14 知らない番号
個人のスマホが震えたのは、職員通用口を抜けて、病棟の白い光に背中を押された直後だった。
知らない番号。
でも妙に、嫌な予感がしない。
嫌な予感がしないのが、いちばん嫌だ。
「高槻です」
一拍置いて、聞き慣れた声が言った。
「……先生。今、少しだけいいですか」
一ノ瀬さんの声だった。仕事の声より、ほんの少しだけ低い。疲れたときの声。
「いいですよ。どうしました」
俺は反射で周囲を見回して、ナースステーションから少し離れた廊下の角に寄った。誰かが通れば、会話は途切れる。途切れるのは、今は困る。
「……結城さんの携帯からです。私の番号、先生に知られたくなくて」
それは、いかにも一ノ瀬さんらしい理由だった。警戒じゃない。生活防衛。
「分かりました」
「結城さん、今、隣にいます。……先生に、聞いてほしいって」
聞いてほしい。
その言葉が、一ノ瀬さんの口から出ること自体が珍しい。
俺は一度だけ息を吐いて、声のトーンを落とした。
「分かりました。今は、二人だけですか」
「はい。結城さんと私だけです」
「じゃあ、どうぞ」
一ノ瀬さんが、言葉を探すみたいに一拍置いてから話し始めた。
「供給の形、変わります。……定期が減って、緊急枠が増えるって」
結城が言っていた内容と一致する。
一致しているのに、本人の口から聞くと現実が重い。
「うん」
俺が短く返すと、一ノ瀬さんは続けた。
「緊急枠、理由と……書類が必要で。今日の件の診断書、先生が書いてくれたって」
結城がもう話したのか。早い。速い。
早さが、今回の特徴。
「書きました。立ちくらみで」
「……ありがとうございます」
礼を言う声が、いつもより小さい。
礼を言うしかない状態で生きている声。
一ノ瀬さんはそこで一度、息を吐いた。呼吸を整えているというより、崩れないようにしている。
「それで」
声が少し硬くなる。
「結城さんが、しばらく夜勤外した方がいいって」
来た。
「……外すと、病棟が回らないんです」
病棟が回らない。
それは看護師が背負わされがちな呪いだ。回らないのは、仕組みの問題なのに。
「それに」
一ノ瀬さんは続けた。
「私が抜けると、変に目立ちます。変に心配されます。……そういうの、嫌です」
嫌、という言い方が、珍しく感情に寄っていた。
俺は「それはそうだ」と言いかけて、やめた。共感は簡単だ。共感すると、余計な言葉が増える。結城が嫌がるやつ。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「今日、採血ラベル、一瞬間違えましたよね」
電話の向こうが静かになった。
「すぐ訂正しました」
「訂正できたうちは、いいです」
俺は言葉を増やさずに続けた。
「でも、あれが二回起きたら、あなたが一番困る。病棟も困る。俺も困る」
面倒、という盾を出したいのに、出すと軽くなる気がして、今日は出せなかった。
一ノ瀬さんが小さく言う。
「……分かってます」
「分かってるなら、夜勤は外した方がいい」
一ノ瀬さんの返事は、すぐには来なかった。
返事が遅いのは、彼女の中でその選択が“敗北”に近いからだ。
「先生」
「はい」
「私、仕事はできます」
「知ってます」
「夜勤もできます」
「今は無理」
俺は淡々と言った。医者っぽい断定。医者の言葉は便利だと、彼女が言っていた。だから便利に使う。
「できるか、じゃない。事故が増えるか、です」
一ノ瀬さんが、息を飲む気配がした。
「……事故、って」
「ラベル間違えも事故の芽です」
芽、と言ってしまったのは、少し優しすぎたかもしれない。
でも“事故”と言い切ると、彼女は潰れる。
一ノ瀬さんが、小さく笑った。笑いというより、諦めに近い音。
「先生、結城さんみたいな言い方しますね」
「真似してます。あの人の方が正しいので」
電話の向こうで、結城が何か言いかけて黙った気配がした。
困ったときに困ってる顔をしない人間は、こういうときに黙る。
一ノ瀬さんが、ようやく本題に触れた。
「先生、どう言えばいいですか」
「何を」
「師長に。『夜勤外します』って。理由を聞かれたら……」
そこが居場所だ。
彼女は“休む”ことより、“説明する”ことが怖い。説明は噂の入口だから。説明は、世界に穴を開けるから。
「立ちくらみでいいです」
俺は短く言った。
「夜勤明けに一回倒れた。もう一回やったら面倒。だから外す。以上」
「それで通りますか」
「通すんです」
言い切ってから、少しだけトーンを落とす。
「師長に通らないなら、事務長に通す。結城さんが得意なやつ」
一ノ瀬さんが、少し黙ってから言った。
「……それ、嫌です」
「俺も嫌です」
即答した。
「だから、師長で止める。止めるために言葉を増やさない」
一ノ瀬さんが小さく息を吐く。
「……先生、変なところで強い」
「面倒が嫌いなだけです」
久しぶりに盾を出した。
盾を出すと、会話の角が少し丸くなる。こういう時は、盾も役に立つ。
一ノ瀬さんが言う。
「結城さんは、先生がそう言うから電話させたんだと思います」
「そうでしょうね」
「……でも、助かりました」
助かった、が出た。
