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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
血液パックの彼女

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01 夜勤の倉庫で、赤いパック

新作です。

 地方の関連病院に飛ばされて一年弱、夜は相変わらず長い。


 病棟の蛍光灯は、昼より夜のほうが白い。人の顔色を余計に悪く見せる白さだ。廊下のワックスの匂いと、消毒アルコールと、どこかの部屋から漏れる加湿器の生ぬるい湿気が混ざって、眠気をゆっくり腐らせていく。


 当直表の自分の名前を見ても、もう胸は高鳴らない。大学で「当直=修行」みたいな顔をしていた頃の自分を、今の俺が見たら軽く殴りたい。修行じゃなくて、ただの労働だ。しかも、色が薄い生活。


 高槻 恒一、三十五。消化器内科。卒後十一年。


 この病院では、消化器の病気はたまにしか来ない。多いのは肺炎と尿路感染症、脱水と低栄養。治すというより、持ちこたえさせる。良い悪いではなく、そういう土地の病院だ。


 さっき入院させたのも誤嚥性肺炎の高齢男性だった。救急外来で抗菌薬を入れて、酸素を付けて、ベッドが空いている病棟に上げた。今のところバイタルは安定している。だけど「安定している」は、よく裏切る。


 だから俺は、眠る前に一度だけ、病棟に上がることにした。


 ナースステーションの前を通る。夜勤の看護師たちがモニターを見て、記録を打って、誰かのコールに目だけで反応している。働き方って、性格が出る。俺はこの病院に来て、やたらとそれを見るようになった。


 一ノ瀬さんは、今日も背筋がまっすぐだった。


 短めの髪。派手じゃないのに、目が止まる整い方。言葉は丁寧で、動きに無駄がない。点滴のルートは絡ませないし、記録の抜けも少ない。こちらが指示を出す前に「確認します」と言って、必要な情報を揃えて持ってくる。


 できる人間は、できるふりをしない。ただ、できる。


 だから俺は、一ノ瀬紗夜とほとんど話したことがない。話す必要がなかった。


 新規入院の患者の部屋へ行くには、ナースステーションから回り込むのが正道だ。でも少し遠い。夜に正しい道を歩くほど、人生に余裕はない。


 俺はショートカットで、倉庫のある裏の通路に入った。


 機材や消耗品を置く、細長い通路。扉がいくつも並び、そこだけ空気が乾いている。病棟の空気とは違う匂いがした。段ボールと、プラスチックと、金属の冷えた匂い。


 一番奥の扉が、ほんの少しだけ開いていた。


 人が入った気配。


 その瞬間、俺の頭が勝手に「インシデント」を数え始める。夜間の倉庫。鍵の管理。転倒のリスク。勝手に持ち出される備品。誰が、何を――。


 扉の隙間から見えたのは、白衣でも患者でもなかった。


 看護師のユニフォーム。細い首筋。肩甲骨のライン。


 そして、その人の手の中に、透明なパックがあった。


 中身は、赤い液体。


 血液製剤のように見える。だが、病院で見るそれとは少し違う。ラベルの色が違う。バーコードも、見慣れた形式じゃない。何より、持ち方が違った。点滴として持つのではなく――飲む、みたいに。


 一ノ瀬さんが、パックの注入口に口をつけようとしていた。



 世界が一拍だけ止まる。



 俺が言葉を探している間に、彼女は先にこちらを見た。驚いた顔ではなかった。見つかった、という顔ですらない。夜勤のナースが、廊下で医者とすれ違うときの、あの「お疲れさまです」の表情。


