10 赤いパック
職員休憩室のドアを開けた瞬間、空気の匂いが変わった。
コーヒーと、電子レンジで温めた何かと、洗剤の残り香。いつもの休憩室の匂い。その中に、もう一つだけ混ざっている。
甘ったるい、鉄っぽい匂い。
床に、一ノ瀬紗夜が座り込んでいた。背中をロッカーに預け、膝を抱えるような姿勢。目は開いているけど、焦点が少し遠い。
足元に、透明なパックが転がっている。中身は赤い。昨夜見たのと同じやつだ。
「先生……」
後ろから、若い看護師の声がした。怯えと罪悪感が混ざった声。
「職員休憩室、勝手に開けちゃってすみません。でも、呼んでも返事がなくて……」
「いい。正しい」
俺は言って、すぐにしゃがみ込んだ。医者の体が勝手に動く。
「一ノ瀬さん。聞こえますか」
一ノ瀬さんは、ゆっくり目だけ動かして俺を見た。
「……聞こえます」
声は出る。意識はある。まずそれだけで、世界が一段戻る。
「倒れた?」
「座っただけです」
負けず嫌いがまだ残っている。なら大丈夫なほうだ、と俺は判断した。
「座ったまま動けなくなったのを、世間では倒れたって言う」
一ノ瀬さんが、口角を上げようとして失敗した。笑いじゃない、反射の形だけ。
俺は手首に指を当てて脈を取る。速い。細い。
「吐き気、胸痛、息苦しさ」
「ないです」
「目の前暗くなった?」
「……少し」
「じゃあ、今から横になってください」
「ここ、汚い」
「今日だけは我慢して」
俺が言うと、一ノ瀬さんは渋々、体を横にずらした。若い看護師が慌ててブランケットを持ってきて下に敷く。
俺はその間、赤いパックが視界に入らない角度に体を置いた。わざとじゃない、たまたまそうなった、という体で。
「血圧計と、SpO2。あと、できれば血糖測れるやつ」
若い看護師は「はい」と返事をして飛び出した。
休憩室に残ったのは、俺と一ノ瀬さんだけになった。
一ノ瀬さんは天井を見たまま、小さく言った。
「探さないでくださいって……言いましたよね」
「探したんじゃない。呼ばれた」
「……そうですね」
言い返す気力はないらしい。そこが、余計に怖い。
俺は声のトーンを落とした。
「倒れる前に言えって、言った」
一ノ瀬さんは、少しだけ目を細めた。
「言うつもりでした」
「結果、言ってない」
「……はい」
会話が短い。短いほど、切実になる。
俺は足元の赤いパックに視線を落とした。ラベルは見ない。見たら余計な情報が増える。
「それ、飲める?」
一ノ瀬さんの喉が小さく動いた。
「……今、飲まないと」
今、という言い方が嫌だった。ここまで来るまで我慢した、という意味に聞こえる。
「じゃあ飲んでください」
俺が言うと、一ノ瀬さんが少しだけ目を見開いた。
「先生、それ……」
「関与しない、って話なら、飲ませるんじゃない。あなたが飲む」
言い訳だ。でも言い訳の形でしか、俺は動けない。
一ノ瀬さんは一瞬迷って、それから小さく頷いた。
「……見ないでください」
「見ない」
俺は視線を壁に固定した。休憩室の壁紙の柄を真剣に観察する人生が来るとは思わなかった。
背後で、パックの口が開く音がした。ごく、という喉の音。生々しいのに、どこか日常的で、妙に気まずい。
数秒。たぶん、十秒も経っていない。
「……もういいです」
一ノ瀬さんの声が、ほんの少しだけ戻った。声の芯が戻る。夜勤の声に近い。
俺が振り返ると、一ノ瀬さんは赤いパックをブランケットの端にそっと置いていた。顔色はまだ悪いが、目の焦点が近くなっている。
「気持ち悪い?」
「大丈夫です」
おなじみの言葉が、今は少しだけ信用できた。
そこへ、若い看護師が機器を抱えて戻ってきた。
「先生、持ってきました!」
「ありがとう。じゃあ測ろう」
血圧計のカフが巻かれる。SpO2が指に付く。数字が出るのを待つ間、一ノ瀬さんは視線だけで赤いパックを隠すように動かした。隠し方が上手い。上手すぎる。
若い看護師が、数字を見て息を呑んだ。
「……血圧、低いです」
「どんくらい?」
「上が……えっと……」
言い淀むのを、俺は止めた。
「声に出さなくていい」
休憩室は壁が薄い。数字が独り歩きすると面倒になる。
