして、うちの病院の健診はたいてい雑だ。雑というのは悪口じゃない。忙しい現場の健診はだいたい雑になる。雑にならない病院は、人が足りている。


 外来横の会議室が健診ブースに変わっていた。パーテーション、折り畳み椅子、番号札。外部の健診業者のスタッフが手際よく回している。採血担当は二人。採血管を並べて、バーコード付きのラベルをぺりぺり剥がして、止血バンドを積んでいく。


 掲示板には赤字で書いてある。


「採血は午前中に実施します。時間厳守」


 採血。


 あの二文字を見ただけで、一ノ瀬さんの顔が浮かぶのが嫌だった。嫌というより、余計だ。余計な連想は余計な言葉を呼ぶ。


 病棟を歩くと、一ノ瀬さんはいつも通りに働いていた。姿勢が崩れない。声が一定。ミスがない。


 ただ、健診の話題になるとだけ、動きが一段丁寧になる。丁寧というより、慎重。慎重は疲れる。


 ◇


 午前十時前、ナースステーションの固定電話が鳴った。


 PHSじゃない、昔ながらの音。こういうのはだいたい面倒だ。


 若い看護師が受話器を取る。


「はい、3階病棟です」


 一拍置いて、若い看護師の表情が固くなる。


「……ええ。はい。確認します」


 受話器を手で押さえたまま師長に視線を投げる。師長が受け取る。話は短い。短いが、師長の声がいつもより少し硬い。


「今、病棟が処置で立て込んでます。時間をずらします。撤収までには動かします」


 受話器が置かれる。


 師長は周囲の看護師にだけ聞こえる声で言った。


「健診、行ける人から順番に行って。採血は早めにね」


 それだけ。


 師長は一瞬だけ俺の方を見た。問いかけじゃない。圧でもない。

 病棟を回せ、という目だ。


 俺は頷かずにカルテに視線を戻した。


 ◇


 昼前、健診会場から内線が入った。


「高槻先生、医師の採血まだの方が多くて……今お時間取れますか」


 医師は逃げる。これは健診側が正しい。


「今から行きます」


 会議室に着くと、医師の列は短かった。看護師の列は長い。真面目さのベクトルが違う。


 採血担当のスタッフが俺の名前を見てラベルを準備する。


「高槻先生ですね。こちらにお願いします」


 椅子に座り、袖をまくる。駆血帯。アルコール綿。針。逆血。採血管。止血。いつもの流れ。医者でも刺される側は少し嫌だ。


 立ち上がった瞬間、採血台の裏から小さなざわめきが聞こえた。


「すみません、ラベルが出ないです」


 外部スタッフが焦らない声で言う。焦らない声なのに、手だけが速い。


 院内担当者が飛んできた。


「え、また? さっきは出たのに」


「バーコードプリンタがエラーです。今、印字が止まりました」


 担当者が青ざめる。


「手書きで……」


 外部スタッフが首を横に振った。


「手書きだと外注検査の受付が通りません。今日の便に載せられなくなります。間違いのリスクも上がるので、採血はいったん止めます」


 止めます、と言い切る声が強かった。強いのは正義じゃなくて、事故予防だ。


 会議室の空気が一段固くなる。列に並んでいた職員たちが「え?」という顔になる。こういう時、人は勝手に不安になる。


 担当者が小声で言った。


「でも、採血は午前中って……」


 外部スタッフが淡々と返す。


「午前中でも、便が出たら終わりです。ラベルが出ないなら採血できません。ここで採ったら、面倒が増えます」


 面倒。

 この人も使うんだな、と思った。


 院内担当者が慌てて、受診状況表を見ながら言う。


「じゃあ、まだ採血できてない人は……」


 外部スタッフが即答した。


「追加日程です。来週の午前に枠を作ります。今日採れなかった方は、そちらで」


 それは筋が通っていた。プリンタが直るかどうかを祈るより、枠を作って終わらせる方が現実的だ。


 担当者が深く頭を下げた。


「申し訳ありません。こちらの機器の不具合で……」


 外部スタッフは「いえ」とだけ言って、採血トレーを片付け始めた。中途半端に続けない。こういう切り上げ方は、現場では正しい。


 俺は会議室を出る前に、受診状況表の一ノ瀬さんの欄を見た。


 採血は、未のまま。


