12 診断書
「先生、402、酸素の流量いじってもいいですか」
PHS越しに聞こえるのは、病棟のいつもの声だった。吸血鬼も、制度も、赤いパックも関係ない声。
「いじっていい。SpO2と呼吸回数見ながら。上げすぎてCO2貯めないように」
「はい」
それだけで通話は終わる。朝の病棟は、言葉が短い。短い言葉で回っている。回ってしまう。
一ノ瀬紗夜が職員通用口から消えてから、病棟は何事もなかったみたいに回り続けた。師長は師長の顔で指示を出し、日勤の看護師は日勤の速度で動き、俺は俺の手順で回診をした。
「夜勤明けで立ちくらみ」
それが今日の答えで、それ以上は増やさない。結城に言われた通り。言葉は居場所を壊す。
…でも、居場所は言葉がなくても壊れる。
午前の仕事を一通り片づけた頃、師長が俺を捕まえた。捕まえ方が上手い。逃げ道を塞ぐ角度で立つ。看護師長はそういう生き物だ。
「高槻先生」
「はい」
「さっきの外部の方、結城さん? あの方、事務長経由って言ってたけど」
来た。現場が一番嫌うタイプの匂いがする。
「…詳しくは聞いてないです。支援担当って言ってました」
「支援」
師長がその単語を舌の上で転がす。現場の人間は、支援という言葉に良い思い出が少ない。支援はだいたい、書類と監査と責任の取り合いでできている。
「まあいいわ。今日は一ノ瀬さん、帰したし。こっちで回す」
師長はそこまで言って、急に声を落とした。
「先生。一ノ瀬さん、普段ああいうことないよね」
俺は即答した。
「ないです」
嘘ではない。少なくとも俺が知る限りでは。
師長は短く頷いて、いつもの声に戻った。
「じゃあ、ほんとに立ちくらみね。夜勤明けは誰でもなる。先生も寝て」
寝られたら寝ている。
「了解です」
師長が去って、俺は息を吐いた。今のやり取りだけで、背中が少し疲れた。
◇
昼過ぎ、医局の端でカルテを開いていると、事務長から内線が入った。PHSが普通に鳴る。普通の電話として。
「高槻先生、今いい?」
「はい」
事務長は無駄な前置きをしないタイプだった。だから嫌だ。
「SNSの下書き、できてるって聞いた。今日中に一本上げたいんだけど」
「…一ノ瀬さんがいないので、最終確認が」
「先生が確認して上げて。写真は院内設備でいい。感染対策、なんか固いやつ」
固いやつ。固いやつしか作ってない。
「分かりました」
「あと」
事務長が声を少し落とした。
「さっきの結城さん、事務長室に電話来た。『本人の支援担当』って。先生、何か関わってる?」
関わってる。関わっているように見えるのが、一番厄介だ。
「…当直中に、たまたま居合わせただけです」
「ふうん。先生、余計なことしないでね」
事務長が、珍しく柔らかい声で言った。柔らかい声の事務長は信用ならない。柔らかい声ほど、後で締め付ける。
「分かってます」
通話が切れた。
俺は机に肘をついて、一度だけ目を閉じた。余計なことはしない。必要なことだけする。
必要なことは、どこまでだ。
◇
夕方が近づいた頃、PHSじゃない方が鳴った。個人のスマホ。知らない番号。
嫌な予感しかしない。こういう予感はたいてい当たる。
出る。
「高槻です」
「高槻先生でしょうか」
困った声ではない。困っていない声。結城千景だった。
「はい」
「今夜、お時間をいただけますか。十五分で終わります」
五分が十五分に伸びている。悪化してる。
「一ノ瀬さんの件?」
「はい。供給形態の変更について、本人へ正式に説明します。その前に、先生に一つお願いがある」
お願い。結城がその単語を使うのは珍しい。
「何ですか」
「診断書です」
俺は言葉を失った。
診断書。
病院の世界で、その紙は重い。紙一枚で人を守れることもあるし、殺せることもある。
「…何の診断書ですか」
結城は淡々と答えた。
「今日の件を“立ちくらみ”としてまとめたもの。医療的な所見として。特別供給の判断材料になります」
特別供給。つまり、足りていない。
「それ、俺が書く必要あります?」
「先生が今日、現場で見た。先生が一番自然です。余計な説明を減らせる」
