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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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11 手順

 


 結城 千景は、職員休憩室のドアを自分の背中でそっと閉めた。


 外の廊下の音が一段遠くなる。病棟の雑音が消えるわけじゃない。ただ、会話が漏れにくい距離になる。そういう閉め方だった。


「おはようございます、高槻先生」


 結城は俺にだけ会釈して、それから床の一ノ瀬紗夜に視線を落とした。


「紗夜さん。……今回は、早かったですね」


 一ノ瀬さんは目を閉じたまま、息だけで答えた。


「……自覚してます」


「自覚は、対策ではありません」


 結城の言い方は冷たいのに、声のトーンは一定で、責めている感じが薄い。叱っているというより、仕様確認みたいだった。


 俺は立ったまま、邪魔にならない位置にずれた。


「血圧、低いです。意識はあります。症状は立ちくらみ。胸痛とか息苦しさは否定」


 結城は俺を一度だけ見て、頷いた。


「ありがとうございます。先生の対応は適切です」


 褒められると落ち着かない。褒め言葉が、評価票の文言みたいに聞こえる。


 結城はしゃがんで、一ノ瀬さんの顔色を見た。まぶたの裏まで見透かすような視線。医者が患者を見るときの視線とは、種類が違う。診断というより、管理。


「最後に補給したのは?」


 一ノ瀬さんが小さく答えた。


「……さっき。少しだけ」


「どのくらい」


「……言う必要ありますか」


「あります」


 結城は即答した。これがこの人の怖さだ。躊躇がない。


 一ノ瀬さんが、渋々、息を吐く。


「一口、二口……くらいです」


 結城は赤いパックに視線を向けた。触らない。見るだけ。


「足りない量ですね」


 一ノ瀬さんが、少しだけ顔をしかめた。


「……味が、ね」


 味。


 倒れてるのに味の話をするのが、この人らしい。俺はそこで妙に現実感が戻った。吸血鬼でも、好き嫌いはある。


 結城はカバンを開けた。小ぶりで、やけに無駄がない。手帳と同じサイズ感。中から出てきたのは、医療機器ではなかった。小さなパック。さっきのより容量が明らかに少ない。なのに赤が濃い。


