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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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15 採血できない

 

 一ノ瀬さんが倒れてから三日が経った。病棟は何事もなかったみたいに動いていた。


 人は簡単に「いつも通り」に戻る。戻れるから生きていけるし、戻れるから置き去りにもなる。


 俺は白衣のポケットのPHSを鳴らさないように押さえながら、回診のメモを眺めていた。肺炎、尿路感染、脱水、転倒。いつもの並び。


 ナースステーションの掲示板に、新しい紙が増えているのが目に入った。


「職員健診のお知らせ」


 年度が変わるタイミングの、例のやつ。身長体重、血圧、採血、胸部レントゲン。あとは問診票に、いちばん答えにくい質問が並ぶ。


 “睡眠は十分ですか”

 十分だったらここにいない。


 紙の端には、小さく赤字で書いてあった。


「採血は午前中に実施します。時間厳守」


 採血。


 その単語を見ただけで、あの時の職員休憩室の匂いが戻る気がした。甘ったるい鉄っぽさ。赤いパックの、気まずい音。


 視線を上げると、一ノ瀬さんが掲示板の前に立っていた。


 夜勤外しになったから、今日は日勤のはずだ。髪は整っていて、姿勢もいつも通り。完璧な看護師の背中。


 でも、掲示板を見る目だけが、ほんの少し固い。


 一ノ瀬さんは紙を読み終えると、何もなかったみたいに踵を返して、ナースステーションに戻っていった。


 戻り方が早い。早すぎる。


 俺はその背中を見送って、掲示板の紙をもう一回見た。


 採血。



 ◇


 午前の病棟は忙しい。忙しいというより、雑用が多い。


 採血のオーダーを整えて、抗菌薬の投与計画を見直して、家族説明の段取りを決めて、転院の書類を確認して、やっと昼が見える。


 ナースステーションの隅で、一ノ瀬さんが淡々と記録を打っている。この前の一件が嘘みたいに、手は止まらない。言葉も必要最小限。


 俺はその横を通り過ぎるだけでいいはずだった。


 いいはずなのに、足が止まった。


「一ノ瀬さん」


 彼女が顔を上げる。職場の顔。丁寧で、距離が一定。


「はい、高槻先生」


「今日、体調は」


 聞いてから気づく。これ、余計かもしれない。


 一ノ瀬さんは、いつもの答えを返した。


「大丈夫です」


 完璧な「大丈夫」だった。完璧すぎて、信用しにくい。


 俺は視線を掲示板の方へやってから、言葉を選んだ。


「…健診の紙、見ました?」


 一ノ瀬さんのまつ毛が、ほんの少しだけ下がった。


「見ました」


「採血、って書いてありますね」


 職場の会話としてギリギリのラインだ。医者と看護師が健診の話をするのは普通だ。普通にしておけば、余計にならない。


 一ノ瀬さんは一拍置いて、静かに言った。


「先生。今、それ、仕事の話ですか」


 刺さる。


 俺は正直に返した。


「仕事に影響するなら仕事です」


 一ノ瀬さんは少しだけ目を細めた。怒りじゃない。線引きの確認。


「…終業後、五分ください」


「病院の外で?」


「はい。病院の外で」


 それだけ言って、一ノ瀬さんは画面に目を戻した。会話を閉じるのが上手い。結城さんと似ている。似ているのが嫌だ。


 ◇


 終業後、職員通用口の外は薄暗かった。


 昼の喧騒が引いたあとの病院は、急に広くて静かになる。駐車場の端にある自販機が白く光っていて、そこだけが現実感を持っている。


 一ノ瀬さんは、先にいた。


 コートの襟を立てて、スマホを握っている。画面は消えている。握っているだけ。落ち着かないときの手だ。


「先生」


「どうしました」


 一ノ瀬さんは少し迷ってから言った。


「健診の採血、受けたくないんです」


 直球だった。回りくどさがない。サバサバしているのに、言いにくいことを言うときだけ、少し言葉が重くなる。


「理由は?」


 俺が聞くと、一ノ瀬さんは一瞬だけ視線を外した。


「余計なので」


 出た。余計。


「余計じゃない方だけ教えてください」


 俺は続けた。


「受けないと、どうなる」


 一ノ瀬さんは、ため息をひとつ吐いた。


「受けないと、目立ちます。『なんで?』って聞かれます。噂になります」


「それは分かる」


「でも、受けても困ります」


 ここで、彼女の声が少しだけ低くなった。


「採血で、バレます」


 バレる。


 何が、とは言わない。でも、言っているのと同じだ。


 俺は一拍置いて、言葉を選んだ。


「血液検査に引っかかるってこと?」


 一ノ瀬さんは小さく頷いた。


「普通の人の数値じゃないです。…普通の人の、血じゃないので」


 言い切った。病院の外だから言えた言い方。


 俺は反射で医者の頭を動かしかけて、止めた。ここで病態を推測しても余計が増えるだけだ。彼女が欲しいのは診断じゃない。


「今まではどうしてたんですか」


 一ノ瀬さんは少しだけ口角を上げた。


「今までは、結城さんが“うまくやってくれてました”」


 うまくやってくれてた。つまり、制度側で免除なり代替なりが回っていた。そこが今回、崩れている。


「今回、うまくいかない?」


 一ノ瀬さんはうなずいた。