結局それだ。余計を減らす。言葉を増やさないために紙を増やす。制度って、だいたいそういうものだ。
「俺は、“関与しない”って言われましたけど」
結城は間を置かずに返した。
「関与しないのは補給の実務です。医療的記録は別です。先生が書かなければ、外部の医療機関で新規に受診して、そこで余計な説明が必要になる」
余計な説明。余計な目。余計な記録。余計な噂。
嫌になるくらい、筋が通っている。
「…分かりました。今日中に?本人以外にですか?」
「はい。今夜、本人に説明する前に」
「どこで渡せばいいですか」
結城はあっさり言った。
「病院の外。職員通用口の近く。昨日と同じ場所で」
そこが「同じ場所」になっていることが、もう嫌だった。日常になってきている。
「了解です」
通話が切れた。
俺はスマホを伏せて、しばらく動けなかった。
診断書を書く。
誰かのために、制度を動かすために、紙を書く。
三年前、俺が上司に口を出したのも、結局は「こうした方が患者が助かる」と思ったからだった。正しかったかどうかは分からない。だが、あの時も俺は“紙の外”で暴れた。
今回は紙の中で動け、と言われている。
そういうのは、俺の性格に合わない。
でも、合わないからこそ、今やる価値がある気がした。
◇
診断書、といっても書き方はいくつかある。
病院の正式書式で残せば、院内に履歴が残る。残ること自体がリスクになる。
個人のメモレベルでは、制度は動かない。
外部提出用の簡易な書面として、最小限の所見だけを書く。たぶん、それが結城の狙いだ。
俺は医局のプリンタの前で、一枚の用紙を出した。病院のロゴは入れない。書式も凝らない。必要最小限。
そして、書き始めた。
「令和○年○月○日、職員休憩室にて立ちくらみ、冷汗、ふらつきを訴え……
起立性低血圧による一過性の意識消失……」
書きながら、気づく。
俺はこの文章を、一ノ瀬紗夜のために書いているのに、吸血鬼という単語を一文字も使わない。
それでいい。というか、それがいい。
症状。バイタル。対応。経過。
医療者の言葉だけで、現実を覆う。
それは嘘ではない。
ただ、“全部ではない”。
書き終えて、署名欄に自分の名前を書く。
高槻 恒一。
ペン先が紙の上で止まった。
この署名が、余計なことになるか。必要なことになるか。
一ノ瀬さんの言葉がよぎる。
「仕事中の私に、持ち込まないでください」
「必要なときは、必要なことをしてください」
今は仕事じゃない。
でも必要だ。
俺は署名を終えた。
◇
用紙を封筒に入れようとしたところで、背後から声がした。
「高槻先生」
振り返ると、医局の入り口に事務長が立っていた。タイミングが悪い。悪すぎる。
「先生、まだいたんだ。お疲れ」
「…はい。少し残務で」
事務長の目が、俺の手元に一瞬だけ落ちた。紙。封筒。ペン。
「それ、何の書類?」
来た。ここで言葉を増やしたら負ける。
俺は、結城に言われたことを思い出した。言葉は居場所を壊す。
だから、増やさない。
「職員の体調不良のメモです」
嘘ではない。全部でもないだけだ。
事務長は一拍だけ黙った。たぶん、噛み砕いている。
「ふうん。誰の?」
ここで名前を出したら、余計が増える。
「必要なところにだけ渡します」
事務長の口角が、ほんの少し上がった。笑顔ではない。確認が取れなかった顔だ。
「先生、ほんと余計なことしないでね」
またそれだ。
「分かってます」
俺が言うと、事務長はそれ以上踏み込まずに去っていった。去り際に、軽く言う。
「あ、SNS、今日中に一本ね」
現実が刺してくる。
俺は封筒を握ったまま、椅子に座り直した。疲れが一気に来た。吐血の夜勤より、こういう昼の方が効くことがある。
外はもう暗くなり始めている。
病院の外で、結城が待っている。
そしてたぶん、その後に一ノ瀬紗夜への「正式な説明」がある。
供給形態の変更。
早い、という特徴。
特別供給。
俺は封筒を白衣のポケットに入れた。
余計なことはしない。
必要なことだけする。
それが、今夜どこまで通用するかは分からない。
それでも、職員通用口へ向かって歩き出した。