 ただ、瞳の奥のピントだけが少し鋭かった。


「高槻先生」


 倉庫の白い灯りの下で、彼女は静かに言った。


 俺は喉の奥で、叫びと笑いと警戒がぶつかるのを感じた。叫ぶのは簡単だ。笑うのも簡単だ。警戒は、疲れる。


 医者として最初に出たのは、情緒の言葉じゃなかった。


「……それ、冷えてますか」


 自分でも意味が分からない。だが口が勝手に動いた。血液って、冷蔵管理が基本だ。中途半端に常温に戻すと、いろいろ面倒になる。そもそも、これは血液なのか。


 彼女は一瞬だけ目を細めた。感情の形が、ほんのわずか揺れた。


「はい。問題ない温度です」


 問題ない温度、という言い方が妙に事務的で、妙に慣れていた。


 俺は扉をもう少し開け、倉庫の中へ半歩だけ踏み込む。消耗品の棚と、予備の車椅子と、封の切られていない段ボール。どこにでもある病院の裏側。そこに、赤いパックを持つ完璧な看護師がいる。


「それ……病院のじゃないですよね」


 言ってから、言い方が弱いと思った。問い詰めていない。確認しているだけだ。俺の口は、いつからこんなに日和るようになったんだろう。


 一ノ瀬さんは、パックを口から離し、胸の前で持ったまま答えた。


「病院のものではありません」


 きっぱり。


 その言い方は、「盗ってません」に聞こえたし、「説明はしません」にも聞こえた。


 俺はさらに踏み込みたくなる。医者の悪い癖だ。理由を知りたがる。分類したがる。診断名をつけたがる。名前をつければ、安心できると思っている。


 でも、この倉庫で彼女に名前をつけた瞬間、何かが壊れる気がした。彼女の生活も、俺の生活も。


 俺は息を吐き、視線を外して、棚のラベルを眺めるふりをした。


「……体調、悪いんですか」


 彼女の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。笑いではなく、反射だ。笑いと同じ筋肉を使って、笑いじゃないものを作った顔。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 礼まで言うのが、余計に怖い。俺が怖いのは赤いパックじゃない。あまりにも落ち着いた“対処”だ。ここに手順がある気がする。彼女の中に、マニュアルがある。


 俺は、たぶん一番卑怯な選択をした。


「……分かりました」


 分かってないのに。


「今のは、見なかったことにします。……ただ、倒れないでください。面倒なので」


 最後の「面倒なので」は、俺の防波堤だった。優しさを言うと、踏み込みになる。踏み込みは、俺には重い。


 一ノ瀬さんは、首だけ小さく縦に動かした。


「はい」


 それだけだった。


 俺は倉庫を出て、廊下を歩く。背中に視線が刺さっている気がして振り返りたくなる。でも振り返らない。振り返ったら、続きを始めてしまう。


 病室で患者の呼吸音を聞き、モニターの波形を確認し、必要がないことを確認して、ナースステーションに戻る。


 ふと見ると、一ノ瀬さんはいつも通りの場所で、いつも通りに記録を打っていた。


 完璧な看護師。


 さっきの光景が、夢みたいに薄れる。夢にしてしまえば楽だ。


 俺は当直室に戻って、椅子に座り、紙コップのコーヒーを飲んだ。苦い。砂糖が足りない。いや、人生のほうが足りないのか。


 時計を見る。午前三時半。


 眠れるはずがない。


 そのとき、当直室のドアが軽くノックされた。


「高槻先生」


 声を聞いただけで分かった。夜勤の現場で、声がブレない人の声だ。


 ドアが開き、一ノ瀬紗夜が立っていた。表情は職場用の丁寧さ。さっき倉庫で見た、あの“隙”は一切ない。


 彼女は、まるで何もなかったみたいに言った。


「今、もしお暇でしたら……夜間備品の確認、手伝っていただけますか」


 暇だったら。


 その言葉が、妙に刺さる。


 俺は、返事をする前に思った。


 これは会話じゃない。業務だ。業務の形をした、何かだ。


「……分かりました」


 俺が立ち上がると、一ノ瀬さんは軽く会釈した。


「ありがとうございます。すぐ終わります」


 すぐ終わる、と言う人ほど、終わらないものを抱えている。


 俺は彼女の後ろについて、病棟の白い廊下へ出た。


 倉庫の扉が、また見える。


 今度は、見なかったことにできない気がした。


いつもありがとうございます。


少しでも、

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