 結城が言う。


「今日はこっち。濃いほうです」


 一ノ瀬さんが目を開けた。ほんの少しだけ、目が生きる。


「……持ってたんですか」


「持っていました。昨日から持っていました」


 昨日から、という言い方が嫌だった。予測していたのか、準備していたのか。どちらにせよ、結城は“当たる”側の人間だ。


 結城はパックを床に置いた。わざと一ノ瀬さんの手の届く位置に。


「先生」


 結城が俺を見た。


「ここから先は、医療ではありません」


 言われなくても分かる。だが線を引かれると、逆に意識してしまう。


「分かりました」


 俺は視線を逸らす。壁の掲示物を眺めるふり。さっきと同じ人生。


 背後で、パックの口を開ける音がした。


 ごく、という喉の音は短い。量が少ないぶん、早い。気まずさが短くて助かる。


 結城が淡々と数えるみたいに言った。


「もう一口」


 一ノ瀬さんが、少しだけためらってから、もう一口飲む。


「止めて」


 結城が言うと、一ノ瀬さんは素直に止めた。


 結城は何も触らず、ただ見ている。監視じゃない。測定だ。目で測っている。


 俺はその横顔を見て、やっぱり思ってしまった。


 この人、役所の人間の皮をかぶった何かだ。


 結城が言った。


「どうですか」


 一ノ瀬さんが天井を見て、息を整える。


「……戻ります」


 その一言が、今までで一番ありがたかった。戻る。現場の言葉だ。調子が戻る。手順に戻る。人間の社会に戻る。


 結城は短く頷いた。


「今は起き上がらない。三分」


「はい」


 素直すぎて、逆に怖い。普段の一ノ瀬さんは、こういう返事をしない。つまり、今は本当に弱っている。


 結城は腕時計を見た。三分を測っているらしい。時間の扱いが一貫している。人間関係にも、補給にも、時間の線を引く。


 俺は、その間に“必要なこと”だけを言う。


「師長には、夜勤明けの立ちくらみで休憩中って伝えます」


 結城は頷く。


「それで十分です」


「救外には運ばない」


「運ぶ必要が出たら運びます。先生の判断で」


 その言い方が、さっきの「特別扱いしないのが特別扱い」につながる。


 結城は一ノ瀬さんに視線を戻し、声を落とした。


「紗夜さん。今日は帰ります」


「帰れません」


 即答。弱っていても、そこは即答する。


「夜勤明けです」


「日勤の引き継ぎが」


「終わっています」


 結城の言葉も即答だった。断言する。逃げ道を潰す。


 一ノ瀬さんが、目を閉じて小さく言った。


「……師長が嫌な顔します」


 結城は、まるで仕様書を読むみたいに言った。


「師長が嫌な顔をするのは、あなたの責任ではありません」


 それは正しい。正しすぎて、現場では通らない種類の正しさだ。


 一ノ瀬さんも分かっている。だから言い返せない。


 結城が続けた。


「帰宅後、連絡が取れるようにしておいてください。供給形態の変更、今日の夕方に正式に説明します」


 一ノ瀬さんのまつ毛が動いた。


「……今日?」


「今日です」


「早すぎません?」


「早いのは今回の特徴です」


 結城はさらっと言った。今朝の「今回は早かったですね」と同じ口調で。


 俺は一ノ瀬さんの横顔を見た。完璧な中堅看護師の顔が、今は薄い。薄い顔は、若く見える。年齢相応に見える。二十代後半の女性が、夜勤明けに無理をしている顔だ。


 結城が腕時計を見た。


「三分です」


 一ノ瀬さんが、ゆっくり起き上がろうとして、結城に止められる。


「まだ」


「もう動けます」


「動けるのと、動いていいは違います」


 一ノ瀬さんが少し笑った。


「それ、先生っぽいですね」


 結城は真顔のまま返す。


「先生の真似をしています」


 俺は思わず口を挟んだ。


「俺、そんな言い方します?」


 結城が一瞬だけ俺を見る。


「します」


 即答。ひどい。


 一ノ瀬さんが、今度はちゃんと笑った。短いけど、声が混じった笑い。


 その笑いが出た時点で、少し安心した。笑えるなら、まだ戻れる。


 結城は立ち上がって言った。


「高槻先生」


「はい」


「今日の扱いは“立ちくらみ”で統一してください」


「分かってます」


「念のため。あなたは真面目なので、説明したくなります」


 嫌なほど当たっている。


 結城は、床に置かれた赤いパックのうち、さっきの“濃いほう”を自分のカバンに戻した。空ではない。残りがある。余計なものを残さない。痕跡を減らす。手順だ。


 逆に、最初に転がっていたほうのパックは、そっと一ノ瀬さんのブランケットの端に寄せただけで触れなかった。


「それは?」


 俺が聞くと、結城は即答した。


「彼女のものです。こちらが触れる必要はない」


 触れないのも手順らしい。


 結城が一ノ瀬さんに目を向ける。


「紗夜さん、立てますか」


「……はい」