 それでいい。

 未のままなら、居場所は壊れない。


 ◇


 病棟に戻ると、一ノ瀬さんがナースステーションにいた。


 今日も完璧に働いている。完璧な人ほど、こういうトラブルに巻き込まれると顔に出さない。


 俺は近づいて、声を落とした。


「一ノ瀬さん」


「はい、高槻先生」


「健診、採血の機械トラブルで止まりました。今日採れなかった人は、来週の追加日程に回すそうです」


 一ノ瀬さんは一拍だけ黙って、小さく頷いた。


「……分かりました」


 それだけ。表情は崩れない。でも、呼吸が一つだけ深くなったのが分かった。


 俺は余計な言葉を足さずに、その場を離れた。


 離れたはずなのに、背中に声が当たる。


「先生」


 振り向くと、一ノ瀬さんがほんの少しだけ距離を詰めていた。仕事の顔のまま。でも声が少しだけ外向きだ。


「今日、時間ありますか」


「今からなら」


 一ノ瀬さんは頷いた。


「病院の外で、五分だけ」


 五分。

 この病院では、五分で空気が変わることがある。


 俺は頷いた。


「分かりました」


 ◇


 職員通用口の外は、夕方の冷たさだった。


 自販機の白い光の下に、一ノ瀬さんが立っていた。待っているのに、待っている感じを消す立ち方。仕事の癖なのか、生活の癖なのか分からない。


「先生」


「どうしました」


 一ノ瀬さんは少し迷ってから言った。


「今日のこと、ありがとうございました」


「俺は何もしてません。プリンタが壊れただけです」


 一ノ瀬さんが首を横に振る。


「壊れたのは機械です。でも、先生が病棟で余計な話を増やさなかった」


 余計な話。そこを評価するのが、この人らしい。


 俺は盾を出した。


「面倒だからです」


 一ノ瀬さんの口角が、ほんの少しだけ上がった。


「便利ですね、それ」


「便利な言葉なんで」


 一ノ瀬さんはスマホを握り直して、ぽつりと言った。


「採血、怖いんです」


 吸血鬼のくせに、と思う人はいるだろう。

 でも彼女が言っているのは、針の痛みじゃない。


「数値で、変に目立つから」


 俺は頷いた。


「今日みたいに、機械が壊れて“全員まとめて”延期になるのが一番助かります」


 それは、ものすごく現代的な生存戦略だ。個別の例外は目立つ。全体のトラブルに紛れるのが一番安全。


 一ノ瀬さんはそこで一度、息を吐いた。


「……でも」


「でも?」


「助かったからって、毎回壊れるわけじゃないですよね」


 当たり前のことを言うのに、声が少しだけ寂しい。

 偶然で生き延びたくない、という感じ。


 俺は一拍置いて言った。


「来週の追加日程までに、結城さんが何とかすると思います」


 一ノ瀬さんは少しだけ目を細めた。


「先生、結城さんのこと信頼してますね」


「信頼というか、あの人は面倒を減らすのが仕事だから」


「先生の面倒と、結城さんの面倒は種類が違います」


「そうですね」


 二人とも面倒しか言ってない。会話としてどうかと思う。でも、一ノ瀬さんは少し笑っていた。


 一ノ瀬さんが、急に話を切り替えた。


「先生」


「はい」


「お礼がしたいです」


「いらないです」


 即答した。礼を積まれると距離が壊れる。


 一ノ瀬さんはあっさり言い直す。


「じゃあ、SNS係の打ち合わせです」


「打ち合わせ?」


「投稿、先生が上げたやつ、硬かったので」


「硬かったですか」


「硬かったです」


 断言された。


「改善が必要です。食事しながらでいいので、十五分だけ」


 五分が十五分になった。

 結城さんの時間の増え方と同じで、嫌に現実的だ。


 俺は観念して頷いた。


「……分かりました。どこに行きます」


 一ノ瀬さんは少しだけ目を細めた。


「病院から離れたファミレス。人が多いので逆に目立ちません」


「逆に、をよく使いますね」


「逆にが大事です。人間社会は逆にでできてます」


 それはもう、結城さんの影が見える。


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