「一ノ瀬さん。今は起き上がらないで。足、少し上げます」
俺がブランケットを丸めて足の下に入れると、一ノ瀬さんは小さく息を吐いた。
「先生、手慣れてますね」
「ははっ、当直で吐血の患者見るくらいだからね。倒れた職員くらい、なんてことないよ」
一ノ瀬さんが、今度はちゃんと笑った。短く、乾いた笑い。
若い看護師が遠慮がちに言った。
「あの……救外に運びますか?」
俺は即答しなかった。救外に運べば、採血だの心電図だのが始まる。普通ならそれが正しい。でも普通の正しさが、彼女の居場所を削る可能性がある。
結城の声が頭を掠める。
特別扱いしないのが特別扱いです。
俺は考えるのをやめて、今できる「普通」を選んだ。
「まずここで、十分横になって。症状が戻らないか見る。戻るようなら救外。今この瞬間に担架は要らない」
若い看護師は少し安心した顔をした。
「じゃあ……師長には?」
「師長には、“夜勤明けの立ちくらみで休憩中”で十分。余計な説明はいらない」
若い看護師は頷いて、部屋を出ていった。扉が閉まる。
静けさが戻る。
一ノ瀬さんは天井を見たまま、ぽつりと言った。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「迷惑かけました」
「迷惑は、まあ、かかった」
俺は一拍置いて続けた。
「でもそれは、仕事の迷惑だ。人間関係の迷惑じゃない」
一ノ瀬さんが、目だけこちらを向けた。意味を測る目。
俺は言い切った。
「今のは、体調不良。以上。吸血鬼の話にしない」
一ノ瀬さんの喉が小さく動いた。言葉になりかけて、飲み込まれる。
代わりに、短く返ってきた。
「……ありがとうございます」
礼を言われるのは相変わらず苦手だ。でも今は、拒否するのも余計だ。
俺は白衣のポケットの中のラミネートカードに指を当てた。角が痛い。
「連絡する」
一ノ瀬さんが反射で言った。
「自分でできます」
「できてないから、今ここにいる」
一ノ瀬さんは言い返せなかった。悔しそうな顔をして、そのまま目を閉じた。
俺は休憩室の隅に移動して、PHSで番号を押した。普通に電話をかける。普通の手つきで。
数コールで繋がる。
「結城です」
声が変わらない。朝でも夜でも同じ声。
「高槻です。一ノ瀬さんが職員休憩室で体調崩して、今横になってます。意識はあります。……補給は、さっき少し」
言ってから気づく。俺は「補給」という単語を、もう自然に使っている。
結城は淡々と答えた。
「ありがとうございます。先生の判断で正しいです。今の場所を動かさず、十五分だけ様子を見てください。こちらから伺います」
「伺う、って……病院に?」
「はい。目立たないように」
目立たないように、という言い方が嫌に現実的だった。
「分かりました」
「先生」
「はい」
「そのパックには触れないでください。誰にも見せない。破棄もしない。彼女のものです」
「……了解です」
結城は最後に、いつもの調子で言った。
「余計なことは、しないでください」
通話が切れた。
俺はPHSをポケットに戻して、一ノ瀬さんの方へ戻った。彼女は目を閉じている。呼吸は安定している。まだ倒れている。でも、戻ってきている。
「結城さん、来るって」
俺が言うと、一ノ瀬さんは目を開けずに、かすかに頷いた。
「……すみません」
「謝るな、って言った」
「じゃあ」
一ノ瀬さんが小さく言う。
「面倒かけました」
「それなら認める」
俺が言うと、一ノ瀬さんの口角が少しだけ上がった。笑いの形。職場の笑いじゃない。
休憩室のドアが、控えめにノックされた。
コン、コン。
俺が立ち上がるより先に、ドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは、黒っぽいコートの男だった。缶コーヒーを持っている。表情が困っていない。
結城 千景。
「おはようございます、高槻先生」
そして床に横たわる一ノ瀬紗夜に視線を落とし、声の温度を一ミリも変えずに言った。
「紗夜さん。……今回は、早かったですね」
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