最終話:台風のよる、君ひそやかに。
ゆっくりと、目を開いた。
あまりにも穏やかな景色で、天国かと思った。
気がつくと、静かな空中にいて、モチコはホウキに乗っていた。
いつもと違い、ミライアと正面から抱き合う形になっている。
「モチコ?」
ミライアの声が聞こえて、モチコは顔を上げた。
やさしい表情をした先輩と目が合う。
「気が付いたみたいだね。よかった」
ミライアはそう言うと、モチコの身体をぎゅう、と強く抱きしめた。
その心地よい痛みで、自分がまだ生きていることを実感する。
モチコは左手に握っていた黒ぶちメガネを、しっかりと掛け直した。
「ここは……?」
周りを見渡してみると、高くて厚い雲に囲まれていた。
上空だけは晴れていて、空に月が見える。
まるで巨大な雲のなかにぽっかりと空いた、穴のような空間だ。
「静か……ですね」
モチコは思わずつぶやいた。
そこは、雲のなかに隠された聖域であるかのように、静謐な場所だった。
「台風の目だ。まさか、本当にあるとは思わなかった」
「目……?」
「そう、台風の目。シグナスの魔女のあいだで伝わる、伝説みたいなものだったんだけど」
ミライアは、周りを囲んでいる雲の壁を見回す。
「巨大な台風の真ん中に、なぜか瞳みたいに丸い穴が空いてて、風の無い空間があるって話」
「これが、台風の目……」
「そう。初めて見た」
あらためて周りを見渡した。
360度、全方向が、巨大な雲の壁で覆われている。
この雲が台風だとすれば、状況はいまだ最悪であることを意味していた。
「……ここから、脱出できますかね?」
モチコの問いかけに、ミライアは何も答えなかった。
ふと、モチコは自分が着ている制服に違和感を感じて、触って確かめてみる。
制服の大部分が焦げていて、一部は擦り切れていた。
そうか、あのとき、私はカミナリに撃たれたんだ。
魔導繊維が織り込まれた制服が、身代わりになってくれたようだ。
「……先輩?」
長いあいだ、何も言わないミライアに、モチコはもう一度呼びかけた。
ミライアは高い雲の壁を見上げていた顔を下ろすと、モチコとまっすぐに目を合わせ、ゆっくりと口を開く。
「モチコ」
「はい」
それは、モチコを安心させようとするような、やさしい口調だった。
「私はもう、だいぶ魔力を使ってしまった。残っている魔力は、もうわずかだ」
「……」
「あと数分もすれば、魔力が切れてホウキは落ちる」
ミライアはモチコから目を逸らさず、決意のこもった声で言った。
「私が魔力切れで意識を失ったとしても、モチコなら泳いで陸地にたどり着けるかもしれない」
そうか。
モチコは気づいた。
――先輩は、自爆覚悟で私だけでも救おうとしている。
ああ、先輩は。
こんなときでも、先輩なんだな。
凛として美しくて、かわいいのにかっこいい。
胸の奥から、恐怖心どころか、いとしさがこみあげてきた。
「私の残りの魔力を全部使って、何とかモチコだけでも帰す方法を……」
「――先輩」
モチコはミライアの言葉を遮った。
「出会ったときと、同じですね」
覚悟を決める。
「え?」
「手を伸ばしたら、先輩が掴んでくれました」
モチコは手のひらをぎゅっと、こぶしにして握った。
「もう諦めていたこの夜空へ、先輩が、連れてきてくれました」
先輩の赤い瞳を、じっと見つめる。
「先輩、私が魔法を使えるようにするって、約束しましたよね」
「ああ……」
魔女の名にかけて、先輩がしてくれた約束。
「だから、私が魔法を使えるようになるまで、先輩は、私と離れてはダメです」
「……」
モチコは、強い決意を込めて言った。
「だから、絶対にふたりで帰ります」
すこしのあいだ、お互いに無言だった。
上空にいまだ雲はなく、月がふたりを照らしている。
うつむいたモチコの黒ぶちメガネに、月明かりが反射した。
「先輩に、秘密にしていたことがあるんです」
「秘密?」
「今まで、この夜空で何度もやった実験――。最速で空を飛ぶ方法なんですけど……」
モチコは、ほんの少しだけ迷ったあと、続ける。
「……たぶん、正解を知っています」
「え!?」
驚くミライア。
「ただ、それをやるには、勇気……というか。決心が必要なので、黙っていました」
「どういうこと?」
「私が魔力切れで気を失うかもしれないので、落ちないように結んでおきます」
モチコはそう言いながら、紐の焦げた部分をなおして、ふたりの身体を結び始める。
正面から抱き合う形のふたりが、ホウキの上で固く結ばれた。
モチコが持っていたスクロールの残りも、全部ミライアへ渡しておく。
モチコは顔を上げて、ミライアを見つめた。
月明かりが、先輩のまつ毛を照らす。
きらきらと輝くまつ毛から、瞳に影が落ちている。
きれいだな。
