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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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13/34

13 支援担当

 

 職員通用口を出ると、空気がもう夜だった。


 昼間に吸っていた酸素とは別物の冷たさが、喉の奥まで入ってくる。病院の建物は背中でまだ光っているのに、駐車場の端は暗くて、夜の輪郭だけがはっきりしていた。


 自販機の白い光の下に、結城千景がいた。


 昨日と同じ場所。昨日と同じ立ち方。待っているのに、待っている感じを消す立ち方。人を急かさない。でも、時間は自分のものにしている。


 手に持っているのは缶だった。今日はココアらしい。赤でも黒でもない色が、妙にこの人に似合わない。


「高槻先生」


 結城は俺を見て会釈した。会釈の角度が浅い。丁寧さの形だけ残して、余計な温度を削った会釈。


「どうも」


 俺は白衣のポケットから封筒を出した。手汗で紙の端が少し柔らかくなっている。疲れが、こういうところに出る。


 結城は受け取って、すぐには開けなかった。中身を確認するより先に、封筒の厚みと重みを指先で確かめる。書類を“物”として扱う人の動作だった。


「ありがとうございます。これで余計な工程が減ります」


「工程、って」


 俺が言うと、結城は表情を変えないまま缶のプルタブを開けた。小さな音が夜に響く。缶を一口、喉に流し込む。


「人間社会は工程でできています。工程が増えると、見られます。見られると、居場所が削れます」


 居場所。昨日から刺さり続けている言葉。


 俺は封筒を受け渡しただけなのに、何か大きなものの歯車に指を挟まれた気がした。


「供給形態の変更って、具体的には何が変わるんですか」


 結城は迷わず答えた。


「定期の供給が減ります」


「減る」


「その代わり、緊急枠が増えます」


「増える」


「緊急枠は、理由と証拠が必要です」


 結城は一拍置いて、言い直すみたいに付け足した。


「つまり、書類です」


 嫌になるほど分かりやすい。現場で足りないのは、血だ。だが制度が欲しがるのは、紙だ。


「今日の診断書が、その“証拠”ってことですか」


「ひとつの材料です」


 結城は缶を持ったまま、少しだけこちらに視線を寄せた。


「先生が書かなかった場合、一ノ瀬さんは外部の医療機関を受診する必要が出ます。そこで余計な説明が増えます」


 余計な説明。余計な視線。余計な記録。


 俺は無意識に、白衣の胸ポケットに指を当てた。もう封筒はない。あるのは名札とペンだけだ。


「結城さん、やっぱり“余計”って言葉好きですね」


「好きではありません」


 即答。


「必要だから言っています」


 その言い方で、結城が“好き嫌い”で動く人ではないのが分かる。好き嫌いで動けない人間は、壊れにくい代わりに、壊れたときに派手だ。


 駐車場の向こうから、職員が数人歩いてきた。夜勤入りか、残業明けか。誰もこちらを見ていない。でも“見られたら終わり”の話をしていると、視線が勝手に過敏になる。


 結城が、俺の立ち位置を半歩だけ動かした。自販機の光の縁から、影の側へ。動きが自然すぎて、俺もつられて同じだけずれた。


「……病院の外で話せっていうの、こういうことですか」


 結城は平然と答える。


「そういうことです。病院の中で話すと、音が残ります。人の記憶にも残ります」


「外なら残らない?」


「残ります。ただ、残り方を選べます」


 選べる残り方。変な言い回しだが、意味は分かった。噂の種を、病院の中に落としたくないんだ。


 結城はココアをもう一口飲んで、缶を軽く振った。中身はまだあるのに、振り方が“残量確認”みたいだった。


「今夜、本人に正式に説明します。高槻先生は同席しなくていい」


「……同席しない方がいい、の間違いじゃないですか」


 結城は少しだけ目を細めた。


「同席すると、先生が余計なことを言う可能性が上がります」


「信用されてない」


「信用はしています。先生は真面目です」


 真面目。褒め言葉にも、地雷にもなる単語。


 結城は続けた。


「真面目な人は、説明したくなります。理解してもらいたくなります。本人にとって、それが毒になることがある」


 毒。昨日の電話でも似たことを言っていた。


 俺は、喉の奥にひっかかるものを飲み込んだ。言い返したい気持ちはある。でもこれは、反論して勝てる種類の話じゃない。


