13 支援担当
職員通用口を出ると、空気がもう夜だった。
昼間に吸っていた酸素とは別物の冷たさが、喉の奥まで入ってくる。病院の建物は背中でまだ光っているのに、駐車場の端は暗くて、夜の輪郭だけがはっきりしていた。
自販機の白い光の下に、結城千景がいた。
昨日と同じ場所。昨日と同じ立ち方。待っているのに、待っている感じを消す立ち方。人を急かさない。でも、時間は自分のものにしている。
手に持っているのは缶だった。今日はココアらしい。赤でも黒でもない色が、妙にこの人に似合わない。
「高槻先生」
結城は俺を見て会釈した。会釈の角度が浅い。丁寧さの形だけ残して、余計な温度を削った会釈。
「どうも」
俺は白衣のポケットから封筒を出した。手汗で紙の端が少し柔らかくなっている。疲れが、こういうところに出る。
結城は受け取って、すぐには開けなかった。中身を確認するより先に、封筒の厚みと重みを指先で確かめる。書類を“物”として扱う人の動作だった。
「ありがとうございます。これで余計な工程が減ります」
「工程、って」
俺が言うと、結城は表情を変えないまま缶のプルタブを開けた。小さな音が夜に響く。缶を一口、喉に流し込む。
「人間社会は工程でできています。工程が増えると、見られます。見られると、居場所が削れます」
居場所。昨日から刺さり続けている言葉。
俺は封筒を受け渡しただけなのに、何か大きなものの歯車に指を挟まれた気がした。
「供給形態の変更って、具体的には何が変わるんですか」
結城は迷わず答えた。
「定期の供給が減ります」
「減る」
「その代わり、緊急枠が増えます」
「増える」
「緊急枠は、理由と証拠が必要です」
結城は一拍置いて、言い直すみたいに付け足した。
「つまり、書類です」
嫌になるほど分かりやすい。現場で足りないのは、血だ。だが制度が欲しがるのは、紙だ。
「今日の診断書が、その“証拠”ってことですか」
「ひとつの材料です」
結城は缶を持ったまま、少しだけこちらに視線を寄せた。
「先生が書かなかった場合、一ノ瀬さんは外部の医療機関を受診する必要が出ます。そこで余計な説明が増えます」
余計な説明。余計な視線。余計な記録。
俺は無意識に、白衣の胸ポケットに指を当てた。もう封筒はない。あるのは名札とペンだけだ。
「結城さん、やっぱり“余計”って言葉好きですね」
「好きではありません」
即答。
「必要だから言っています」
その言い方で、結城が“好き嫌い”で動く人ではないのが分かる。好き嫌いで動けない人間は、壊れにくい代わりに、壊れたときに派手だ。
駐車場の向こうから、職員が数人歩いてきた。夜勤入りか、残業明けか。誰もこちらを見ていない。でも“見られたら終わり”の話をしていると、視線が勝手に過敏になる。
結城が、俺の立ち位置を半歩だけ動かした。自販機の光の縁から、影の側へ。動きが自然すぎて、俺もつられて同じだけずれた。
「……病院の外で話せっていうの、こういうことですか」
結城は平然と答える。
「そういうことです。病院の中で話すと、音が残ります。人の記憶にも残ります」
「外なら残らない?」
「残ります。ただ、残り方を選べます」
選べる残り方。変な言い回しだが、意味は分かった。噂の種を、病院の中に落としたくないんだ。
結城はココアをもう一口飲んで、缶を軽く振った。中身はまだあるのに、振り方が“残量確認”みたいだった。
「今夜、本人に正式に説明します。高槻先生は同席しなくていい」
「……同席しない方がいい、の間違いじゃないですか」
結城は少しだけ目を細めた。
「同席すると、先生が余計なことを言う可能性が上がります」
「信用されてない」
「信用はしています。先生は真面目です」
真面目。褒め言葉にも、地雷にもなる単語。
結城は続けた。
「真面目な人は、説明したくなります。理解してもらいたくなります。本人にとって、それが毒になることがある」
毒。昨日の電話でも似たことを言っていた。
俺は、喉の奥にひっかかるものを飲み込んだ。言い返したい気持ちはある。でもこれは、反論して勝てる種類の話じゃない。
「じゃあ俺は、何をすればいいんですか。手順だけでいい、って言うなら」