「……先輩。マナを身体に取り入れるとき、どこから最も多く取り入れるか、知っていますか?」
「いや、考えたことなかったな」
「全身の皮膚からも取り入れることはできますが、それは全体の1%だそうです」
モチコは腕に力を込め、ミライアを抱きしめる。
「いまから、ありったけの私を、先輩にあげます」
「モチコ……?」
モチコの顔が、無表情ながら、真剣さを帯びる。
ホウキの上で抱き合うふたりの顔が、ぐっと近づく。
「先輩……」
モチコは最後に、そっとささやいた。
続きがありそうなその言葉の先は、口にしなかった。
言葉にする前に、唇がそっと触れ合う。
嵐に囲まれた、その小さな夜空で。
ひっそりと。
月だけが見ていた。
それは長いキスだった。
ミライアを抱きしめていたモチコの腕が、やがてミライアの背中から離れる。
その手が空中をさまようと、ミライアの手がそれを掴んだ。
手のひらを合わせ、指と指がからむ。
モチコはずっと瞳を閉じていた。
ミライアも、余計なことを考えるのはやめ、瞳を閉じる。
モチコをぜんぶ、受け入れることにした。
モチコの身体から、緑色の泡のようなオーラが溢れ出す。
それが、唇をとおして、ミライアの身体へと流れ込んでいく。
ミライアの1日分の魔力を、はるかに超える量だった。
この小さい身体に、これほどの魔力があったのかと、ミライアは驚く。
やがて、モチコのまとっていたオーラが消え、そっと唇が離れる。
薄く目を開けたモチコは、そのままぐったりと、ミライアにもたれかかった。
「……あとは、お願いします。……先輩」
「わかった」
ミライアは、モチコを胸でしっかりと受け止めると、ホウキの姿勢を整えた。
モチコから受け取った魔力で、オーラを練り始める。
それは明らかに、今までとは桁違いな量のオーラだった。
黄金色のオーラが、まわりのすべてを包む。
輝く光が、身体からとめどなく溢れてきて、ミライア自身もまぶしいくらいだった。
ミライアは確信した。
「これなら……いける!」
ばすん!
音とともに、ホウキが夜空に放たれる。
すさまじい量のオーラをまとったホウキは、激しい閃光となって、一直線に台風へ突入した。
黄金色のオーラの奔流は、猛烈な台風の渦でさえも跳ね返した。
まるで螺旋を描くように、嵐を削りながら穴を空けていく。
ホウキが翔けたあとには、黄金色の軌跡が、稲妻のごとく刻まれた。
それはまさに、
“疾風迅雷の魔女”の名に相応しい。
――高らかに夜空を翔ける、魔女ミライアの姿だった。
ミライアは全力で嵐を突き抜けながら、残っていたスクロールを、すべてまとめて握った。
飛びながら腕を回転させ、スクロールを放つ。
台風の内側ですべてのスクロールが炸裂し、あたりは激しい爆発音に包まれた。
そして、
ホウキは台風を突き抜けて、嵐の雲から脱出した。
「よし! 抜けた!!」
叫ぶミライアの声。
モチコはとぎれとぎれの意識のなかで、台風の方を見た。
内側から大量のスクロールを撃たれた台風は、まるで不意を突かれた魔物のように身をよじり、その巨大な形を崩していった。
そのまま、一気に暴風域の端まで出たホウキは、スピードを落とす。
ここまでの脱出で全力を使い切ったミライアに、もういつものスピードは無い。
ここからは、のんびりとした飛行だった。
「モチコ、帰ろう」
「はい」
タワーへ向かうホウキの上で、ミライアはやさしく微笑むと、胸に抱きついているモチコのおでこを撫でた。
そのまま、モチコの髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど、頭を撫で始める。
モチコはそれを拒まずに受け入れながら、目を開いて夜空を眺めた。
雲の切れ間から、美しく輝くアルビレオが目に入る。
暴風域を出れば、もうすぐタワーとの通信が回復するだろう。
リサさん、心配しているだろうな。
アリサ隊長や、ピコットさんは回復したかな。
ちーちゃんに、借りた本を返さないと。
マルシャにおかえりって言ってもらおう。
おシズさんがコロッケ山盛りで待ってるかも。
あぁ、ランランにもホウキのお礼をしておいてやるか。
みんなに、シグナスを飛び出したことを謝らなきゃ。
復帰したら、やることがいっぱいだ。
すこし強い風が吹いて、ホウキが揺られる。
モチコは、ミライアを抱きしめている腕に、ぎゅう、と力を込めた。
それから、ミライアの胸に、前のめりにのしかかる。
「どうした、モチコ?」
不思議そうに尋ねたミライアに、モチコは身体をすこし持ち上げる。
ふたりの顔が近づく。
そして――。
耳元でささやいた。
「先輩、今夜のキスは、ふたりだけの秘密にしましょう」
台風のよる、君、ひそやかに。
台風のよる、君ひそやかに、魔女高らかに
―― 完 ――