 一ノ瀬さんはゆっくり立ち上がった。足元は少し危うい。でも倒れるほどではない。結城が腕を貸そうとする気配はない。貸したら特別扱いになる。結城はそこを徹底する。


 その代わり、結城は俺を見る。


「先生、立ち上がりのふらつきだけ見てください」


「分かった」


 それは医者の仕事として自然だ。俺が一ノ瀬さんの肘の近くに手を添える。触れないギリギリ。支える準備だけ。


 一ノ瀬さんが小さく息を吐いて、体を真っ直ぐにした。


「大丈夫です」


 今の「大丈夫」は、少しだけ信用できた。


 結城はドアの方へ向かいながら言った。


「では帰りましょう。目立たない経路で」


「目立たない経路って何ですか」


 俺が聞くと、結城は振り返らずに答えた。


「病院の外には、目立たない経路がいくつもあります。先生もご存じでしょう」


 俺は知らない。知らないが、知らないと言いたくない。こういうやり取りは負けた気がする。


 結城がドアを少し開けて、廊下の様子を目だけで確認した。


「今です」


 まるで夜間の病棟で、誰にも見つからずに移動する看護師みたいな動きだった。


 一ノ瀬さんが小さく言う。


「先生」


「はい」


「探さないで、って言ったのに」


「探してない。呼ばれた」


 一ノ瀬さんが、少しだけ笑った。


「……言葉がずるい」


 ずるいのは、俺の生存戦略だ。そうしないと、夜勤で心が削れる。


 俺たちは休憩室を出た。


 廊下は朝の雑音で満ちている。でも結城は人の流れを避けるのが上手かった。曲がり角、タイミング、ドアの開閉。全部が滑らか。病院に慣れている。いや、病院という“制度”に慣れている。


 職員通用口の手前で、結城が足を止めた。


「高槻先生」


「はい」


「一つだけ、確認します」


 結城の声がほんの少しだけ硬くなった。


「先ほどの補給の場面を、誰かに見られましたか」


「俺と、最初に呼びに来た看護師だけです。飲んでるところは、俺しか見てない」


 結城は頷いた。


「その看護師には、何と言いますか」


「立ちくらみで座り込んでた。以上」


「それで十分です」


 結城が、そこで初めて俺の目を見て言った。


「先生は、言葉を増やさないでください。言葉は、居場所を壊します」


 結城の言葉は冷たい。冷たいのに、守る方向に向いているのが分かる。


 俺は頷いた。


「分かりました」


 その時、背後から声がした。


「一ノ瀬さん?」


 師長の声だった。


 振り返ると、師長がこちらを見ている。目が鋭い。管理者の目。気づく人間の目。


 一ノ瀬さんが、いつもの仕事の声で言った。


「すみません。夜勤明けで少し立ちくらみがして。今から帰ります」


 完璧な報告。余計がない。必要だけ。


 師長は俺を見た。


「高槻先生、そうなんですか」


 俺は頷くだけで返した。


「ええ。今朝、ふらついたので。帰した方がいいです」


 師長は一ノ瀬さんに視線を戻し、短く言った。


「分かった。今日は休んで。無理しないで」


 そして師長は、俺にだけ聞こえるくらいの声で付け足した。


「……でも、SNSの件、午後に写真撮る予定だったよね」


 来た。朝は容赦なく次の面倒を運んでくる。


 一ノ瀬さんの肩が、ほんの少しだけ固くなった。


 結城が、初めて口を挟んだ。


「失礼します」


 師長の視線が結城に向く。見慣れない外部の人間。警戒が走る。


 結城は名乗りもしないまま、でも名乗ったみたいな顔で言った。


「一ノ瀬さんは本日、体調不良です。写真撮影は延期してください。必要なら、病院の窓口に正式な連絡を入れます」


 師長が眉を上げた。


「……あなたは?」


 結城は一拍だけ置いた。


「本人の支援担当です。詳細は事務長へ」


 事務長、という単語が出た瞬間、師長の顔が一段固まった。現場の人間が一番苦手なワードだ。上の人間のワード。


 師長はそれ以上追及しなかった。


「……分かりました。延期します」


 結城は会釈もしない。礼を言わない。余計を乗せない。


 そのまま一ノ瀬さんを連れて、職員通用口の外へ出た。


 俺はその背中を見送って、息を吐いた。


 助かった、と思った。

 同時に、怖いとも思った。


 結城 千景という存在は、助ける。

 でも助け方が、制度そのものだ。人間の温度ではない。


 俺のPHSが鳴った。


 今度は病棟内線。普通に電話として鳴る。


「高槻です」


「先生、すみません、402の酸素の件で……」


 現実が戻ってくる。病棟の朝が、容赦なく戻ってくる。


 俺は返事をしながら、白衣のポケットの中のラミネートカードを指で押さえた。


 余計なことはしない。

 必要なことだけする。


 その「必要」が、今日また増えた。


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