「じゃあ俺は、何をすればいいんですか。手順だけでいい、って言うなら」


 結城は答えを用意していた。


「二つだけです」


 また数える。数える人間は怖い。


「一つ。一ノ瀬さんが“助けの出し方を間違えそう”になったら止めてください」


「助けの出し方?」


「病棟の人間関係に持ち込む、という意味です。師長や同僚に、必要以上の説明を始めそうなら止める」


「俺が?」


「先生は医師なので止めやすい。『それは後で』と言えば通ります」


 通る、という言い方が現実的すぎる。確かに医師の言葉は通る。通ってしまうから、怖い。


「二つ目は」


 結城が続ける。


「先生が“助け方を間違えない”こと」


 俺は鼻で笑いそうになった。


「俺、間違える前提なんですね」


「間違えます」


 即答。ひどい。


「先生は、優しくしようとして踏み込みます。踏み込むと、彼女は断れません。断れない人が抱えるものは、後で全部崩れます」


 断れない。崩れる。今日の休憩室の光景が思い出される。


「……じゃあ、どうすればいい」


 結城は缶を持ち上げたまま、淡々と言った。


「先生の得意な言い方でいい。“面倒だから”で十分です」


 またそれだ。


「面倒だから休め。面倒だから帰れ。面倒だから説明するな。面倒だから噂にするな」


 結城の言葉は冷たい。だけど、その冷たさが一ノ瀬さんの世界では防波堤になるのかもしれない。


 俺はふと、昨日の結城の一言を思い出した。


 “あなたも吸血鬼なんですか”


 聞くのは余計だ、と言われた。間違ってはいない、とも言われた。結城は、答えを濁して逃げたんじゃない。境界線を引いたんだ。


「結城さん」


「はい」


 俺は“余計じゃない方”を選んで聞いた。


「今日、一ノ瀬さんが倒れたのは……供給が変わるから?」


 結城は一拍だけ沈黙した。沈黙が短いのに、情報量が多い。


「供給だけではありません」


「じゃあ何ですか」


「仕事です」


 結城は言い切った。


「完璧でいることは、燃えます。燃え続けると、燃料が要る。燃料が足りないと、火が不安定になる」


 比喩が珍しい。結城がこういう言い方をするのは意外だった。役所の人間の言葉じゃない。長く生きた人間の言葉だ。


「先生、彼女は“弱っている”ことを自分で許していません」


「……看護師だから?」


「本人の性格です」


 結城はそこで缶を軽く潰した。音が小さく鳴った。缶が潰れるのは簡単だ。人が潰れるのは静かだ。


「今夜の説明は、その“許さなさ”を少し緩めるためのものです」


「緩むんですか」


 結城は答えなかった。その代わり、腕時計を見た。時間の線を引く癖が出る。


「……先生、当直明けでしょう。帰って休んでください」


「それ、一ノ瀬さんにも言われました」


 言った瞬間に、言葉の中の名前を噛み直した。下の名前を出す癖は、まだない。出しちゃいけない。今はまだ。


 結城は、ほんの少しだけ目を細めた。笑いではない。


「同じ結論に辿り着くのは、良いことです」


 結城は踵を返した。去り方がきれいすぎる。人の会話を“閉じる”のが上手い。


 数歩離れてから、振り返らずに言う。


「高槻先生。余計な優しさは要りません。手順だけでいい」


 そして、駐車場の暗がりに溶けた。


 俺は自販機の白い光の下に残った。冷たい空気の中で、息を吐くと白い。


 手順だけでいい。


 医者の仕事は、確かに手順だ。吐血も、肺炎も、心不全も。手順はある。正解に近い道がある。


 でも、今夜の手順には教科書がない。


 一ノ瀬紗夜が、今夜、どんな説明を受けるのか。

 供給が減るという現実を、彼女がどう飲み込むのか。

 そして、その“飲み込み方”が病棟にどう影響するのか。


 考えるほど余計なことが増える。


 俺は職員通用口へ戻って、病院の光に背中を押された。戻れば現実がある。PHSは鳴る。カルテは残る。SNSも一本上げないといけない。


 それでも、白衣のポケットの中で、角の硬いラミネートカードの感触が消えなかった。


 “倒れたら連絡”


 余計なことはしない。

 必要なことだけする。


 そう思いながら、病院の中へ戻った瞬間、個人のスマホが震えた。


 画面に出た表示は、知らない番号。


 でも、妙に嫌な予感がしない。


 俺は出た。


「高槻です」


 一拍置いて、聞き慣れた声が言った。


「……先生。今、少しだけいいですか」


 一ノ瀬さんの声だった。


 夜が、また一つ増えた。


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