「供給の形が変わって、優先順位が変わって、書類が先で。…健診の方が早いんです」


 時間の問題だ。早いのが今回の特徴。結城さんの言葉が思い出される。


 俺は自販機の光を見ながら言った。


「健診の日程、変えられないんですか」


「部署単位です。変えたらまた目立つ」


「じゃあ、採血だけ別日にするとか」


「別日も目立ちます」


 目立つ、目立つ、目立つ。


 吸血鬼云々より、彼女は「目立つ」ことに怯えている。社会に溶け込むのは、そういう戦いだ。


「先生」


 一ノ瀬さんが続けた。


「お願いがあります」


 また「お願い」だ。最近多い。増えているということは、彼女の余裕が減っている。


「何ですか」


 一ノ瀬さんはスマホを握り直した。


「結城さんに、連絡してほしいです。…私からだと、たぶん、やり方が悪くなります」


 自分でそう言えるのは、成長なのか、追い詰められているのか。


「分かりました」


 俺が即答すると、一ノ瀬さんの肩がほんの少しだけ落ちた。安堵。最小の安堵。


「それと」


 一ノ瀬さんは言いづらそうに、でも言った。


「もし間に合わなかったら、先生、健診の採血…止めてくれますか」


 止める。どうやって。


 俺の頭に、危険な選択肢がいくつも浮かんだ。診断書で免除? 虚偽は無理だ。俺は産業医でもない。職員健診のルールもある。


 でも、一ノ瀬さんが言っているのは“制度の穴を作れ”じゃない。


 “居場所を壊さずに逃がして”だ。


 俺は、結城さんの口調を借りた。


「余計なことはしません」


 一ノ瀬さんの目が揺れる。


「…じゃあ」


 俺は続けた。


「面倒を減らします。採血を止めるんじゃなくて、採血を『先送り』にする」


 一ノ瀬さんが少し黙った。


「先送りも目立つ」


「目立たない先送りにします」


 俺は自分でも無茶を言っていると思った。だけど、医療現場には“目立たない先送り”の技術がいくつもある。完璧じゃない運用で回っているから。


「例えば?」


 一ノ瀬さんが聞く。


 俺は言葉を増やさずに答えた。


「当日、急な業務対応が入ったことにして採血ブースから離す。『あとで行きます』で流す。流して、その日のうちに結城さん側の代替手段に接続する」


 これなら嘘は少ない。運用の範囲だ。現場は、そういうグレーで回る。回ってしまう。


 一ノ瀬さんは少しだけ目を閉じた。


「…先生、そういうの上手いんですね」


「上手くなりました。飛ばされたので」


 言ってから、少しだけ苦くなった。自虐にしては生々しい。でも一ノ瀬さんは、笑わなかった。


「先生」


「はい」


「飛ばされても、まだここにいるんですね」


 その言い方が、妙に優しかった。余計な優しさじゃない。事実の確認みたいな優しさ。


 俺は答えた。


「います。面倒だから」


 盾。便利な盾。


 一ノ瀬さんが、やっと少し笑った。


「…同じですね」


 ◇


 俺はその場でスマホを取り出して、結城さんの名刺の番号にかけた。


 コールは短かった。


「結城です」


 いつもの声。困っていない声。


「高槻です。職員健診の採血が近い。一ノ瀬さんが受けられない。今までの免除や代替が間に合わない可能性がある」


 結城は一拍で理解した。


「日程は」


「掲示では来週。部署単位。採血は午前中」


 結城はすぐに言った。


「承知しました。こちらで代替ルートを用意します。健診そのものは止めない。採血だけ別経路で処理する」


 別経路。そういう言葉がこの人の口から出ると、妙に安心するのが腹立たしい。


「間に合いますか」


 俺が聞くと、結城は淡々と答えた。


「間に合わせます。間に合わない場合は、先生の言う“先送り”を使ってください」


 俺は一ノ瀬さんの方を見た。彼女は自販機の光の縁で、静かに息をしている。


「…分かりました」


 結城が最後に言う。


「先生。余計な説明は不要です。採血を避けた理由を、病院の中で作らないでください」


「了解です」


 通話が切れた。


 スマホをポケットに戻すと、一ノ瀬さんが小さく言った。


「どうでした」


「間に合わせるって」


 一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。


「…よかった」


 その「よかった」は、吐血が止まった時の「よかった」と同じ種類だった。生き延びた方の言葉。


 俺は続けた。


「もし間に合わなかったら、当日は俺が何とかします」


「先生」


 一ノ瀬さんが眉を少し寄せる。


「それ、余計じゃないですか」


 俺は即答した。


「余計です。でも、面倒が減ります」


 一ノ瀬さんは数秒黙って、それから言った。


「……先生、変です」


「知ってます」


「でも」


 一ノ瀬さんはそこで言葉を切って、ほんの少しだけ視線を落とした。


「助かります」


 それだけで、今夜の会話は十分だった。言葉を増やすと壊れる。


 俺たちは自販機の前で別れた。彼女は結城さんのスマホを握ったまま、夜の暗がりに消えていく。俺は病院の光の方へ戻る。


 病院に戻れば、いつもの仕事がある。PHSが鳴る。カルテが残る。掲示板が更新される。


 その掲示板の「採血」という二文字が、今夜はやけに赤く見えた。



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