結城は答えを用意していた。
「二つだけです」
また数える。数える人間は怖い。
「一つ。一ノ瀬さんが“助けの出し方を間違えそう”になったら止めてください」
「助けの出し方?」
「病棟の人間関係に持ち込む、という意味です。師長や同僚に、必要以上の説明を始めそうなら止める」
「俺が?」
「先生は医師なので止めやすい。『それは後で』と言えば通ります」
通る、という言い方が現実的すぎる。確かに医師の言葉は通る。通ってしまうから、怖い。
「二つ目は」
結城が続ける。
「先生が“助け方を間違えない”こと」
俺は鼻で笑いそうになった。
「俺、間違える前提なんですね」
「間違えます」
即答。ひどい。
「先生は、優しくしようとして踏み込みます。踏み込むと、彼女は断れません。断れない人が抱えるものは、後で全部崩れます」
断れない。崩れる。今日の休憩室の光景が思い出される。
「……じゃあ、どうすればいい」
結城は缶を持ち上げたまま、淡々と言った。
「先生の得意な言い方でいい。“面倒だから”で十分です」
またそれだ。
「面倒だから休め。面倒だから帰れ。面倒だから説明するな。面倒だから噂にするな」
結城の言葉は冷たい。だけど、その冷たさが一ノ瀬さんの世界では防波堤になるのかもしれない。
俺はふと、昨日の結城の一言を思い出した。
“あなたも吸血鬼なんですか”
聞くのは余計だ、と言われた。間違ってはいない、とも言われた。結城は、答えを濁して逃げたんじゃない。境界線を引いたんだ。
「結城さん」
「はい」
俺は“余計じゃない方”を選んで聞いた。
「今日、一ノ瀬さんが倒れたのは……供給が変わるから?」
結城は一拍だけ沈黙した。沈黙が短いのに、情報量が多い。
「供給だけではありません」
「じゃあ何ですか」
「仕事です」
結城は言い切った。
「完璧でいることは、燃えます。燃え続けると、燃料が要る。燃料が足りないと、火が不安定になる」
比喩が珍しい。結城がこういう言い方をするのは意外だった。役所の人間の言葉じゃない。長く生きた人間の言葉だ。
「先生、彼女は“弱っている”ことを自分で許していません」
「……看護師だから?」
「本人の性格です」
結城はそこで缶を軽く潰した。音が小さく鳴った。缶が潰れるのは簡単だ。人が潰れるのは静かだ。
「今夜の説明は、その“許さなさ”を少し緩めるためのものです」
「緩むんですか」
結城は答えなかった。その代わり、腕時計を見た。時間の線を引く癖が出る。
「……先生、当直明けでしょう。帰って休んでください」
「それ、一ノ瀬さんにも言われました」
言った瞬間に、言葉の中の名前を噛み直した。下の名前を出す癖は、まだない。出しちゃいけない。今はまだ。
結城は、ほんの少しだけ目を細めた。笑いではない。
「同じ結論に辿り着くのは、良いことです」
結城は踵を返した。去り方がきれいすぎる。人の会話を“閉じる”のが上手い。
数歩離れてから、振り返らずに言う。
「高槻先生。余計な優しさは要りません。手順だけでいい」
そして、駐車場の暗がりに溶けた。
俺は自販機の白い光の下に残った。冷たい空気の中で、息を吐くと白い。
手順だけでいい。
医者の仕事は、確かに手順だ。吐血も、肺炎も、心不全も。手順はある。正解に近い道がある。
でも、今夜の手順には教科書がない。
一ノ瀬紗夜が、今夜、どんな説明を受けるのか。
供給が減るという現実を、彼女がどう飲み込むのか。
そして、その“飲み込み方”が病棟にどう影響するのか。
考えるほど余計なことが増える。
俺は職員通用口へ戻って、病院の光に背中を押された。戻れば現実がある。PHSは鳴る。カルテは残る。SNSも一本上げないといけない。
それでも、白衣のポケットの中で、角の硬いラミネートカードの感触が消えなかった。
“倒れたら連絡”
余計なことはしない。
必要なことだけする。
そう思いながら、病院の中へ戻った瞬間、個人のスマホが震えた。
画面に出た表示は、知らない番号。
でも、妙に嫌な予感がしない。
俺は出た。
「高槻です」
一拍置いて、聞き慣れた声が言った。
「……先生。今、少しだけいいですか」
一ノ瀬さんの声だった。
夜が、また一つ増えた。