この人が助かったと言うのは、相当だ。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「夜勤外して、しばらく整えましょう。仕事は、逃げない。病棟も、回ります。回らせるのが上の仕事です」
上の仕事、という言い方をした瞬間に、大学の医局の顔が一瞬だけ浮かんだ。すぐに消した。あそこは今は関係ない。
電話の向こうで、結城が口を開いた。
「高槻先生」
「はい」
結城の声は相変わらず落ち着いている。
「ありがとうございます。今のやり取りで十分です」
十分。やっぱり怖い言葉。
「一ノ瀬さんが師長に言って、もし引き止められた場合は、こちらから病院の窓口に連絡します。そこまで行く前に止めたいですが」
止めたい、という言い方が珍しく人間っぽい。
でも温度は低い。低い方が、壊れない。
一ノ瀬さんが、少し焦った声で言った。
「結城さん、病院に連絡するのは……」
「居場所が壊れるのはもっと困ります」
結城が淡々と言う。
「あなたの嫌いより、あなたの生活を優先します」
嫌いより生活。
正論すぎて殴られる。
一ノ瀬さんは言い返せなかった。言い返せないから、声の代わりに息が出た。
「……分かりました」
それは降参じゃなく、同意だった。
同意できる状態まで追い込まれている、とも言える。
「先生」
一ノ瀬さんが俺に戻ってくる。
「今日、ありがとうございました。……仕事中の私は、たぶん、何も言えないので」
「言わなくていいです」
俺は短く返した。
「言ったら余計になります」
「……はい」
電話が切れかけて、最後に一ノ瀬さんが小さく付け足す。
「先生」
「はい」
「明日、SNSの投稿……私、確認できません。すみません」
そこだけが、妙に現実的だった。
吸血鬼でも、夜勤明けで倒れても、SNSは消えない。
「いいです。俺が上げます」
「……固くなっても知りませんよ」
「元から固いです」
一ノ瀬さんが、ほんの少し笑った。短い、乾いた笑い。昨日よりも少しだけ軽い。
「じゃあ……失礼します」
通話が切れた。
スマホの画面が暗くなって、廊下の蛍光灯の白さが戻る。
白さの中に、俺だけが立っている。
◇
病棟に戻ると、当たり前みたいに仕事があった。
PHSが鳴る。普通に電話として鳴る。
「高槻です」
「先生、すみません、402が……」
「行きます」
それだけで回る。短い言葉で回る世界。
短い言葉で回るから、余計な言葉が混ざるとすぐ歪む。
402の対応をして、カルテを打って、指示を出して、時計を見る。もう遅い。夜勤明けの疲れがようやく肩に来た。
医局に戻って、SNSの下書きを開く。
感染対策を徹底しています。
手指衛生にご協力ください。
固い。読む人の顔が浮かばない文章。
でも、一ノ瀬さんが言った通りだ。読まれなくても、出しておくことに意味がある。意味があるなら、せめて余計に燃えない形にしたい。
俺は文章を少しだけ変えた。
「夜間もスタッフが院内を巡回し、感染対策と安全確認を続けています。手指衛生にご協力ください」
夜間も。
巡回。
安全確認。
これなら、病棟の人間の体温が少しだけ入る。誰のことも書いていない。余計なことは入っていない。
写真は、廊下の掲示と、手指消毒剤のディスペンサー。手元だけ。顔は出さない。名札も写さない。
投稿ボタンの前で、一瞬だけ指が止まった。
SNSは残る。
残るから、怖い。
残るから、守りにもなる。
俺は押した。
投稿が完了する。
それだけで、病棟が救われるわけじゃない。
一ノ瀬さんの居場所が守られるわけでもない。
でも、余計な火種は一つ減る。
結城の言い方を借りれば、工程が減る。
◇
帰ろうとしたところで、医局のドアがノックされた。
「高槻先生、ちょっといいですか」
師長だった。夜の師長は昼より静かで、逆に怖い。
「一ノ瀬さんの件なんですけど」
来た。居場所の話だ。
俺は椅子に座り直して、短く言った。
「はい」
師長は机の上にメモを置いた。
「明日からの勤務、夜勤外しで調整したいって本人から連絡がありました。理由は……立ちくらみって」
「はい。それでいいと思います」
俺は言葉を増やさずに返す。
“通す”と決めたやつだ。
師長は俺を見た。
「先生もそう思う?」
「思います」
「……分かった。じゃあそうする」
師長はメモを引っ込めて、立ち去りかけて、足を止めた。
「ねえ、先生」
「はい」
師長が、少しだけ声を落とした。
「一ノ瀬さん、最近無理してた?」
無理してた。
正直に答えるなら、たぶん、ずっと無理してた。
でも、ここで正直に話すのは余計だ。余計は居場所を壊す。
俺は一拍置いて、必要な言葉だけ選んだ。
「夜勤明けです。誰でも無理します」
師長は少しだけ目を細めて、でも追及はしなかった。
「……そうね。じゃあ、先生も寝て」
「寝ます」
師長が去っていく。
止まった。
師長で止まった。
結城の出番は、今のところない。
俺は息を吐いて、白衣を畳み、鞄を持った。
病院の外の空気は冷たい。冷たいけど、さっきより少しだけ楽だった。
居場所は、まだ壊れていない。
壊れていないだけで、今日のところは十分だ。




